バスに揺られて、夜が来て
学校帰りの高校生の群れと入れ替わるようにしてぼくらは十八時二十分発のバスに乗り込んだ。詩織姉ちゃんによると、ミナミの現在の家は(つまり両親の家は)ちょうど隣の市とのさかい目あたりにあるようだ。同じ市内とはいえ合併前は隣町だったところのはずれだから、けっこう遠い。
「三年くらい前に、道路拡張のために立ち退きになったらしいよ」
「へえ」
「……詩織姉ちゃん、毎年命日にはお線香あげに行ってるんだって」
「ふうん。詩織って情にアツいとこあるからね」
ミナミは他人事みたいに言った。シートにぐったりと寄りかかって、窓の外を流れる景色を見ている。
ぼくらは運転席そばのふたり掛けの座席に座っていた。つぶれたパチンコ屋、コンビニ、選挙の看板、酒屋、小さな公園。反対車線のほうには国道に沿うようにひかれた線路跡があって、そのすぐ向こうは海だ。つまり、ぼくらは海岸線をひた走っている。窓ガラスにミナミの横顔が映っている。口をきゅっと結んで、感情を読み取らせまいとしているかのようだ。運転手さんが三つ目の停留所の名を告げたとき、ミナミは重い口を開いた。
「やっぱ、だめだよ。亡くなった娘が、当時の姿のまま帰ってくるなんて。いけないことだよ」
「だって、それ以外にミナミが行くとこ、ないだろ。父さんにミナミのことばれたし、しかもこれから頑張って早く帰ってくるなんて言ってるし、きっと今までみたいにはいかなくなる」
それに、とぼくははさらに続けた。
「ミナミの両親、喜ぶんじゃないかな。そりゃ最初はおどろくかもしれないけど」
「でも、また悲しませることになる」
ミナミは抑揚のない声で言う。
「あたしが、また十四年前に引き戻されていなくなったら、また同じ悲しみを味わうことになる。お母さんもお父さんもお姉ちゃんも、ようやくあたしのこと忘れて立ち直ったとこかもしれないじゃない。なのに」
「だからさ、なんで戻んなきゃいけないの。十四年前の、事故に会う寸前の、その瞬間に。ずっとここにいればいいって言ったじゃん」
なんでこんなにミナミが歯切れの悪いことばかり言うのか、わからない。戻れば自分が死んでしまうのに。逃げられるものなら、逃げたい。少なくとも、ぼくだったら。
「決まってることだから」
「なんだよ、それ」
ぼく頭をかかえた。
つぎ、とまります。機械に吹き込まれた女の人の声。ぞろぞろと、坊主頭のガタイのいい高校球児っぽい集団が扉の前まで移動してくる。そいつらが近づくと、体育のあとの着替えのときの匂いがした。じゃらじゃらと両替機が小銭を吐き出す音。ゆっくりとバスが停車して、ぞろぞろと降りていく。すると車内にはぼくらふたりと、反対側の席で窓にもたれて船を漕いでいる、化粧の濃いおばさんだけになった。
「ぼくはさ」
もそもそと小声で話し出したぼくを、ミナミはじっと見た。
「ぼくはね、また、会いたかったよ。戻ってきてほしかったよ、母さんに」
「……じゃあ、そう言えばよかったじゃん。さっき」
「え?」
「さっき、お父さんに、よ。お母さんに会いたいんだって、つっかかっていけばよかったじゃん。せっかく気持ちぶつけるチャンスだったのに。ばかみたい。いい子ぶっちゃって、かっこつけて意地はって」
「なんだよ」
思いがけずミナミがきつい言い方をしたから、ぼくもムキになって言い返す。
「ぼくの気持ちなんてわかんないくせに」
「わかるよ」
ミナミは憮然として言った。
「お母さんに会いたいなんて言ったら、お父さんに嫌われるとか思ってんでしょ、どうせ」
「……」
「図星でしょ」
運転手さんがぼくらの降りる停留所の名を告げた。居眠りしていたおばさんが、じろじろとこちらに不躾な視線を投げた。ぼくたちは、無言でバスを降りた。
黒くて生暖かい排気ガスを吐き出しながらバスが去って、ぼくとミナミはすっかり暗くなった夜道にぽつんととり残されていた。ふたりきりで。
波の音が聞こえる。あたりは人家もまばらで、国道から左手のほうに小さな集落みたいなものがあり、そこに商店やら病院やら郵便局なんかがあった。そこを抜けると、もうほんとになにもなくて、気がつけば周りは田んぼと畑ばかりになっていた。
ミナミは何も言わず、ずんずん歩いていく。新しい両親の家について、何か心当たりがあるようだった。 少しほっとする。勢いでここまで来たものの、詩織姉ちゃんのメールには番地までは書いてなかったし、書いてあったとしてもこんな何もないとこじゃ、正直、たどり着けるか不安になっていたんだ。
「……さっきの話だけど」
先を歩くミナミの後ろ姿につぶやく。
「もう遅いんだ。母さんに会いたい、って言っても」
ミナミはぴたりと歩を止めた。
「死んだんだ、八月に」
夏休みに入る前、父さんと一緒に母さんの入院している病院に行った。いきなり、母さんが病気で倫太郎に会いたがってる、と告げられて。
病室には、針金みたいに痩せて頬のこけた女の人がいた。ベッドから起き上がるのもしんどそうだった。無理しないでいいから、と父さんが母さんに言った。母さんはぼくを見て涙を流していた。なにがなんだかわからなかった。
「病気が見つかったときには、もう手遅れだったらしいんだ」
母さんが亡くなったという知らせが来たのは、八月に入ってすぐのことだった。葬式は斎場ではなくて、母さんの自宅でとり行われた。母さんと、その家族が暮らしていた家。小学生の子どもと、背の高い旦那さん。このひとが父さんとぼくから母さんをうばったひとなんだ。ふうん。意外とお人よしそうな顔してる。なんてぼんやり思った。
「悲しかった……?」
ミナミが聞いた。寄り添うようなやさしさのこもった声だった。
「それがね、ぜんぜん」
ぼくは首をふった。すすきの銀色の穂が、外灯のひかりに照らされて光っている。足元から虫の声が聞こえてくる。リーリー、ジージー。ひと夜の伴侶をもとめて泣く声。虫って、たしか、オスは交尾が終わったら死んで、メスも卵産んだら死んじゃうんだっけ、なんてぼんやり考える。
「悲しくないんだ。他人事みたい。ベタな恋愛映画とかのほうがよっぽど泣ける」
母さんの家族は赤い目をしてた。家族だから、当然、悲しいよな。一緒に暮らしてたんだもん。
「ぼくはちょっと自分がこわい。病院で、母さんがぼくの手を握ってきたとき、なんかガイコツみたい、って思ったんだ。ガイコツに手をつかまれたみたい、って。ひどいよね、自分の母親だよ?」
ぼくはそれから一度も病院に行かなかった。母さんがもう長くないことはわかっていた。母さんを憎んでいるわけじゃない。憎むにも値しないと思っていた。自分のこころの裏側に、永久凍土のようなつめたい場所がある、そのときのぼくはそんな風に感じて、背すじがうすら寒くなったのだ。
「こんなになる前に、もっと母さんに会っていたなら。どんな食べ物がすきで、どんな本を読んで、どうして父さんをすきになってどうして別れて、そんなことをちゃんと知っていたなら。違ったのかなあ……」
ちょろちょろと、水の流れるような音が聞こえる。用水路のような小さな小川が流れているらしかった。その流れは暗くてよく見えない。
「夏が近づくと、このへん、蛍が飛び交うんだよ、たくさん」
ミナミが言った。いつの間にか歩をゆるめて、ぼくの隣を歩いている。ときどきミナミの左手とぼくの右手がこつんとぶつかる。そしてまた離れる。
「おじいちゃんとおばあちゃんの家の近くなんだ」
「じゃあ……」
うん、とミナミは軽くうなずく。
「多分、立ち退きになったのをきっかけに、同居することにしたんじゃないかな。住所聞いて、ぴんときた」
バスを降りてから、もう結構な距離を歩いている。空気はどんどん冷えてゆくのに、歩いているせいでからだは温かだった。思い切ってミナミの手をとる。家ではあんなに大胆なことをしたくせに、そうするのにはやっぱり勇気がいった。
「ごめんね、きついこと言って」
ミナミは小さく謝った。
「でも、もっと素直になったほうがいいと思って。突然、お別れのときが来ることだってあるんだからさ」
「……そうだね」
「嫌いになんてならないよ。あんたを置いていったり、しないよ」
「うん」
ミナミは一生懸命ぼくを励ましてくれる。
自分の運命を知って、いちばんショックを受けているはずのミナミなのに、ぼくの話に耳をかたむけて、真剣に考えてくれる。
そんなミナミの横顔を見てると、ぼくのとがっていたこころも、少しずつ、まるくやわらかくなっていく。
病院で母さんに会って、それから母さんが亡くなって、はじめて母さんの家族と対面して……、その一連の出来事と自分の感じたことが、今までてんでばらばらで、ぼくはずっとどうしていいかわからなかった。
でも、今。パズルのピースを埋めるようにそれらが自分の中で少しずつつながっていくのがわかった。あたたかな血が流れるように、まだ乾ききっていない傷から、じわじわと感情があふれだしてくる。
ぼくはずっと母さんが恋しかった。さびしかった。そばにいてほしかった。
でも、それを言ってしまうと、父さんがつらい思いをする。
自分を置いていった母さんより、今、自分をがんばって男手ひとつで育てている父さんのほうが大事だ、そう思った。
始業式の前日、何時間もかけてぞうきんを縫ってくれた父さん。会社をやすんで、学校で熱を出したぼくを迎えに来た父さん。クラスでひとりだけ逆上がりのできないぼくを、夜の公園で特訓してくれた父さん。そんな父さんを傷つけたくなかった。
そして、ミナミの言うように、嫌われたくなかった。捨てられたくなかった。だれかが急にいなくなって、たったひとり置き去りにされる。それはすごい恐怖だった。
でも。母さんのことがもっと知りたかったのも、本当の気持ちだ。病院で、ぼくを見た母さんは涙を流していた。怖かった。母さんはあのとき、もう半分死んでいるひとだった。見たくなかった。そうだ、ぼくはずっと認めたくなかった。もう母さんはいないということを。
ぼくは、父さんと母さんへの、ふたつの思いの間で、ずっと揺れていたのだった。
「この辺だよ」
ミナミがぴたりと歩くのをやめてしばらくじっと目を凝らした。
「あそこ。あの家」
ミナミが指さすほうには、ふるい屋敷が何軒か寄り添うように建っている小さな集落がある。ワオオオオと犬が遠吠えをするのが聞こえる。
「あの家って、どの家」
「あの、でっかい柿の木があるの、わかる?」
「うん」
「そのすぐ横。家が新しくなってるからすぐにはわかんなかったけど、間違いない。あの柿の木はぜんぜん変わってないもん」
ぼくはミナミの手をぎゅっと握った。自分の手が汗ばんでいるのがわかった。
「行こう、ミナミ」
「……でも」
ミナミは石みたいにその場を動こうとしない。
「どうして?」
「だって」
「だいじょうぶだよ。最初は驚くかもしれないけど、きっと受け入れてくれる。だって家族だもん。これから、戸籍とかどうすんのかわかんないけど、また学校通って、できればぼくとおんなじ高校行って、それから、作曲の勉強もできるよ」
ミナミの背中をぽんと叩いた。考えようによっては、むしろラッキーだったんだ、ミナミは。そのまま車にぶつかって死んじゃわないで、ちょっと寄り道してこの世界に来て、さ。十四年経てばそりゃ勝手は違うかもしれないけど、そんなのすぐに馴れる。もういちど、やり直せる。
そんなぼくの思いとはうらはらに、ミナミは青い顔をして立ちすくんでいる。ぼくの手の中にあるミナミの手は、氷みたいに冷えている。
「あたし怖い」
「ミナミ……?」
ミナミの細い肩が震えていた。
「みんなが、あたしのこときれいさっぱり忘れてたら、どうしよう……」
「そんな事ないよ。忘れるわけないじゃん」
「幽霊だって、怖がったら、どうしよう」
「大丈夫だよ。詩織姉ちゃんだって、説明したらわかってくれたろ?」
「そうじゃなくって……ねえ、あたしがいなくなるって、どういうことなんだろう」
「ミナミ……」
「死んでいなくなっちゃうって、どういうことなんだろう。お父さんとお母さんを見たら、あたしの家族に会ったら、それを思い知らされてしまうような気がするの。ここは、あたしがいない世界」
「ミナミ」
ぼくはそれでも、どうしてもミナミに、ここに残ってほしい。いなくならないでほしい。もう二度と、大事な誰かを、うしないたくない。
「ぼくが一緒に行くから。な?」
永遠にも思えるような長い沈黙のあと、ミナミはようやく、よわよわしくうなずいた。