フェノルとカリン
あれからしばらくの間、フェノルはキサラ市場にやってこなかった。伝え聞いたところではずっと自室にこもって絵を描いているらしい。
ある日、カリンが店へ行くと大きなキャンバスが飾られていた。
それはどこかの森の絵だった。深く暗い森の奥。画面の中央だけがぼんやり明るく、苔むした切り株が照らされていた。簡単な構図。塗り方も荒々しかったが、画面の隅にはフェノルのサインがしてあった。
とても単純な絵だったのに、カリンはその絵を直視することができなかった。生き物が一つもいない絵。薄い灯りの中で、朽ち果てていく切り株。フェノルがこの絵に込めた感情は単純で、明快だ。これが他の人が描いた絵だったら、何これ、とバカにしているかもしれない。私だってこれくらい描けるかもしれない、とカリンは思う。それくらい単純すぎる絵だ。
でも、なんでだろう。他の誰が描いても、こんなに悲しくは思わないに違いない。いや、悲しいのとは違う。怖いくらい、寂しい。素人が描いたものとは、違うのだ。他の画家の誰が描いたものとも違う。フェノルでなければ、こんな気持ちにはならない。一体何が違うのか、カリンでは言葉にできなかったけれど。
その後も、ポツポツとフェノルは作品を持ってきた。そのどれも、以前の絵にはない切迫感と孤独感にあふれていた。そしてそんな作品ほど、蒐集家や評論家の評判が良いらしい。
ただ、フェノルは滅多にキサラ市場に来なくなった。時たま彼の近況を他の画家から聞いたが、独り部屋にこもり絵を描き続けているらしい。カリンはそんなフェノルを心配し、ごく稀に市場で顔を合わせたときは気分転換に赤い風車や劇場に誘ったが、彼が首を縦に振ることはなかった。
ある日、店にハイクともう一人男の人が来ていた。二人はカリンに「フェノルに会わなかったか?」と聞いてきた。慌てた様子が気になり、カリンの方から「一体何があったの」と問いただした。
黙って、ハイクは一通の封筒をカリンに渡した。
ハイク=マァへ、と細い字で宛名が書かれていた封筒には、一枚の便せんが入れられていた。内容は、
「うそ…! うそでしょ?!」
「だからおれ達も探してるんだ。アイツの居場所、知らないか?」
カリンは首を横に振った。何度も。
「おれ達は駅へ行ってみる。見かけたら、縛ってでも引きとめておけ」
「うん…!」
ハイク達は慌てて駅へ向かった。カリンもジッとしていることなどできず、どうしよう、と混乱していた。
カリンが向かったのは、蜂の巣とあだ名されるフェノルたち貧乏画家が集う小さなアパートメントだった。キサラ市場からは結構な距離があったが、バスを乗り継ぎカリンは向かった。
彼の部屋なんて、すでにハイク達が尋ねた後だろうけれど。いや、でも、あの手紙はきっとフェノルのいたずらで、今も彼は自分の部屋で絵筆を握って制作に没頭しているに違いない。慌てた私やハイクたちをからかって、笑っているんだ。気分転換にこんな性質の悪いいたずらをしようなんて、フェノルちょっとひどいよ。
蜂の巣にたどりつき、彼の部屋のドアをカリンは開けた。
ベットとテーブル、イスを一つか二つ運びいれたらそれで一杯の狭い狭い部屋には、イーゼルとキャンパスが一つ残されていた。他には何もなかった。ベットも、イスも、テーブルも、食器も、家財道具らしいものは何も。物を隠すスペースなど何もない味気ない室内を何度も確認し、カリンは絵の具のチューブ一つ落ちていなことを受け入れざる得なかった。
ふらふらと室内に入り、カリンはたった一つ残されたキャンバスを手に取った。
それはお茶会の絵だった。どこか郊外の広場に沢山の人が集まって、楽しそうな表情で談笑している。ハイクやミーナ、叔母にカリン、そのほかのカリンが知らない人々。
そしてそのお茶会の一番端っこに、顔がよく分からない男が一人立っている。楽しそうに笑っている人々の輪を見ている。男の顔は、小さくつぶれてしまってよくわからない。
ただ、その男はフェノル自身のような気がした。
「バカ!」
カリンは叫んだ。もうこの街にはいないだろう画家に向かって。
「バカ! バカ! バカ! フェノルのバカァアア!」
叫んで泣いた。後から後から涙は止まらなかった。
フェノルからハイクへ送られた手紙には、こう書かれていた。
『僕は僕の居場所を探さなくてはならない。この街での日々はとても楽しかった。ありがとう。さようなら』
キャンバスを両手に持ったまま、カリンはしゃがみ込んだ。
フェノルの寂しさを埋めてあげたいと言いながら私は何もしていなかった。別の誰かに期待していたのだ。例えば、ミーナやミニに。その結果が、これだ。
私は、何もしなかった。
フェノルも、私に求めていなかった。
それだけのことで、それだけが全てだ。
油絵の具の匂いがする部屋の中で、カリンは一人声をあげて泣いた。
もう、キサラ市場にあの画家が訪ねてくることはない。そのことを受け入れきれず、ただ泣き続けた。
end




