ミーナとカリン
窓から差し込む光の中で、ふわふわと細かな埃が光っている。カリンははたきを持ったまま、そのキラキラと光る埃の粒を眺めていた。
お客さんのいない店内。レコードもかかっていないし、たまに外から鳥の鳴き声が聞こえるくらい。棚にはたきをかけて、久しぶりに叔母の妙なコレクションの片付けでもしようかと思っていた。アレクサンドルが持ち込んだ土産物がまた増えている。奇妙な木彫りの人形とか、沢山の香水瓶とか。肝心の茶葉や茶器のスペースまで浸食しつつある。香水瓶を割らないように、そっとはたきで撫でる。
ゆっくり香水瓶を撫でていたカリンの手が止まった。薄く少しでも力を入れたら割れてしまいそうな青いガラスをぼんやり眺めながら、ため息がもれる。思い出すのは、この間のフェノルの顔。怒ったような、失望したような、あの表情だ。
あれから、フェノルとはすれ違いが続いていた。もう一カ月、顔を合わせていない。カリンのほうが何となく避けていたというのもあるが、フェノル自身、忙しいらしくあまり店に来なくなっていた。
叔母からフェノルの近況を聞くことはあった。現在、肖像画作成に取り組んでいること。何か心境の変化があったらしく、熱心に取り組んでいて依頼主からの評価も高いらしいこと。何枚かデッサンを見た叔母に言わせると「さすがフェノル君」という出来栄えらしいこと。
店の奥に視線をやれば、画家たちの絵がかけられている壁に小さなキャンバスが一枚増えていた。朱い魚の絵だ。日の当たる場所に置かれたあのはく製の絵。今にも泳ぎだしそうな、触れれば魚のみずみずしさが伝わってくるような絵だった。
前と少し絵が変わった、とそれを見たカリンは思った。明るく開放的になったような気がする。魚の鱗の一枚一枚まで描きこまれていて、きれいな絵だ。デッサンをさせてもらったお礼に、とフェノルが叔母に贈ったのだ。
前よりも温かみが増した絵にホッとしながら、画風の変化にフェノルがどこか遠くに行ってしまうのではないか、とカリンは複雑な気持ちだった。
カラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃい」
振り返ると、女の人が立っていた。流行りのドレスを着たきれいな人だ。店内を見回し、部屋中を埋め尽くすガラクタに驚いているようだった。
初めてのお客さんだが、どこかで見たことがあるような気がして、カリンは女の人を見つめた。そして、あっ、と小さく声をあげた。
女の人と、目があった。
見たことがあるって、当たり前だ。当たり前じゃないか。今、街にはフェノルが描いた彼女のポスターがあふれているんだから。
「ミ、ミーナ?」
驚いて名前を呟いた。その女の人は、カリンの視線なんて全く気にしたふうもなく
「ここで合ってる? フェノル・エガークが出入りしているお茶屋さんは」
と言った。
「コーヒー、どうぞ」
カリンはミーナの前にカップを置いた。丁寧に置いたつもりだったけれど、カチャンと音をたててしまった。緊張で手が震える。
「ありがとう」
そっけなく言いい、ミーナはコーヒーを口に運んだ。
カリンはミーナがカップをもち、コーヒーを飲んで、カップをテーブルに戻すまでを目で追っていたことに気付き、顔を伏せた。ごく当たり前の仕草がとってもきれいだ。見惚れるとは、こういうことを言うのか、と思った。
トレイを胸の前で抱え、カリンはいつも通り自分も座るべきか、それとも立ったままでいるべきか悩んだ。とてもじゃないけど、正面に座る勇気はなかった。かといって立ち続けているのも居心地が悪い。
ミーナはこの街一番のダンサーだ。老いも若きも男も女も魅了される踊り手。新進のキャバレー”赤い風車”は彼女が出演する日は常に満席。ブロマイドは飛ぶように売れ、街は彼女のポスターであふれている。
ミーナのダンスの魅力は、何といってもその奔放さだ。カリンもベアトリスに誘われ観に行ったことがある。
初めは足を大きく振り上げ、跳ねまわるように衣装をはためかせる彼女のダンスを、恥ずかしい、はしたない、と思った。でも軽快な音楽に合わせ、ステージ全体で力いっぱい跳ね、踊る彼女のダンスに、いつの間にか引き込まれていた。ミーナの疲れを知らない笑顔と劇場の熱狂に浮かされ、カリンもはしゃぎまくった。
こんなにも力強く快活な女の人がいるのだと思うと、カリンはとても嬉しくなったことを覚えている。
年配の人からは眉をひそめられるが、ミーナは若い女の子にとって英雄のようなものだった。
憧れの人が店にやってきたということで、カリンはとても緊張していた。何を言えばいいのかも分からない。
「あなたは店のお手伝い?」
「は、はい。留守番役です。カリンと言います」
いきなり声をかけられ、返事が上ずってしまった。
「あぁ、あなたが。フェノルからよく聞いてる」
「フェノルから?」
ミーナは何気なく言ったのだろうが、フェノルの怒った顔を思い出しドキッとした。
「明るくていい子だって。僕のつまらない話を一生懸命聞いてくれるって」
「そうですか?」
少し、ほんの少しだけ、ホッとした。
「あの、ご用件は? あいにく店主は出掛けて留守なんですが」
ミーナから声をかけられたことで、カリンの緊張がほぐれた。
「今フェノルが描いている肖像画は、この店が仲介したって聞いてきたんだけど」
「そうです。常連のお客さんが、どうしてもフェノルにって」
てっきりフェノルが描いたポスターのことでやってきたのだと思っていたカリンは、戸惑いながら答えた。ポスターは叔母が強く勧めて描いたものだから、ミーナが訪ねてきても可笑しくないような気がするが、なぜ全く関係がない肖像画のことを気にするんだろう。
「どこからの紹介か、教えてもらない?」
首をかしげながら、ミーナは言った。
「すみません。私は知らないんです。絵のことは店主が管理しているので」
答えられないことを申し訳なく思い、カリンは下を向いた。
「そう」
語尾を跳ねさせたミーナの口調がやけに強く、まるで怒っているように聞こえた。カリンはトレイを強く抱きよせた。
「店主はいつ戻るの?」
「遠出をしているので、明日には戻る予定なんですが」
カリンの答えに、ミーナは困ったように頬に手を当てた。
「分かったわ。明日また来るから。店主に伝えておいて」
そう言って席を立った。
※ ※ ※
翌日、ミーナがキサラ市場にやってきたらしい。らしい、というのはその日カリンは店にいなかったので、後で叔母から聞いたからだ。
叔母とミーナの間でどんな話がされたのか、カリンは知らない。叔母はミーナがやってきたとだけ言い、他は何も語らなかった。ただ叔母の雰囲気から察するに多少もめたようだ。一体、何の話をしたのだろう。
それから三日後。またミーナがキサラ市場にやってきた。
ガランガランと乱暴にドアが開けられた。何事かとカリンが驚いていると、目つきも険しくミーナが入ってきた。不機嫌であることがありありと分かった。
店内を見渡し叔母の姿がないことを確かめると、カリンの顔を見るなり、
「今日も店主は留守なのね」
「ええ、出掛けてますけど」
「せっかく予定を空けて来たっていうのに」
ドアの前で腕を組み、大きく息を吐く。
「ねぇ、あなた本当に肖像画の依頼人を知らないの?」
「し、知りません」
「ふー」
ミーナは肩で大きく息を吐き、頭を左右に振った。しつこく頭を振り、髪の毛が乱れていく。
「あの、どうして依頼主のことを知りたいんですか?」
カリンの質問に、ミーナは顔をしかめた。ミーナに睨まれ、カリンはたじろぐ。
「あなたには関係ないわ」
突き放すような言い方に、カリンはムッとした。関係ないかもしれないが、だったらなぜこんなきつい言い方をされるのか。まるで八つ当たりじゃないか。
ミーナは奥の壁に目をやった。画家の絵が飾られている一角の、朱い魚の絵を見やる。
「あの絵」
「魚の絵ですか?」
「そう。あれもフェノルの絵でしょ?」
「そうですよ」
ミーナは突然、話題を変えた。口調は不機嫌なままでカリンとしては帰ってほしかったが、不承不承、答えを返す。あーあ、あのミーナがこんな人だったなんて思わなかった。
ミーナは壁まで近づくと、突然、魚の絵に向かって拳を振り上げた。バンッと絵に拳を叩きつける。布製のキャンバスはへこみ、魚の絵が変形してしまった。
「何するんですか!」
カリンは慌てて止めに入った。そしてギョッとする。
ミーナが泣いていた。
「ど、どうしたんですか?」
「あぁ、もう。バカみたい私」
両手で顔を覆い、ミーナはしゃがみ込んだ。
「あの、何か?」
ミーナはすすり泣くばかりで、何も答えられないようだった。困ってしまったカリンはカウンターの中へ行き、カップに水を汲んでミーナに差し出した。
「どうぞ」
顔をあげたミーナは、カップを受け取り口をつけた。目のふちが赤くなっている。
「ごめんなさい。突然、押し掛けた挙句に泣きだしたりして」
少し落ち着いたらしいミーナはハンカチで自身の目を抑えた。
「いい迷惑よね。本当に。バカみたい私。会ったこともない肖像画のモデルに嫉妬して、挙句に魚の絵にまで嫉妬して。バカみたい」
「嫉妬?」
カリンの呟きに、ミーナは顔をあげ自嘲するようにほほ笑んだ。
「そう。フェノルの描いた肖像画を見た? あんな絵をフェノルが描くなんて思わなかった。悔しくてたまらないの。私は」
そう言って、また泣き始めた。わけが分からないながら、カリンはミーナの背中をさすった。そして『ミーナがフェノルにポスターを依頼したのは、惚れているからだ』そんな噂を思い出していた。
ミーナが少し落ち着いたところを見計らい、ミーナをテーブルに座らせた。コーヒーを淹れるとミーナはそれを両手で包みこんだ。薄茶色の水面をジッと見つめている。
しばらく二人とも口を利かなかった。沈黙は苦しかったが、問いかけを言葉にすることも怖かった。しかし、
「ミーナさんは、フェノルのことが好きなんですか?」
沈黙に耐えきれなくなり、カリンは口を開いた。聞かなければこの息苦しさから逃れられない。
ミーナは「えぇ」と小さく頷いた。
「好きよ。誰にも渡したくないくらい」
やわらかくミーナはほほ笑んだ。先ほどまでのピリピリした表情は涙とともに流れてしまったようだった。
そして「あなたはフェノルが絵を描いているところを見たことがある?」と聞いてきた。
「あります」
「別人のようでしょ? 絵を描いているときのフェノルは。普段は何を考えているのか分からないくらいボーっとしているのに、絵を描いているときはとっても真剣で。私はあんな熱心で誠実な目で見つめられたかったの」
視線を天井にむけ、ミーナは一瞬目を閉じた。つられてカリンも天井を見たが、そこには古ぼけたランプがぶら下がっているだけだ。
「私はステージで踊っていて、お客さんたちはそりゃ真剣に楽しんでくれるけれど、フェノルの目は特別。あの人の目には、余分なものがないの。私の中の、本当に美しい部分だけを見つめてくれている気がしたわ」
そう言って何かを思い出したかのようにほほ笑んだ。けれど、すぐ首を振る。
「あの人の目を独り占めしたかった。私のものにならないなら、誰のものにもならないでほしかった。でも、」
軽く、本当に軽く羽のように軽く、ミーナは言った。悲しみも嫉妬も全て流して落としてしまったかのように。何も残っていない表情はいっそ明るく見えた。
「無理だったみたい」
なんだかたまらなかった。カリンは胸に言葉を詰まらせて、ミーナを見つめることしかできなかった。
それ以上は聞けなかった。聞けばまたミーナが泣いてしまうような気がしたからだ。ステージの上ではあんなに快活に踊っていたミーナの弱々しい姿を、これ以上見たくなかった。
うっすら張れた目元を、ミーナは指で撫でた。そして
「今夜もステージがあるから」
と帰って行った。




