プロローグ
緑や紫、黄色などの色が生い茂る深い森で、彼はそれを見つけた。
年中暗いこの地域で、なおかつ森がより一層深く暗闇が増すこの地で、目立つほどの純白に包まれたそれを。
「なんでこんなとこに…」
考えられるはずがなかった。魔界でも魔物が多く住む森として知られているここで、こんなものが落ちているなんということは。
しかし目の前で存在しているそれを、放っておくという残忍な考えに及ばなかった彼はその光輝く純白を拾い上げて家路に着くことにする。
そうしてこの物語は始まったのだーーー
ーーー数年後
家の外からバタバタと駆け回る音がするのを聞きながら台所で朝食の用意をしていた彼女は、その音が止んだので玄関の方に視線をやった。
釜の火を止めて、手作りの木の実でできたジャムをたくさん器に移す。しかし、このくらいの量は一回の食事ですべてなくなってしまうのである。
止んでいたうるさい音が再び始まったのでエプロンで手を拭きながら玄関へと向かうと、ガチャンと乱暴に開けられたドアから小さな男の子が入ってきた。早朝の五時だというのにも関わらず、その身なりは泥と木の葉にまみれていた。
その子は目をキラキラと輝かせて彼女を呼ぶ。
「マリー!見て!」
「どうしたの灯弥〜。朝からうるさいわよぉ」
「ギー!」
そう言って高らかに掲げられたものは、この辺りに生息している魔獣であった。名はギーと言い、泥水を吐く小さなネズミだ。弱点であるしっぽをむんずと掴まれて気を失っているようである。
「あら〜よく獲れたわねぇ!えらいえらい」
「へっへー」
よしよし、とマリーに頭を優しく撫でられたことと、最近ずっと追い回していたギーをやっと捕まえることができたことに頬を赤くさせて喜ぶその子は名前を灯弥という。
灯弥の成長に目を細めながらも、この行為がどのような危険を伴っているのかをまだ理解していない彼に頭を抱えるのは最近のマリーの日課になっていた。
いや、彼にではなく正しくは彼らに、であった。
「二人とも、先越されちゃったわねぇ〜」
マリーがドアに視線を向けてそう言うと、ひょこひょこっと灯弥よりも少し背丈の高い悪魔が出てくる。
「違うっトーヤがずるしたんだ!」
「最初に僕たちが追ってたんだよ〜」
二人の名前はハジとディンゴ。兄弟というわけではないが四六時中といっていいほど一緒にいるほど仲が良く、いつも灯弥と三人でイタズラをしている子供である。
「ディンゴが逃がしたのをおれが捕まえたんだから横取りじゃないよーだ」
「いーや、横取りだ!」
「ちがうもん!」
「ちがくなーい!」
「取り返せディンゴ!」
「あっ!やめろよお前らー!」
はぁ…とマリーは思わず溜息を吐いた。
五人で一緒に暮らすようになって三年。最初はまだまだ子供だったが、だんだん体力と知恵をつけてこのように毎日ケンカをするようになってから二年。ケンカの内容も過激になってきて、洋服を縫う日が目に見えて増えている今、マリーだけではどうにも対処に困り果てている。
取っ組み合いを始めている三人に、これも恒例となりつつある仲直りさせる呪文を唱える。
「灯弥、そろそろ起こしてきてくれるかしらぁ?」
「「!!!」」
「!うんっ」
ケンカなんか放っておいて、なんて言わんばかりに二人の間を抜けて上の階に駆け上がって行く灯弥の背中を見届けた後、ハジとディンゴは顔を見合わせて苦笑いをしていた。
「ほーら、二人もお風呂入って。そんな汚かったら朝ごはん抜いちゃうわよ?」
「「はぁ〜い…」」
起こさないように、起こさないように、と心の中で呟きながら灯弥は静かに扉を押し開けた。
ベッドの上にこんもりとした掛け布団が乗っているのを見てにんまりしつつ、ベッドの脇まで来た。
そして、その布団めがけて大きくジャンプする。
ばすっと気持ちよくベッドに沈むはずだった灯弥の体は、そのまま宙に浮いている。
それに動じることのない無邪気な瞳が、真下のベッドでニヤリと笑う人物を捉えた。
「ざーんねんだったな灯弥。今日も失敗だ」
「ヒュッテおはよ!」
「話聞いてんのかよ…」
「大丈夫!明日もある!」
「そーかそーか」
そう言ってヒュッテと呼ばれる青年は指をパチンと鳴らして灯弥を自分の胸へと落とす。
きゃっきゃと笑いながら重くのしかかるその体に少々苦しい気もするが、それよりも気になることがあった。
「お前…なにやってきたんだ?」
「そうだ!さっきおれね、ギー捕まえたんだよ!下にいるからヒュッテも見て!」
そう言いながらベッドを降りて部屋を出て行くその背中を見て、ヒュッテは小さくつぶやいた。
「朝っぱらから泥まみれじゃんかよあのヤロー」
朝ごはんをたらふく食べた灯弥は、今日は何を教えてくれるのかわくわくしながらヒュッテの部屋の前にいた。
ハジとディンゴは立派な悪魔になるためにと、ヒュッテが目印をつけた魔獣を森で探して捕まえるという訓練をしている。もちろん、何かあった時のためにマリーはこっそり二人の跡をつけるのだ。
対して灯弥は悪魔ではなく人間なのでその必要はないと考えたヒュッテは人間界で必要だとされる文字を教えていた。
そう、昨日までは。
ギィ、と勝手に開いた扉が入っていいよの合図。しかしいつものように中から元気なヒュッテの声が聞こえない灯弥は、恐る恐る部屋に入った。すると、少しいつもと違う様子のヒュッテが目の前に立っていた。
「ヒュッテ…?」
「灯弥、お前もハジやディンゴみたく今日から外で訓練だ」
「え…?だってお前は人間だから危ないことはするなって言ってたじゃんか」
確かに一年ほど前、ヒュッテはそう灯弥に伝えていた。本人もそれは覚えているし当時はそれが正しいと思っていた。しかし当時とは事情が大きく変わってしまったのだ。
「……いいか、灯弥。俺やここに住む奴はほとんどが悪魔族だ。人間のお前がここで暮らすのも限りがある」
「?どういうこと?」
まだ五歳である灯弥に難しい話をしているのは十分理解していたが伝え方にミスはないか、そもそも今伝えること自体が間違いではないのかという葛藤が分かりやすく伝えるという事に踏ん切りがつかないでいた。
「だからな…えーっと…あと何年かしたら一緒に暮らせなくなって会えなくなっちまうってことだ」
「っやだ!」
「仕方ないんだ、だからなーー」
「やだったらやだー!みんなとずっと暮らすもん!」
泣きながらポカポカとお腹を殴る灯弥を、ヒュッテは抱き上げた。小さな体は軽々と宙に浮くが、それでも暴れるのをやめなかった。
「泣くな!男がべそべそなくなんてかっこ悪いぞ、灯弥!」
「だってぇ…」
「ちゃんと聞いとけよ?あのな、一つだけそうならない方法があるんだ」
「えっ?」
それを聞いた瞬間に涙がピタリと止まり、ぱあっといつもの笑顔になる灯弥を見て自分がどれだけ好かれているのかを知り、顔がにやけるのを堪えたヒュッテは続きを伝える。
「お前が人間界の学校に通うことだ」
「がっこう?」
「そうだ。あと十年したらその学校ってのに行けるからそれを卒業したらまた会えるってことだ」
「がっこうとそつぎょうって何?食べる物?魔獣?」
「………」
元々頭を使うことが嫌いであるヒュッテは学校を簡潔に五歳児にも分かるように説明しろ、と言われてできるはずがないと胸を張って言えた。
こいつは一般的な言葉を知らなすぎんだよなぁと声には出さず愚痴をこぼしたが、すぐに育てているのが紛れもない自分であることに頭を抱えた。
「とにかくだ!そこに行くには強くならなきゃいけねぇから俺がお前を強くしてやるってことだ!」
「うんっ!強くなったらおれもヒュッテみたいにかっこよくなれる?」
「お〜なれるなれる。ただし、約束を守ったらだ」
「約束って?」
にやりと悪い笑みを浮かべたヒュッテが放った言葉は、あまり言葉を知らない灯弥には全ての意味が伝わらなかったが、入学式当日までの十年という長い時間が経っても伝わらないままであった。