浜辺で拾った女の子
いちおう2012年の日本が舞台になっています。固有名詞等、若干古びていると思いますがご容赦ください。
ぼくが彼女を見つけたのは、十月のなかばの、ひっそりとしずかな、朝の浜辺だった。
この日はぼくにとって、秋のはじまりの日だった。空気はきのうまでのそれとはがらりと変わっていたし、空は手が届かないくらい遠くにあった。つい最近までそこらじゅうにしつこくくすぶっていた夏の名残り――、アイスの棒やら花火の燃えかすやらすいかの皮の切れっぱしやら――も、もうすっかり消えてしまっていた。
砂浜を歩いていたぼくは、すぐに異変に気づいた。打ち寄せられた流木や貝がら、ひからびたサンゴの死骸なんかにまじって、何かががたおれこむようなかっこうで横たわっている。
近寄ってみると、それは女の子だった。
小さくてきゃしゃな女の子。息はある。顔色は青白くって、短い髪の毛を二つにわけて耳の下でむりやりくくっている。右のほうのゴムは今にもとれそうだ。
ゆうべ海から打ち上げられた人魚……、にしては尾びれがなくてしっかり二本の足が生えている。空から落ちてきた天使にしては、背中に折れた羽根なんぞはついていない。それに何より、ぼくの通う中学校の制服を着ている。
「さむい」
いきなりぱちっと目をあけて彼女が言葉を発したので、しゃがんでおそるおそる観察していたぼくはめんくらって、うしろのほうにしりもちをついてしまった。
「さむい。おなかへった。あたしなんでこんなとこにいんの」
聞きたいのはこっちのほうだよ。そう思ったけど、女の子が「さむい」と言ったときそばにいる男子のたしなみとして、ぼくはおずおずと自分の学生服を脱いで差し出した。ぼくはべつに寒くないし。
ありがと、と言って彼女はとくに躊躇も遠慮もせずにぼくの学生服を受け取り、自分の肩にかけた。よかった。どこも具合は悪くなさそうだ(機嫌は悪そうだけど)。場合によっちゃあ救急車を呼ぶべきかも、なんて考えていたんだ。
夏のさかりにはあれほど人であふれていたこの海も、今では冗談みたいに静まりかえっている。水平線ちかくを照らす太陽の光は穏やかで、波の音すらもどこかやさしく、そして、どこかさびしげに響く。
波打ち際で、ひかりが水と遊んでいる。きらきら、ちかちか。海は凪いでいる。
女の子は探るような目でぼくのことをじろじろと見た。そして、言った。
「あんた、だれ。……北中?」
「うん」
「何年生?」
「二年」
「は? 嘘でしょ」
「なんで嘘なんてつく必要があるんだよ。きみは?」
「二年」
「え」
二年にこんな子、いたっけ。
ぼくの中学校は規模が小さくて、ひと学年は三クラスしかない。しかも生徒のほとんどは町内にあるふたつの小学校出身だから、二年生ともなれば全員が顔見知り、もうほとんど知らないヤツはいないって状態だ。
「学校、行ってないの? あ、保健室登校、とか?」
二組にひとり、入学してから一度も学校に来ていない子がいる。ひょっとしてその子かな、と思ったのだ。でも彼女はぶんぶんとかぶりを振った。
「あんたこそ。学校では見ない顔だし、こんな時間にこんなトコいるし。不登校なの?」
「いや」
ぼくはあいまいに言葉をにごした。たしかにここんとこよくサボってるけど、それは二学期にはいってからで、つまりごく最近のことだ。
今日ここにいるのは、たまたまだ。朝、ちゃんと学校へ行くつもりで家を出たのに、気づいたら海へ来ていた。海はぼくの家から歩いて五分もかからないところにある。ちょっとふらっと散歩してから行こう。そう思っただけだ。
「きみ、何組?」
ぼくは聞いた。
「四組」
「冗談だろ。うちの学校、どの学年も三組までしかないよ。二年四組なんて存在しない」
「冗談言ってんのはそっちでしょ」
彼女は青ざめた顔をきゅっとしかめて苛立たしげに言った。
「もう、わけわかんない。あたし、ずっと頭がくらくらしてんの。おなかがすきすぎたせいだと思う。なんか食べなきゃおかしくなりそう。カレーとか、カレーとか。あと、カレーとか」
「……カレー? ……うちにあるけど」
言ってから、しまったと思った。彼女の目が一瞬、キラリと輝いたのだ。
「あんたの家、ここから近い?」
「……近い。国道渡ってすぐ」
「これって運命? あたし、すごくカレーの気分だったの。もうカレーに永遠の愛を誓ってしまいたいくらい脳みそカレー一色だったの。あんた、何者? 神様?」
「あの。まだ、うちに来ていいなんて一言も言ってないんだけど」
「そこを何とか。お願い! お礼にサービスするから」
「何をだよ!」
急に手のひら返しやがって。えさをもらえるとわかるやいなや駄犬みたいに尻尾をふってきた。
「だいたい、初対面の男子の家にいきなりあがりこんで、メシたかろうとするとか、きみ、常識ないの?」
「常識……。常識、ね。自分ではあると思ってるけど……。ああ、やばい何も考えられない……。カレー以外のことは何も……」
うつろな目でぼくを見上げる。
「ね、このままあたしが飢え死にしてもいいの? あんた、困ってるひとを見捨てられるの?」
「……しょうがないな」
しぶしぶぼくは立ち上がり、制服についた砂を払った。やった、と彼女が小躍りしてるのが視界の隅に入った。
ふと、そういやこの子の名前何だろ、と思った。名前ぐらい聞いてかないと、なにかと不便だ。
「あたし? 佐藤南。ミナミ、でいいよ」
「ぼくは、井上倫太郎。呼び方はなんでもいい。まかせる」
「わかった。リンちゃん」
いきなり、慣れ慣れしすぎるだろう。カレーへの期待感からか、さっきとはうってかわってテンション高い。ぼくはため息をついた。
「リンちゃんはやめて」
「なんでもいい、って言ったくせに」
「前言撤回。リンちゃん以外で」
「はいはい。じゃ、倫太郎、ね」
ミナミはどこかはずむような調子で言った。
ぼくのお手製カレーを三皿と、浜ちかくのコンビニで買った肉まんとカップ麺(しかもカレー味!)をぺろりと平らげたミナミは、さらにスナック菓子(以上全部ぼくのおごり)の袋をあけて中身をぽりぽりとかじっている。いくら腹ぺこだったからって、あんまりだ。
「すげー食欲。ギャル曽根みたい」
「誰それ」
感嘆の声をあげるぼくを横目に、彼女はそっけなく答えた。ギャル曽根知らないのか。親が厳しくてニュースしか見せてもらえない、とかかな。てか最近ギャル曽根見かけないしな。結婚したんだったっけ?
「カレー完食。あーあ。二、三日は食べられるように多めにつくってたのに」
ぼくはすっからかんになった鍋の中を見てため息をついた。ひさしぶりに気合いれてつくった料理だったのに。
「え。これ、あんたがつくったの?」
「そうだけど」
「すごーい! お店で食べるやつみたいに美味しかったよ?」
手放しでほめられたぼくはすぐ調子にのった。勉強はまあまあ、運動はダメダメ(中学男子にとって運動オンチってかなりキツい)、これといって何の取り柄もないぼくだけど料理だけはそこそこ自信があるのだ。おもに家庭の事情のせいだけど。
「これ、いちおうルーからつくったんだ。簡単だよ。まあ、鶏肉にカレー粉をもみこんでヨーグルトに漬け込んでおくのが、コツっちゃあコツかな?」
「へええ。料理、得意なんだ。あたしなんてインスタントラーメンしかつくれないよ。とても同い年とは思えない」
インスタントラーメンって料理のうちにはいんないだろ、というぼくの心のなかのツッコミをよそに、ミナミは
「ねえねえ、デザートはないの」
なんて、さらにずうずうしくリクエストしてきた。
「ないよそんなの」
「ねえ、つくって」
「はあ?」
「できるでしょ。倫太郎のウデがあれば。台所にあるものでさ、チャチャっと。」
おだてられたからか、会ったばかりの女の子に呼び捨てにされたのがくすぐったかったせいか、ぼくは気付いたら冷蔵庫や戸棚のなかを物色していた。まだ食う気かよ、なんてぶつくさ言いながら。
ミナミ、さん、ってすごい押しの強い性格みたいだ。いっぽう、ぼくは嫌と言えない性格。残念だ。
とりあえず、かぼちゃと牛乳と卵があったのでかぼちゃプリンをつくってみることにした。お菓子なんてつくったことないけど。ミキサーでかくはんして、蒸せばできるだろう。
「ね、おうちの人はいないの? みんな、仕事?」
ダイニング・テーブルにほおづえをついてぼくが料理するようすを見ながら、ミナミが聞いた。宿題をしながら、母親が夕食の支度をするのを見ている子どもみたいに。あいにくぼくにはそんな思い出はないけど。
「ん。まあ、そんなとこ」
ぼくはあいまいに答えた。両親は共働きで忙しいから家にいない。だからいつもひとりでごはんをつくってひとりで食べる。試しにそんな風に思い込んでみると、本当にそうなんだという気がしてきた。
「……ミナミは、なんであんなとこにいたの?」
ミナミ、と呼び捨てにするのにすこし勇気がいった。なんせ初対面の女の子だ。自慢じゃないけど、ぼくは女の子の友達が多いほうではない。
「海は、違和感がなかったからよ」
「違和感? どういうこと?」
「……」
返事がない。振り返ってミナミのほうをみると、目を閉じてこくりこくりと船を漕いでいた。
「おーい。こんなとこで寝ちゃダメだよ」
「うー……ん」
「かぼちゃプリンはどうすんの」
「あとでたべる……」
ここで寝られたらたまったもんじゃない。万が一誰か帰ってきたらどう言い訳すればいいんだ。父さんが忘れ物をとりにふらっと帰ってくることもあるかもしれないし、隣のおばちゃんが洗濯物を取り込んでくれることだってありえる。
ぼくはミナミをテーブルからむりやり剥がして、奥にあるぼくの部屋に引っ張っていった。やせてるくせにやたら重い。やっとのことでベッドの上に放り込む。マットレスのスプリングがぎしっと軋んだ。
何なんだ。これじゃ、まるで女の子に睡眠薬を飲ませて変なことしようとしてるみたいじゃないか。人助けしてるのに、なんでぼくがうしろめたい気持ちにならなきゃいけないんだ。
腹いっぱい食べたミナミは顔色も良くなって、すうすう寝息をたてている。初対面の男子の家で眠っちゃうとか、警戒心が薄すぎる。ぼくはそっと布団をかけてやった。スカートからにゅっとのびた足に思わず目がいってしまって、あわててそらした。
変な子。
ぼくはミナミを起こさないように、しずかに部屋を出た。まだ料理の途中だったことを思い出したのだ。