Ⅴ
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風鈴は結局購入までには至らなかったが、その後も、ノアが反応する度に立ち寄って魔法道具や装飾品を鑑賞したり、菓子やら飲み物を購入したりと満喫しているうちに空は赤く染め上げられ日が暮れかかっていた。
因みに、ヴァンの財布は大分寂しくなってしまった。
現在、二人は屋外舞台の鑑賞用に設けられた観客席に座って休憩を兼ねてヴァンは肉まんノアは餡まんを食べている。
それぞれを柔らかくて厚いパンの様な皮で包み、蒸しあげた食べ物だ。
「美味いな」
「うん、美味しい」
「今度作ってみようかな」
「えっ、作れるの?」
「わかんないけど、作ってみたい。ミナトさんに言って材料あればだけど」
「へー、すごいね」
なんて他愛のない会話を続けていると、少し離れた背後から女性の小さな金切り声が上がった。
振り返ると、男性の立つ側に女性が尻餅をついたような姿勢で座り込んでいることから、男性が女性を突き飛ばしたらしかった。
ただ、男性の様子が見るからにおかしい。目は血走り、ふらふらと足元もおぼつかない。口元はいやらしく歪み、今にもよだれが垂れそうだ。
「えっ何々」「喧嘩か?」
人目の多い場所だ。一気に騒ぎは広まり、群衆は野次馬と化す。
「離れよう」
あの男の様子、尋常じゃなかった。ヴァンは以前にも同じものを見たことがあった。ミナトの夫であるイサナに怪我させてしまっていた。杞憂だったらいいのだが、この場に自分はいない方が良いだろう。 と判断したヴァンはノアの手を取り、立ち上がらせ立ち去ろうと足を通りの方へと向ける。
「いいの?」
「何が」
「放っておいて」
「いいよ。どうせ、何もできない」
話している間も足を動かし続ける。
しかし、幾ばくも進まないうちに人混みの中から悲鳴が上がる。それは瞬く間に周囲に伝染しパニックへと変わる。
その中から聞き取れる単語、“シャドウ”“影”“憑魔”どれも同じ意味だ。
そして、やはり前と同じ。
『そこの鴉だっ、鴉が影を呼び込んだんだ!』
『やっちまえ!!』
鴉――通常は漆黒の髪と瞳を持つ、魔力を持たない人間のことである。
ヴァンの瞳は蒼く、普段はなかなか気づかれないのだが、運悪く魔力無しであることを知られ、取引を断られた直後の事だった。それを恨みに腹いせとして妖術を働いたとでも思われたのだろう。
『お前さえいなければ……っ!!』
石を投げられ、鍬で殴りかかられた。 イサナはそれを庇って怪我を負った。頭から凄い血が出てて。取引を断られただけでも申し訳ない気持ちでいっぱいだったのに、いたたまれなくて情けなくて、泣きそうな自分が嫌で。
……結局ヴァンはイサナに抱えられるようにして町を逃げ出したのでその後どうなったのか彼は知らない。
“影”に憑かれた人間は“憑魔”と呼ばれ、何かしらの変化をきたす。今の男のように狂ってしまうもの、気力を失うもの、人格が少し変わるだけで生活に溶け込んでしまうものもいるという。
正体はよく分かっていない。突然取り憑き定着するまで背後にゆらりと見える黒いもやから影と呼ばれているが、悪魔だと言われたり、世界を追われた神の怨念だという説があったり。
鴉に憑くことは無いことから影は鴉の使役だとも謂われているが。
定着するまでには丸1日掛かると謂われ、それまでに教会に連れていき三日三晩清めてもらうことで完全に追い出す事が出来るのだとか。
影は常人の10倍もの力を持つというが、人は余るほどいるんだし、多人数でかかれば押さえつけて拘束して協会に連れていくことは難しくないだろう。
鴉の自分がいる方がよっぽど場を荒らしてしまう。
そう考えて、早々に立ち去ることにして遠巻きの群衆に紛れ込んでから騒ぎの方を振り返ってみる。
思わず、眉をしかめた。 取り押さえようとする人間はおらず、皆逃げ惑って俺と同じように遠くから騒ぎの行方を見守るつもりのようだ。
広場には逃げてくる人が数人、中央には既に影に取り憑かれた男性と、彼の連れだろう最初に突き飛ばされた女性、そして、もう一人見慣れた薄茶色の髪の女性、ミナトだ。
倒れた女性は立ち上がれないのかそれを助けようとして、ミナトは女性の側にしゃがみこんで、両肩に手を置いて何か伝えているようだ。
影に憑かれた男が二人の方へ手を伸ばす。
自らを庇って怪我したイサナが瞬間的にヴァンの脳裏に浮かんだ。
ヤバい。
ヤバいヤバい。
気がついたら、繋いでいたノアの手を放って走り出していた。距離が遠い。
男がミナトの髪を掴み、吊し上げる。
彼女の顔が苦悶に歪み、影はそれを見てにやぁと気色の悪い笑みを浮かべる。
「手ぇ、離せ!!」
思わず叫んだ。その声に首だけ振り返った影は自分に向かって駆けてくるヴァンに興味が移ったようで、その拳を緩めてミナトはその場に投げ出された。
咳き込むミナトの瞳に自身が捉えられるのを横目に、ヴァンは左足を強く踏み込み地を蹴り、身体をねじって、その勢いのまま男に飛び蹴りをかます。
蹴りだした右足は影の右肩を捉えたが、相手はよろめくだけにとどまった。いや、右腕がだらりと垂れ下がっているので、関節が外れたようだ。力は増幅しても所詮の構造は人間というこなとか。しかし、それだけだ。ヴァンは吹っ飛ばすつもりで全力を込めていた。
見る間に赤く腫れ上がる肩を見た女性が何か泣き喚いているが、今はそれらのこと気にしていられない。
「ミナトさんッ!!」
座り込んだままのミナトの顔色が明らかに悪い。まさに蒼白。
ヴァンの声にうつむいていた顔を上げ、ゆるゆると微笑もうとしているが、口元は引き攣りその肌には冷や汗が浮かんでいる。
どうしよう。見るからにヤバい。……俺のせいだ。面倒事を避けて逃げ出したりしたから。
「――ぐっ!?」
完全に男から注意が逸れていた。
左側から裏拳でこめかみを思い切り殴られ、頭がぐわりと鳴る。
意識のはっきりしないまま、首を絞められ、持ち上げられる。
息が出来ずに、ヒッと喉の奥が引き攣ったような音を立てる。
足で蹴りつけるもびくともしない。
男は、俺を持つ手を高く上げ、掲げるようにすると犬歯が見えるくらいに口唇を大きく左右に開き嬉しくてたまらないとでも言うようにヒヒヒッと笑い声を漏らした。
頭の中が朦朧としていく中で、男は鴉に取り憑かないというけど襲われたという話も聞いたことないなぁ、なんてどうでも良いことが頭の中をよぎる。まぁ、襲われたというより喧嘩吹っ掛けて返り討ち、と言ったほうが今の状態を表しているんだけど。
本当に意識が飛ぶというところで目の端に金色の光が飛び込んできた。風がそちらを中心に巻き上がり、金色の髪は風に逆らう事なく弄ばれ太陽光を反射する。
その瞳は静かに激昂していた。
――あぁ。
安心感が胸を満たすと同時にやってしまったという悔いが胸中に渦巻く。
『――使いたくないの』
はっきりと言い切った声音とは裏腹に顔を歪めていて。珍しく本心を見せてくれた瞬間だった。
それを守る為に力を尽くそうと心に決めていたのに。その、自分が。
どうしようもない後悔に襲われながら、首もとの締め付けが無くなった事を感じたのを最後にヴァンは意識を失った。