詩織姉ちゃんの話
一九九八年十月二十日。忘れもしない。この日は朝からよく晴れていた。空が高くて、私は「あ、今日から秋のはじまりだ」って思ったんだ。そういうこと、ない? ふと見上げた空の色とか雲の形とか、校庭の桜の葉の色の濃さとかで季節が変わったことに気づくの。あたしは夏から秋へ変わるときの、すがすがしいような寂しいような、大事な何かをどこか遠いところへ置き去りにしてきてしまったような感じがとくに好きだった。ミナミが学校に来たら真っ先に教えようと思った。今日の空、特別きれいだよ、って。ミナミはそういうことを共有できる唯一の友達だったから。
ちょうど文化祭前で、うちのクラスは合唱の朝練なんてしてた。行事になるとやたらはりきるクラスでね。でもミナミは来なかった。どうせ寝坊でもしたんでしょ、いつものことだと私は気にもしなかった。ミナミは遅刻常習犯だったのよ。学校来るのもいつもギリギリ。そのくせ皆勤賞なんて狙ってて熱が三十九度あっても休まないの。だけどその日は一時間目が始まっても二時間目が終わってもミナミは来ない。お昼休みが終わって午後の授業が終わっても来ない。一日中担任の先生はばたばたあわただしく職員室と教室を行ったり来たりして、ときどき窓の外に向かって何かを祈ってて、私はなにかが変だと思ってた。結局、ミナミは二度と学校に来ることはなかった。
つぎの日の朝、私たちは担任からミナミの死を告げられた。担任は――社会人二年目の若い先生だった――泣きはらした真っ赤な目をして、つっかえながらこう言った。
「佐藤南さんが昨夜息を引き取りました。登校中に、信号無視の車にはねられたそうです」
ねえ、からだに馴染んだ、しかも簡単な日本語なのに意味がよく飲み込めないことって、あるんだね。先生の言葉の、単語のひとつひとつがばらばらに宙に浮いて脳の回路に届かないの。
――サクヤ、イキヲ、ヒキトリ、マシタ。
ところどころでクラスメイトのすすり泣きが聞こえた。重い、灰色の悲しみがじわりじわりとみんなを侵食しはじめた。私は騙されるもんか、って思った。ばかでしょ? これはたちの悪い夢か、もしくはドッキリだと思ったの。だって私たちはまだ中学生で、背がたけのこみたいにぐんぐん伸びてるときで、そんな私たちのうちの誰かがいきなり死ぬなんてあり得ないって思いこんでた。どこからくるんだろうね、この、根拠のない自信。大人だろうが子どもだろうが、誰だって、いつ死という深い穴の中に落ちるかわからないのに。そう、いつかは絶対死ぬのにね。
全校集会が開かれて、校長がいのちの大切さとか佐藤さんのぶんまで一生懸命生きましょうとかみんなに話してた。そろそろ目覚ましが鳴る頃だ、と思った。本当になんだか足もとがふわふわして、現実じゃないみたいだったのよ。今思えば、パニックになってたのね、私。私はミナミの死を必死で拒否しようとしてたんだ。
お通夜に行くとミナミの両親とお姉ちゃんがね、もう見ていられないくらいに痛々しい姿で――お母さんなんて別人になっちゃったかと思った――、詩織ちゃん南にお別れを言ってあげて。南はいつもあなたの話をしてた、きっと喜ぶわ、って。まだミナミが生きてるみたいな言い方なのよ。私、正直言って怖かった。お棺の中のミナミを見るのが。目立った外傷はあまりなくて、綺麗な遺体だった――遺体、だって! 遺体なんて見るのはじめてだったのよ。しかも親友の。真っ白な顔で、目を閉じて、いつも直らないって愚痴ってた髪のくせも綺麗に直されて、おしろい塗られて。たぶんそれがはじめての化粧よ。でもね、もうそれはミナミじゃなかった。ただの遺体、だった。ミナミの細胞は活動して生まれ変わり続けることをやめた。
よく、肉体はタマシイの入れ物にすぎないとか言うじゃない? でもそうじゃなくて、きらきらした瞳とか気をぬくとちょっとがに股になる足とか、男子にうつつを抜かすなんて馬鹿よなんて言う生意気な口とか、そういうすべてがミナミだったの。そしてそんなミナミはもうどこにもいない。長いトンネルから抜け出たときみたいに急にまわりの音や映像が鮮明に私の中になだれこんできて、それと同時に圧倒的な悲しみが襲ってきた。痛くて、苦しかった。でも悲しくて痛いってことは私が生きてる証拠で、ミナミはもうそれすらも感じないと思うとまた涙が出てきて、ダムが決壊したみたいに私は泣いた。
私に前のような日常が戻ってくるのに、長い時間がかかった。戻ってきたけど、まったく前と同じってわけじゃない。ミナミがいなくなってからの十四年、わたしはふとした時にミナミを探すくせがついた。秋のはじめの空、飛行機雲、忘年会帰りに酔っ払って見上げた冬の星空―ー、人は亡くなると星になるなんて、誰が最初に言ったんだろうね? 気づいたら私も小さな子どもみたいに、ミナミはあの高いところにいる、なんて信じてたのよ。
「そしたらほんとにあたしが現れたから、びっくりしたでしょ」
詩織姉ちゃんの長い話が一段落ついたところで、ミナミがおどけた調子で言った。だけどローテーブルの下に隠れた足は小刻みに震えていた。ぼくはとてもじゃないけど詩織姉ちゃんの話をまともに聞いてられなくて、というかミナミの顔を見ているのがつらくてキッチンとリビングをやたらと行ったり来たりしていた。コーヒーを淹れて、なくなったらおかわりをついで、なんてことして。
空のカップに四杯目のおかわりを注ごうとしたら、詩織姉ちゃんは「これ以上飲んだら今夜もまた眠れなくなっちゃう」と言って制した。「あたしもいらない」ミナミもそう言って力なく笑った。
レースのカーテン越しに、傾き始めたやわらかな秋の陽が差し込んでぼくらを照らしている。外の風は少しはやんだだろうか。まともに思考することを拒否したぼくの脳はそんなことをぼんやり思った。この感じ。あの時と似ている。
「残酷だと思うけど」
詩織姉ちゃんがふたたび口を開いた。
「やっぱりミナミはここにいるべきじゃない。帰り方がわからないって言ってたけど、きっと来るべき時が来たらもとの世界に戻ることになると思う。ずっとこのまま、ってことはあり得ない」
視線を落としたまま、つぶやくように続けた。
「ごめんね。私やっぱり、こんな話、するべきじゃなかったのかもしれない」
「それは違う」
ミナミが詩織姉ちゃんの言葉をさえぎった。
「ショックじゃないと言ったら嘘になるけど……、でも、何も知らずにもとの世界にもどって、いきなり死んじゃうよりはマシだよ。気に病まないで。詩織の言うことはもっともだと思う。いつその時が来るかわからないけど、あたしはいずれ元の世界に引き戻される。そういう運命だから」
「運命?」
ぼくは思わず聞き返した。運命って、一体何なんだ?
太陽はどんどん西へ傾き、一日の最後をかざる朱い輝きをはなって沈んでいった。窓から見える空は端からてっぺんのほうに向かって透明なオレンジ、桃色、そしてうす水色へと変化しながら、その輝きの余韻にひたっていた。まるで美しい音楽を聴いたあとみたいに。
ぐるるる。たそがれの怠惰な沈黙を破る間抜けな音。ぼくとミナミは顔を見合わせる。
「……ごめん。あたし」
ミナミがぺろりと舌を出した。
「やんなっちゃう。こんな時でもおなかが減るなんてさ」
「そろそろ、メシの用意、しなきゃね」
なにがいい? ミナミの顔をのぞきこんで聞く。
「急にやさしくなんないでよ。気持ちわるい」
「ぼくはもともとやさしいよ」
「そうだね。……ありがとう」
「急に素直になるなよ。気持ちわるい」
ミナミは力なく笑うと、立ち上がって猫みたいにうーんとのびをした。詩織姉ちゃんが帰ってからぼくらは二時間近くソファにもたれてぼうっと放心していた。ひどく疲れてて、一気に歳をとったかのようだった。
「味噌汁が飲みたい。白いごはんと、お味噌汁。お母さんのつくったお味噌汁」
ミナミはぽつりと言った。
「あの日の朝、ちゃんとお母さんのごはん食べてくれば良かった。ごはんは? って聞かれて、あたし、いらない、って。最後にお母さんにかけた言葉が、いらない、だなんて」
ミナミの声が震えている。
「倫太郎と初めて会った時、あたし、家を出てからの記憶が曖昧だって言ってたでしょ?」
ぼくはうなずく。
「……ここ最近ね、夜中に同じ夢ばかり見るの。制服姿のあたしが走ってて、突然大きな黒いものにぶつかりそうになる夢。ぶつかる直前で目が覚めるの」
ミナミはうつむいた。
「今日、血相変えて乗り込んできた詩織を見て、はっきり思い出したのよ。あの時のこと。大きなブレーキ音がして目の前に車のボンネットが迫ってて、そのまま視界が真っ黒になったの。一瞬、ふわりとからだが宙に浮いたようなかんじ……無重力ってかんじ? がして それで目を覚ましたらあたしはからだ一つで座り込んでた。十四年後の、同じ場所に」
ミナミは鼻水をずずっとすすった。
「きっとあたし、車にぶつかる直前の一瞬で、時空を飛び越えちゃったのね。……時空だって! あたし、正気かな」
そう言って自分の頬を両手でぱんぱんと叩いた。無理に明るく振舞っているのがみえみえだ。そう思ったつぎの瞬間。
気づいたら、ぼくはミナミをぎゅっと抱きしめていた。
どうしたんだ、ぼく、すごい大胆だ。ミナミの、細っこくてあたたかなからだ。生きてる。そのいのちのぬくもりをたしかめるようにぼくはミナミの背中にまわした腕に力をこめる。
「生きてるじゃん、ミナミ」
そうだよ、生きてる。ミナミはちゃんと生きてる。
「倫太郎。ちょっと何すんの。離してよ」
「いやだ」
「離してってば。すけべ。ヘンタイ。セクハラ」
「どうせぼくはすけべでヘンタイでセクハラ野郎だよ」
「開き直った」
「開き直らなきゃ、こんな恥ずかしいまねできないよ。ミナミ」
「なに」
「帰るなよ。ずっとここにいればいいよ。そうすれば死ななくてすむ」
「無理だよ」
「どうして」
「どうして、って……」
離して、ともがいていたミナミがすっと全身の力を抜いて、ぼくの肩に頭をもたげた。そしてゆっくりと顔をあげた。ミナミの、涙で潤んだ瞳にぼくが映りこんでいる。離したくない。ミナミが目を閉じる。ぼくはそっと顔を近づけていく。何か邪悪な魔法にかかったみたいにぼくらは抗いがたい力につき動かされていく。あと五センチ。二センチ。一センチ……。
「倫太郎」
聞きなれた野太い声がして振り返ると、スーパーの買い物袋をさげた父さんがいた。