うす青い闇
魔法が解けた。時が止まった。ぼくはつめたい氷水をかぶったみたいに完全に我にかえった。
「何してるんだ」
父さんのかすれた声。ミナミはすばやくからだを離した。
「そちらのお嬢さんは?」
「あの。違います。えっと、私、倫太郎くんの学校の友達で……」
あわてて弁解するミナミを父さんは途中で遮った。
「いいんだよ、そんなにびくびくしなくても。ごめんね、うちの息子が失礼をして」
ミナミは、はあ、と曖昧に笑い、
「えっと、ちょっとお手洗い、借ります……」
と言ってじりじりと後ずさりし、キッチンと廊下を仕切るガラスの引き戸を後ろ手でがらがらと開けて出て行った。
まずいことになった。父さんに見つかった。なんで今日に限って帰りが早いんだ。
「倫太郎」
「なに」
気まずい。非常に気まずい。人生初の、そしてこれから二度と訪れないかもしれないラブ・シーンの最中に、家庭内別居中の父親と鉢合わせ。しかもぼくはいわゆる不登校って状態だし。
「えー、あ、何て言ったらいいものかな、こういう時。お父さんはど肝を抜かれた。あの子、彼女か? なかなか可愛いじゃないか」
「いいよお世辞は。そんなでもないだろ。ていうか彼女じゃないし」
「冷たい言い方だなあ。素直じゃないやつはすぐふられるぞ」
父さんはくすりと笑ってスーパーの袋をダイニングテーブルの上に置いた。
「ひさびさに、一緒に焼肉でもしようかと思って。どこにしまったかなあ、ホットプレート。たまには使ってやらんと可哀想だもんな。良かったら、あの子も一緒に」
父さんはスーパーの袋から中身を取り出しながら朗らかに言った。和牛カルビ焼肉用、牛肩ロース焼肉用ファミリーパック、ウインナー(あらびき)、豚トロ焼肉用。
「肉ばっかじゃん。ダメだよ、野菜も食べないと。もう若くないんだから」
「はは。つい」
「父さん」
「ん?」
「怒んないわけ」
「何を?」
「だからさ、この状況」
ぼくは父さんの手から肉のパックを奪うと、再びレジ袋の中に戻しはじめた。ぼくはいったい、何をしてるんだ?
「焼肉とか呑気なこと言ってる場合じゃないじゃん。息子がさ、学校も行かずに、家に女の子連れ込んでるんだよ。しかもテストだよ、今日。ガツンと言うべきとこなんじゃない? まあ、殴れとまではいわないけど」
父さんはふうと大きく息をついた。
「ガツンと言えばお前の気が済むのか」
「気が済むとか、そういう問題じゃなくて」
「まあ、たしかに面食らった。妙な感じだな、その、息子のああいう場面に出くわすなんて。でも、実は少し安心もしたんだよ。ちゃっかり彼女なんてつくって、倫太郎も普通の十四歳の男の子なんだなあ、って。お前はおなじ年頃の子と比べて、しっかりしすぎてるからな。でも、ちゃんと中学生らしい節度のある交際をするんだぞ」
「普通の十四歳、ね。中学生らしく、ね」
生活指導の教師みたいなこと言うなよ。少し苛立った。
「父さんもさ、連れてくればいいじゃん」
「誰を」
「彼女」
一瞬、へんな間があって、はは、と父さんが笑った。
「知ってたのか。かなわんな、お前には」
「一緒に暮らしてれば気づくよ。再婚するつもりなの?」
「再婚、ね」父さんはぽりぽりと右頬を掻いた。
「再婚は、しないよ。お前が一人前になるまでは」
「なんで。遠慮しないでいいよ。ぼく、もう子どもじゃないんだし」
「子どもだよ」父さんはきっぱりと言った。
「倫太郎は、まだ、子どもだ」
じっとぼくの目を見る。
「無理して、なんでもわかったようにふるまわなくていいんだ。もっと無茶やって心配かけたっていいんだ。甘えてわがまま言ってもいいんだ。まだ、子どものままでいていいんだ」
「何言ってんだよ」
「ごめんな、いろいろ、寂しい思いばかりさせて。今週から、がんばって早く帰れるようにするから」
「……」
子どもでいていい、だって? ぼくが本当に無茶してわがまま言ったら困るくせに。何のためにぼくが今まで頑張ってきたと思ってるんだ。
「じゃあ、なんで母さんのこと何も教えてくれなかったんだよ」
気づいたら、ことばが勝手に口をついて出ていた。
「すごい遠くに引っ越したから会えない、なんて言ってさ。なんだよ、同じ県内にいたじゃないか」
「倫太郎?」
「あんなになるまで。あんなになるまで、何も」
「……母さんに、会いたかったのか、ずっと」
「べつに会いたかなかったけど」
どっちだよ。矛盾してる。
父さんも、ついに押し黙ってしまった。
「……もう、いいよ」
ぼくは父さんのわきをすり抜けて、キッチンを出た。ぴしゃりと力まかせに引き戸を閉める。何かにつまづいて足もとを見ると、石みたいに座り込んでいるミナミがいた。
「なんだよ。立ち聞きしてたのかよ」
涙を見られたくなくて、わざとぶっきらぼうに言った。ミナミは
「立ち聞きじゃないよ。座り聞き」
と弁解した。すぐさまミナミの手首をつかむ。
「行くぞ。ミナミ」
「え、ちょ、ちょっと」
いったん部屋にもどってクローゼットから上着を二着、乱暴にひっつかんだ。それから、ミナミの手をひいたまま、ずんずんと玄関へ向かって歩く。
「倫太郎」父さんが追いかけてくる。「どこに行くんだ」
「この子を家まで送ってくる」
低い声で答える。スニーカーの紐を結びながら。
「べつに家出したり自殺したり非行に走ったりしないから、安心しなよ」
日が落ちた街にはうす青い闇が迫ろうとしていた。空はすみれ色に染まり、どこまでも澄んでいた。向かいの沙雪の家からはなんだかクリーミィな匂いが漂ってきている。今晩はきっとシチューかグラタンなんだな。せわしなくぱたぱたと動き回りながら子どもたちを叱り飛ばしている沙雪のお母さんの姿が目に浮かんだ。――あんたたち、ダラダラしてないで勉強しなさい。勉強しないんだったら少しは手伝ったらどう? あ、いいのよリンくんは手伝わなくても。お皿、そこに置いといていいから。あ、せんべいあるのよ。食べる?
紗雪の家はあったかくて。なぜだかぼくにはいつも、少し、居心地が悪くて。ぼくは紗雪んちの子どもじゃないから。不機嫌なばあちゃんとふたりきりの家に帰らなきゃいけなかったから。
そして、そのばあちゃんも亡くなってしまった。いつだってぼくは、ひとり、取り残されてしまう。
ミナミが小さくくしゃみをした。十一月のたそがれの空気は冷たい。
「どっちがいい?」
ダウンジャケットと、カウチンジャケット。ぼくの。ミナミは、こっち、とカウチンのほうを指差した。ぼくだってそんな大柄なほうじゃないのに、ミナミが着るとぶかぶかで肩も袖もあまってて、なんだか胸がきゅっとする。
「宵の明星って、あれかな」
ミナミがぼくから目をそらし、東の空を指差した。ぽつぽつと明かりが灯り始めた家並みの上を走る真っ黒い電線の上に、キラリと光る星ひとつ。
「一番星のことだよね、それ。金星だっけ」
「たしか」
ミナミは誰かが飲み捨てたコーラの空き缶をカラカラと蹴飛ばしていた。音にびびったのか、そばの駐車場から白い猫が一匹飛び出してきて、ミナミが追いかけようとするとものすごいスピードで走り去っていった。
「逃げられちゃった」
「みたいだね」
僕はうつむいて携帯をいじっている。
「何してんの」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「誰に」
「詩織姉ちゃん」
「かくまってくれるかって?」
「違う」
すぐに返信がきた。ぼくの携帯の、青空いっぱいにひろがる白い翼が薄暗い夕闇の中で光をはなった。かつて撮った空の写真。ぼくはなんだかそれがまぶしくて、一瞬目を閉じる。そしてメールをあけた。
「ミナミ、行くよ」
「は? どこに?」
「ミナミの家。送るって言ったろ」
ぼくはミナミの手をとって走り出した。
ぜったいに、死なせたりなんか、しない。