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1998年、10月、20日

   

「あたしの顔になんかついてる?」

 レトルトの親子丼をかっこんでいたミナミが、ふと箸をとめて不思議そうに聞いた。

「……ごはんつぶ」

 ミナミはあわてて口の端を手で拭い、ちらりと上目遣いで俺を見た。

「ガッコ、行かなくていいの? 試験なんでしょ?」

「……いいんだ」

 つけっぱなしのテレビから、お昼の情報番組のテーマソングが流れている。試験。学校。なんだかすべてがどうでもいい。どんぶりの中の、甘辛い汁を吸ったごはんつぶのひとつひとつを見つめながら、ぼんやりと昨日の沙雪との会話を反芻する。

――きのう、スーパーであんたたちと別れて、家に帰ってから。お姉ちゃん、泣いてた。

――どうして。

――十四年前に死んだ親友が、いきなり目の前に現れたからよ。

――ちょっと。それって、どういう。

「……くらいうけといたほうがいいんじゃないの」

「え?」

「試験くらい受けといたほうがいいんじゃないかって、言ってんの。なにボーッとしてんの。おかしいよ、昨日から」

 ミナミが眉間にしわを寄せてぼくを睨み付けている。

「あたし、やだからね。あたしのせいで倫太郎が留年しちゃうなんてことになったら」

「中学に留年はないよ」

「なにその言い方! ひとがせっかく心配してやってんのに!」

 ミナミはぶつぶつ文句を言いながら空になったどんぶりを流しに運びはじめた。ぼくはそのうしろ姿を目で追う。二本の、ちょっとO脚ぎみの足でしっかり台所のフローリングを踏みしめている。蛇口をひねって水を出している。洗剤をつけたスポンジをくしゅくしゅもんで泡立てている。

 生きてる。幽霊なんかじゃない。ミナミは生きてる。ごはんも食べるし息もしている。うすい胸の中の小さな心臓は、きっとはずむように脈打って、小指の先っぽに至るまであつい血液を送り続けているんだ。いま、この瞬間も、休むことなく、絶え間なく。

――嘘だと思うなら、お姉ちゃんに聞いてみればいいわ。

 沙雪の言葉が蘇る。

――お通夜にもお葬式にも行って、お棺にさよならもしたんだって。からだが干からびてしまうくらい涙を流したって。昔の写真も借りてきた。あの子で間違いないでしょ?

 手渡された写真には、教室で肩を寄せ合って笑っているセーラー服の女の子がふたり。ひとりは真っ黒に日焼けした、ショートカットのまだあどけない顔つきの詩織ねえちゃん。もうひとりは……

「倫太郎。何見てんの」

 ミナミがぼくの背後から腕を伸ばして写真をうばった。

「あ、それは」

「これ、詩織から借りてきたの? すごい! これ、二学期のはじめに撮ったやつだ。あたしたち、写真いっぱい撮りためてるの。卒業するときタイムカプセルに入れて埋めようね、って言って」

――それにしても、案外リアルに見えるのね、幽霊って。あたしはじめて見たわ。ほんとに生きてるみたい。

 生きてるみたい、か。

 ゆうべ一晩中考えてた。沙雪はミナミが十四年前に死んだと言った。たしかにタイムスリップより、幽霊のほうがまだあり得そうな話ではあるけど、でも。でもここにいるミナミは幽霊なんかじゃない。それは絶対に違う。生きてるみたいじゃなくて生きてるんだ。それが証拠に手だって握れた。やわらかい女の子の手だった。

 そして、詩織姉ちゃんの写真に写ってるってことは、タイムスリップ説はほぼ確定だ。動かぬ証拠が現れたのだ、認めざるを得ない。でもそれはこのさいもうどうでもいいことで、問題はミナミがいつ死ぬのかってこと。少なくともミナミはここに来る前の時点では「まだ」死んでない。じゃあ、もしミナミが元の世界に帰ったらどうなるんだ? もともとミナミには未来なんてなかったってことか? ミナミの時間は十四歳で止まってしまうのか? 何がなんだかわからない。頭がおかしくなりそうだ。

「倫太郎。あたし、これからどうなるのかな」

 ミナミがぽつりとつぶやいた。

「昨日、行ってみたの。あたしが座り込んでた交差点のあたり。元の世界で最後に見た景色のあるとこ。何か、元の世界にもどる手がかりがあるんじゃないかって……」

「何か、わかった……?」

「何も」

 ミナミは首をふった。

「どうしようもなくて、ひとりでそこにたたずんでたら、無性に泣けてきちゃった。もう十日も経つんだよ、あたしがここに来てから。お父さんやお母さんやお姉ちゃん、今頃どうしてるんだろう」

「ミナミ」

 ぼくが次のことばを言おうとした、まさにその瞬間。呼び鈴が鳴った。


 外は風が強いらしく、ドアを開けると砂ぼこりを吸い上げて舞っていたつめたい空気が一気になだれ込んできた。校庭のすみっこに吹き溜まっているような、かわいた落ち葉のにおいがした。

 訪問者は、かつての(いや、現在もか?)ミナミの親友だった。

「詩織ねえちゃん。仕事は?」

「休んだ。昨日から混乱してて、とても仕事にならない」

 詩織ねえちゃんは幽霊みたいに玄関先に突っ立っていた。目の下にくまができて、どことなくやつれている。細身のジーンズにグレーの薄手のニットという飾り気のない格好だけど、それがかえってからだのラインをほどよく強調していて、彼女は大人ぶっておしゃれしている沙雪とは違う、ほんものの大人の女のひとなんだな、なんてことをふっと思った。あの写真に写っている、いかにも活発なスポーツ少女といった風情の十四歳の面影は薄れていた。

「ミナミに会わせて。いるんでしょう?」

「あ、ちょ、ちょっと」

 詩織ねえちゃんはずかずかと家の中に上がりこんだ。ぼくの制止も聞かず、我を忘れているかのようだ。

「ミナミ。ミナミ」

 行方不明になった我が子を探す母親みたいな声でミナミを呼ぶ。ミナミはリビングのソファに寝そべっていた。

「……詩織」

 ゆっくりと起き上がるミナミ。みるみるうちに詩織ねえちゃんの目のふちに涙がたまっていく。

「ミナミ。ミナミ。可哀想に。この世に未練があったんだね。そりゃそうだよね。まだ十四だったんだもん。ずっと気づいてやれなくて、ごめんね」

 大粒の涙をはらはらとこぼす。

「詩織ねえちゃん。ちょっと待ってよ。勘違いだよ。ミナミは幽霊じゃない」

 ぼくは詩織ねえちゃんの腕をひっぱって、ミナミに聞こえないように小声で耳打ちした。

「じゃあ何だって言うのよ。十四で亡くなった友達が十四のときの姿で現れてんのよ。幽霊以外の何者でもないじゃない」

「ちょっと。落ち着いてよ。何言ってんのさ」

 ミナミに知られてはいけない。自分が十四歳で死ぬ運命だということを。

「……ごめん。大人げなかった。大きな声なんか出して」

 詩織姉ちゃんは胸に手をあてて、ゆっくりと深く息をついた。そして呆然としているミナミをじっと見つめた。

「ミナミ。この世でやり残したことがたくさんあって無念かもしれない。恋もしたかったし、夢だって叶えたかったよね。でも。でも、ここはもうあんたのいるべき世界じゃない」

「ちょっとやめてよ、詩織ねえちゃん。違うったら」

「倫太郎は黙ってな」

ドスのきいた声。

「ミナミ。いつまでもこの世にとどまって、生きてる倫太郎を巻き込んじゃいけない。帰るべきところへ帰らなくちゃ」

「……詩織。そりゃあたしだって帰れるもんなら早く帰りたいよ。倫太郎にも迷惑かけてるのはわかってる。でも、もとの世界に帰る方法が見つからないの。それにさっきから何? 死んだ友達が現れたとか、生きてる倫太郎を巻き込むな、とか。それじゃまるで」

 ミナミは血の気が失せた白い顔で詩織ねえちゃんを、それからぼくをゆっくりと見据えた。

「まるで、あたしが死んだ人間みたいじゃない?」

 一瞬、鉛のような沈黙が訪れた。

「いや、あの。ごめんな。詩織ねえちゃん、最近おかしいんだ。ほら、仕事のストレスで。大変だな、大人って」

 つとめて明るい声を出した。詩織ねえちゃんは眼光鋭くぼくをにらみつけるやいなや、ぎゅっと左耳の端をつかんでひっぱりあげた。

「いててて」

「おかしいのはあんたでしょ、倫太郎」

「ちょっとはぼくの言うことも聞いてよ。よく見なよ。ミナミは生きてる人間だよ。十四年前の世界からタイムスリップしてきたの」

「タイムスリップぅ? 馬鹿じゃないのあんた。そんな非現実的な話。これだから最近の子は。外で遊ばないでテレビとネットとゲームばっかりだから現実と非現実の区別もつかなくなっちゃうのよ」

「幽霊だって充分非現実的な話じゃん。とにかくミナミは生身の人間なの。そばに寄って確かめてみなよ」

 ここまで言うとようやく詩織姉ちゃんはぼくの耳から手を離し、ソファの前に突っ立っているミナミにおずおずと近寄った。ミナミの手をとる。反対の手で、そっと、頬にふれる。

「あたたかい。……ミナミ」

「暴走機関車」

 ミナミがぼそっとつぶやいた。

「大人になってもちっとも変わってないね、詩織。向こう見ずで思い込みがはげしくて、ひとりで突っ走っちゃうとこ」

 やさしく、穏やかに微笑む。詩織ねえちゃんは眉をハの字にしてふたたびこみあげてきた涙をこらえている。どうしてだろう。ぼくはこのとき、十四歳のミナミのほうが二十八歳の詩織姉ちゃんよりずっと大人に見えた。

「ミナミ。倫太郎の言ってること、ほんとなの?」

 ミナミはこくりとうなずく。

「日付、覚えてる? こっちに、つまり、二〇十二年の世界に来る直前の日付」

「覚えてるよ。一九九八年、十月二十日」

「一九九八年、十月、二十日」

 詩織姉ちゃんは何かを確かめるように、ゆっくりとくり返した。そして口をつぐんだ。

「詩織。いいよ、話して。その日あたしに何があったのか。それからあたしはどうなったのか」

 ミナミはしずかに言った。すでに次の言葉を予期しているかのような、何かを覚悟しているかのような、揺るぎない瞳で。ぼくはごくりとつばを飲み込んだ。

 詩織姉ちゃんは一瞬視線を落としてふっと息をつき、ふたたび顔をあげてミナミの目をまっすぐに見つめた。そして口を開いた。

「一九九八年十月二十日。……ミナミが事故にあった日。ミナミが」

「死んだ日、なのね」

 涙のせいで最後まで話すことのできない詩織姉ちゃんに代わって、ミナミが続けた。

 詩織姉ちゃんは、ゆっくりと、話しはじめた。


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