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ミニとカリン

 テーブルの上には、布と裁縫道具が散らばっていた。薄い緑色のベストはほとんど針をいれられることなく放置されている。カウンターの向こうで、ポットがカタカタと沸騰し始めていた。

 テーブルに突っ伏したカリンは、ポットの蓋が蒸気で暴れる音で顔をあげた。目元が赤くはれている。億劫そうに立ちあがったカリンはカウンターの向こうに周り、コンロの火を止めた。コーヒーを淹れるためにポットを取り上げた。

『絵を見る目がないから』

 ふと甦ってきたのは、昨日のハイクの言葉だ。ジワリと涙が浮かぶ。右手にはまだカタカタ音をたてているポット。慌てて左の袖で顔をこすった。ヒリヒリする。

 昨日から泣き通しだった。別れ際のハイクの言葉が忘れられない。

『絵を見る目がないから』

 なんであんなことを言われなくちゃいけないんだろう。

 思った感想を口にして何が悪い。

 そもそも、そもそも、私に絵を見る目があったって、なかったって、ハイクには関係ないじゃないか。

 乱暴に目元をこすり、泣きやもう、とカリンは思った。

 コーヒーをカップに注いだ時、カラン、とドアのベルが鳴った。振り返り「いらっしゃい」と声をだす。これが常連客だったら、カリンのはれた顔を見てびっくりしてしまうだろう。だから努めて明るく。

 しかしドアのところにいたのは見知らぬ女の子と男だった。紅い髪の毛の女の子。男は女の子の後ろにかしこまるように立っている。

 女の子は車輪のついたイスに座っていた。珍しい乗り物だったので、カリンは上から下までまじまじと見てしまった。そして、女の子に足がない、ということに気付く。フリルとレースをふんだんに使ったスカートから覗いているべき、両足がない。思わずジッとスカートの下を見つめてしまったカリンに、女の子はにっこりとほほ笑んだ。

「こちらにフェノルさんの絵があると聞いて来たんです」

「え。あ、あるけど」

「見せていただけませんか?」

 丁寧で大人びた言い回しだけれど、どこか舌っ足らずな口調で女の子は言った。


 男は女の子の座っている車イスを店内にいれると、一礼して外に出ていった。女の子の年は12,3歳くらいだろうか。キョロキョロと散らかり放題な店内を興味深そうに見回していた。

「あの、君は?」

 キサラ市場のお客はみんな大人だった。カリンくらいの子供がいる人が多く、いつもカリンは子供扱いされている。自分よりも年下の子供なんて、どう接していいか分からなかった。

「私はミニ・キート・マロンと申します。貴女は?」

「カリン…。フェノルの絵が見たいの?」

「はい」

 ニコニコと無邪気な笑顔で女の子、ミニは言った。可愛らしくきれいな笑顔だったが、カリンはぎこちなくしか微笑み返すことができなかった。この子の顔を、どこかで見たことがある気がしたからだ。

「あ、肖像画の…」

 カリンの呟きに、女の子は首を傾げた。ハラリと髪が一筋頬にかかった。

 ようやく分かった。フェノルの肖像画のモデルの女の子だ。女の子の髪の毛がバラのように濃い紅だったので、デッサンとはだいぶ印象が違って分からなかった。白黒のデッサンでは、女の子の笑顔は柔らかく陽だまりのようだった。しかし、実際に会ってみると髪の色と足のおかげで、あまり顔の印象が残らない。可愛らしいミニが可愛らしくほほ笑むと笑顔を貼り付けた人形のようで、個性が感じられなかった。

「フェノルが描いている肖像画の子? もしかして」

「はい。そうです」

 あぁ、この子が。

「どうしてフェノルの絵を?」

「興味があるからですが、何か問題がありますか?」

「ううん。ないけど」

 ないけれど、どうして今更フェノルの絵を見る必要があるんだろう。

「いいよ。ちょっと待って」

 キサラ市場で保管している絵というのは、案外少ない。気に入った客に売ってしまうからだが、フェノルの朱い魚の絵や夜のカフェなどは倉庫にまだあるはずだった。

 夜のカフェの絵や、街角を描いた絵など数点を店内に運んだ。どうやったら女の子に見やすいだろうと考え、台のしっかりした壺などをテーブルに運びキャンバスを立てかけることにした。イーゼルがあればいいのだろうが、あいにく茶屋が本業であるキサラ市場にはイーゼルまで置いていなかった。

 ミニは自分で車イスを操り、左から順番に絵を見て行く。一番最後、右に置いてあったのは朱い魚の絵だ。朱い魚の絵は、ミーナが殴ったあと修理されていた。多少歪みは残ってしまったが仕方がない。

 朱い魚の絵の前で、ミニは長いことジッとしていた。そして小さく息を吐いた。口の端をわずかに上げて、でも微かに眉を寄せて、なんとも言えない顔をした。それはとても年下の女の子の表情には思えず、カリンにはミニが何を思ってそんな表情をしたのか、よくわからなかった。

「ありがとうございました。お時間をとらせてしまってごめんなさい。それでは」

 膝の上で両手を揃え、ミニはカリンに向かってお辞儀をした。

「お茶でも飲んでいかない?」

 カリンの問いかけにミニは微笑んで首を振り、ドアを開けた。ドアの外でずっと待っていたらしい男に車イスを押され、帰っていった。


 ※ ※ ※


 それから半月も経った頃、夕方カリンがキサラ市場へ行くと、なぜか店内にフェノルがいた。窓は空いていたが、薄暗い店内で灯りも点けずフェノルがイスに座っている。テーブルに肘をついて、両手で顔を覆っている。

「どうしたの? フェノル? 叔母さんは?」

 うつむいたまま動かないフェノルに、恐る恐る声をかけた。まさか、泣いている?

「フェノル?」

 肩に触れると、フェノルはゆっくりと顔をあげた。

「店主は、少し前に出掛けたよ」

 力なくそれだけ言うと、フェノルは再び、手で額を覆った。

「どうかしたの? 何かあったの?」

 カリンはフェノルの傍に膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。泣いているのかと心配したが、そうではないようだ。目元は乾いている。ただ、今にも泣き出しそうな表情をしていたけれど。

 カリンの問いかけに、フェノルはただ首を振るだけだった。力なく首を振り、黄昏に沈んだ銀髪が顔に影を作る。

 顔をあげたフェノルと目があった。

「…。なんでもないんだ。心配しないでくれ」

 フェノルは口元を歪めて、何か表情を作ろうとしたようだった。それは笑顔だったのか、泣き顔だったのか、一つの表情になる前に消えてしまった。

「なんでもないわけ、ないでしょ。何があったの? 教えてよ」

 フェノルは何も言ってくれなかった。

 ふらりと立ち上がると、フェノルはうつむいたまま

「店主が戻ったら、迷惑をかけてすまないって、謝っておいてくれないか」

「フェノル!」

 力なく歩くフェノルは今にも消えてしまいそうだった。カリンは慌てて駆け寄るとフェノルの袖を掴んだ。

「なに?」

 振り返ったフェノルが尋ねるが、カリンは何も言えない。こういうとき、何と言えばいいのか分からない。

 大丈夫? なんて言えない。何があったの? と聞いても答えてくれない。私が力になれることがあれば、と言ってもフェノルは無理に笑って、その言葉だけで十分だよ、と言うだろう。フェノルはきっと、胸の内を明かしてくれない。

 カリンはフェノルの袖を掴んだまま、何か言わなければ、と必死に言葉を探していた。彼の顔を見つめていると、焦ってしまってますます言葉が出てこなかった。

 やがてフェノルがそっとカリンの手に触れた。

「心配しないで。また来るから」

 静かにカリンの手を外すと、今度こそフェノルは出ていってしまった。


 パタンと閉じられたドアを、カリンは呆然と見ていた。

 一体どれくらいそうしていただろう。いつの間にか日は沈み、店内は真っ暗になっていた。

 灯りをつけなくちゃ、と思ってカリンは動き出した。ランプを点けようと店内を進むと、つま先に何か当たった。拾い上げるとそれはキャンバスだった。

 なぜキャンバスが落ちているんだろう。

 急にイヤな感じがこみ上げてきた。

 カウンターの上にあったランプに慌てて火をつけ、拾い上げたキャンバスの傍に寄せた。

 それは紅い髪の毛の女の子が、バラの生け垣の前でイスに座り、膝の上で両手を揃えている絵だった。フェノルの描いた肖像画だ。この間、店にやってきてフェノルの絵を見ていったミニの絵だ。彩色も済んで、もう完成といってもいいところまできていた。

 肖像画のミニは口をほころばせ、目は優しく微笑んでいる、はずだった。

 完成しているはずの肖像画は、ナイフによって切り裂かれていた。左上から右下へ、まっすぐ斜めに、画面の端から端まで。一筋の切れ目によって、あの可愛らしい笑顔は修復不可能な傷を負ってしまっていた。

 切り裂かれた肖像画を手に、カリンは再び呆然としていた。

 一体、何があったの? フェノル。

 答えてくれる人は、いない。


 ※ ※ ※


 ニコニコと笑顔でいるミニを、カリンはテーブルまで案内した。

 今日、ミニがキサラ市場にやってくることは叔母に聞かされていた。先日のフェノルのことで話があるという。叔母は予定がずれてしまい、まだ到着していない。カリンは叔母の遅刻をミニに詫びたが、ミニは「お気になさらず」と常のごとく微笑むだけだった。

 今回、ミニは長居するためか車イスから店内のイスに移っていた。彼女を抱えて移動させたのは、この間ミニの車イスを押していたのと同じ人物だ。

 ミルクと砂糖をたっぷり淹れたコーヒーとお茶菓子をミニの前に置いた。カリンは座らず、トレイを抱えてカウンターに戻った。

 ミニの前に座りたくなかった。しかし、奥へ引っ込む気もなかった。叔母とミニの話し合いを見守るつもりだった。ただ肝心の叔母が、午前中別のお客さんのところへ行ったきり、まだ帰ってきていない。

 空気が重く、時間が鈍い。

 ミニはキョロキョロと店内を見渡していた。叔母のコレクションに興味をひかれているらしく、楽しそうな顔をしていた。

 その無邪気な笑顔が、ひどく場違いに思えた。

 肖像画がなぜ切り裂かれていたのか、なぜフェノルがあんなに落ちこんでいたのか、原因は考えるまでもないとカリンは思っていた。

 ミニがイスから身を乗り出し、近くの棚にあった入れ物を取ろうとしていた。しかし小さな彼女の体では届かず、手が宙を泳ぐ。こちらを振り返り「取ってもらえるかしら?」と言った。

 能天気なミニの言葉に腹がたったカリンは、立ち上がるとミニの隣に立った。漆黒の入れ物を取り、テーブルの上に置く。ミニが「ありがとう」と言うのにも構わず、

「あの絵を破ったのは、君なの?」

 とミニを睨んだ。怒気をあらわにしたカリンの態度に、ミニは戸惑ったように首を傾げた。

「何のことでしょう?」

 カリンはミニの前に手をつき、彼女の目を覗き込んだ。

「あの絵、君を描いた肖像画。ナイフで破ったのは、君なの?」

 年下相手にむきになりすぎていると思う。けれどミニの態度を見ているととても12,3歳の子供とは思えなくなってくるのだ。

「いいえ。私は何もしていません」

「本当に?」

「えぇ」

 ミニは真っすぐカリンの目を見返してきた。動揺もせず、揺れもせず、怒りも弁解もないようだった。ミニの紅い目を見続けることができず、カリンの方から視線を外した。

「じゃぁ誰が破ったっていうの?」

 カリンは拳を握りしめた。何もなかったはずがない。何もなくて、フェノルがあんなに落ちこむわけがない。

「もしかしたら」

 しばらく考え込んでいたミニが口を開いた。

「フェノルさん、ご自分で破ったのではないかしら?」

「フェノルがそんなことするわけない」

「いえ、私がその絵は受け取れないと申し上げたら、とてもショックを受けてらしたようなので」

 ミニの言葉に、一瞬ぽかんとした。受け取れない? なぜ?

「君がどうしてもってフェノルに描かせたんでしょ? フェノルだってとっても熱心に描いてたじゃない!」

「なんで、と申されましても」

 ミニはイスの上で腰をひねり、カリンの方に向き直った。スカートがふあんと揺れる。

「彼の絵が、私の期待していた水準に達していなかったからですわ」

「なんで? フェノルは、上手よ。あの絵だって、すっごくきれいに描けてた」

 唇をかみしめて、カリンはミニに訴えた。ミニはフェノルの努力を認めない、とそう言うのか。

「きれいなだけの絵だったからです」

 ミニは臆することなく、カリンの目を真正面から見る。

「私がフェノルさんに肖像画を依頼したのは、彼の画風が気に入ったからです。荒野で水を求めるように、ぬくもりを渇望する、そういった画風が素晴らしかったのに、あんな何の衝動もない絵になるとは、がっかりでした」

「フェノルは、君と会って変わったんだよ。それを否定するの?」

「変わった、とは?」

「フェノルはずっと寂しそうだった。寂しくて、こっちが悲しくなるような絵ばっかり描いてた。それが、君と会って変わったのに!」

 思わずカリンは叫んでいた。

 ミニはふぅと小さく息を吐いた。常に浮かべていた笑みを初めて消して、呆れたような表情になった。

「それが?」

「…!」

 ショックで一瞬、呼吸を忘れた。ジッとミニを見つめたが、ツンと軽く顎を上げこちらを静かに見ている。

「フェノルがどんな思いで君の絵を描いたか。あの絵を見れば誰だって分かる。私だって、ミーナさんだって…!」

「誤解があるようですが、フェノルさんが私をどう思っているか、ということに私は興味がありません。肖像画に関しても、受け取れないにしても報酬はお支払いするということになっていました。何か問題でも?」

 さも当然、という顔でミニは言う。

「そもそも、なぜ私は貴女に責められなければならないんでしょう。私はフェノルさんや店主に支払う報酬の件で行き違いが生じてしまったので、こちらに出向いたのですが」

 そうですよね? とミニは首を傾げて見せた。

「感情を遠慮なく他者にぶつけていいのは、芸術表現においてだけと私は思っています。貴女のその態度は、だいぶ失礼だと思うのですが」

 ミニはイスの背もたれとテーブルに手をつき身体を支え、カリンの方へぐいと身を乗り出した。

「ここまで言ったのですから、私からも言わせてください。フェノルさんの気持ち? 気付いていました。だからどうしたのいのです?」

 いつの間にかミニの顔からは表情が消え、真っ白な顔が仮面のようにカリンに迫っていた。

 カリンは目の奥に熱いものを感じた。ミニのことを怖いと思った。ただの可愛らしい女の子だったミニはどこかへ行ってしまい、今目の前にいるのは少女の姿をした別の生き物だ。

「画家というものは業の深い生き物です。満たされてしまったら、描けなくなるんです。私が望んだフェノル・エガークの絵は、孤独から脱出しようともがく男の叫びです。あの朱い魚の絵からも、私の肖像画からも、なんの叫びも聞こえない。ただきれいなだけの絵など、意味がないのですよ」

「君は、フェノルに、一生、独りでいろっていうの」

 カリンの声は震えていた。情けないことに、とても怖かったのだ。ミニのことが。

「フェノルさんが絵描きであり続けたいというのなら」

 ミニはカリンの顔を覗き込み、にこやかに笑った。艶やかなバラのように。

「そうすれば、美しい絵を残すことでしょう」

 カリンは絶句して、ミニを見つめた。窓の外からは軽やかな鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 言うべきことは言った、とばかりにミニは身体を正面に戻した。そしてカリンが置いた皿を手に取り「漆器の器ですね。素晴らしい品物をお持ちですね」と呟く。もうカリンに対して興味を失ってしまったようだった。

 外からキィイーーとブレーキの甲高い音がした。

「ほら! 着いたぞ!」と野太いアレクサンドルの声がする。叔母が帰ってきたらしい。

 カリンは我に返り、倉庫へ駆け込んだ。ミニと叔母がどんなやり取りをするのか、知りたくなかった。もうたくさんだ、と思っていた。




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