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肖像画の依頼

 窓際の一番明るいテーブルを、フェノルが占拠している。テーブルの上には朱い魚。周りには小ぶりのナイフと沢山の鉛筆。練り消しとパン。目の粗い布もある。光の中の魚を前にして、フェノルは一心不乱にデッサンをしていた。

 カリンは自分のカップにコーヒーを淹れ、隣のテーブルに座った。砂糖とミルクをいれながら、フェノルの手元を見ている。

 バルコニーに通じるガラス戸の前に魚のはく製を載せたテーブルはあり、ガラスいっぱいに太陽の光が差し込んでいる。鱗のふちが金色に光っていた。

 長く芯を削った鉛筆を紙に寝かせるように倒し、魚の形をとる。大まかな形だったが、フェノルはあくまで慎重に鉛筆を動かす。ゆっくりと流線型を描いた。一度、鉛筆を置き、両手でスケッチブックを掲げて魚のはく製と見比べた。それから今度は先をよく尖らせた鉛筆をとり、ゆっくりと魚の形を修正し始めた。まずは陰になっている部分から。ジリジリと傍で見ているカリンがじれったく感じるほど、ゆっくり、慎重に。

 色素の薄いフェノルの瞳には朱い魚が映っている。魚だけが映っている。


 夕方、暗くなりだした頃、フェノルのデッサンは終わった。あれからスケッチブックのページを変えてデッサンは続けられた。慎重に魚の姿を描くこともあれば、ササッと大まかな形と陰影だけをつけて終りになることもあった。

 途中、茶葉を買いに来たお客さんも何人かいたが、フェノルが振り返ることはなかった。「絵描きさんなの?」と話しかけられても反応せず、覗きこまれても鉛筆は止まらず、傍に人が立っていることにすら気づいていないようだった。

 ガラス戸の近くで絵を描いているフェノルにお客さんが興味を示すたび、カリンは彼が叔母が支援している画家の一人で、次回作のために叔母のコレクションのはく製をデッサンしていると説明しなくてはならなかった。

 フェノルがデッサンをしている間、カリンは静かに彼の斜め後ろに座っていた。勤め先から持ってきた服を縫ったり、店内の置物や陶器を磨いたりしながら、デッサンが終わるのを待っていた。

 デッサンをしているフェノルの集中力はすさまじく、描き始めてから終わるまで、スケッチブックからまったく顔をあげなかった。何も食べなかったし、何も飲まなかった。横から盗み見るフェノルの眼差しは真剣そのもので、怖いとすらカリンは思った。

 そういえば、フェノルが絵を描いているところをじかに見るのは、これが初めてだった。絵を描いているとき、画面とモチーフをこんな目で見つめているのか。店でコーヒーを飲んだり、おしゃべりをしているときは、どこかボンヤリとしているくせに。魚を見つめる目は、まるで睨みつけるような、まっすぐ鋭く、全身全霊を込めた力強い目をしている。表情が違うだけで、まるで別人のようだった。

 こんなフェノルを、カリンは今まで知らなかった。

 絵を描いている最中は、近寄りがたい雰囲気をまとっていたフェノルだが、画材をしまってしまうと、途端にいつものぼんやりとしたフェノルに戻った。なんだかカリンは少しほっとする。

 疲れたでしょう? とコーヒーを淹れると「ありがとう」と呟いて口をつけた。湯気を見つめる顔に、先ほどまでの真剣で気迫にあふれた面影はない。

「フェノル。叔母さんがね、いい加減、返事が聞きたいって」

 魚のはく製を箱にしまいながら、カリンはフェノルに尋ねた。叔母に頼まれていたのだ。

 フェノルからの返事はない。ボーっとしてる。

「ねぇ、聞いてる?」

「聞いてる。もう少し考えたいんだけど」

 疲れがでてきているのか、声にはいつも以上に張りがない。

「ダメ。先方に返事をしなきゃいけないから、はっきり返事をしてって」

「…。分かったよ。店主の頼みを断れるわけないだろう」

「了解。伝えとく」

 叔母が今回、フェノルに依頼したのは肖像画だった。キサラ市場の常連客の一人がフェノルの絵を気に入り、ぜひ肖像画を描いてほしい人がいる、と頼んできたのだ。

 写真機が浸透してきた昨今、肖像画の依頼というのは珍しい。費用と時間のかかる肖像画よりも、20分ほど写真機の前でじっとしていれば撮れてしまう写真の方が誰だって便利だからだ。

 それでも伝統的で格式がある家柄などは家を飾るため、わざわざ肖像画を描かせることもあるという。しかしキサラ市場に出入りしているような画家にお呼びがかかることはあまりない。キサラ市場に出入りしている画家たちは前衛と呼ばれる若手がほとんどで、伝統的な手法から外れた肖像画を納品し、トラブルになることも珍しくないからだ。

 特にフェノルは肖像や自画像の類を描くことを嫌っているらしい。この間のミーナの広告の件も、しつこく口説かれ、叔母が口添えしやっと描いた絵だった。

 叔母もそんな事情から一端はこの依頼を断ったらしい。しかし、先方が「どうしても」「どんな肖像画でも文句は言わない」「フェノルの画風が気に入った。彼に描いてほしいとモデルも言っている」と譲らず、また先方がキサラ市場のお得意様だったため、断り切れなかったのだ。

 フェノルはふぅとため息をついた。やる、と言いながら気乗りしない、そんな態度を隠せないでいる。

「そんなに肖像画がイヤなの? ハイク辺りだったら、小遣い稼ぎって割り切りそうなのに」

「そこに僕の目指すものはない」

 張りのない声のまま、フェノルは言った。珍しく背もたれに寄りかかり、全身から力が抜けている。力強さはなかったが、その声にはフェノルの深奥から漏れ出たような響きがあった。

「フェノルの目指すものって、何なの?」

 フェノルが胸の内を言葉にするなんて珍しい。カリンは頬笑み、何気なく尋ねた。深い意図はなかった。ただ会話の流れとして聞いただけだった。

「その魚にはあるの? 作り物なのに?」

 カタンッと強く、フェノルがカップをテーブルに置いた。反動でコーヒーがこぼれた。焦げ茶色のコーヒーがジワジワとテーブルの上に広がっていく。

 先ほどまで疲れきって背もたれに寄りかかっていたフェノルが、背筋を伸ばし、カリンを凝視していた。何かに驚き、カリンを非難するように。

 カリンはフェノルの反応に驚き、息を止めてフェノルを見返した。

 一体、何が原因だろう。さっきの私の言葉だろうか? なんで、なんでフェノルが怒っているんだろう。怒りをたたえたフェノルの銀色の目に射抜かれて、カリンは動けなかった。ねぇどうしたの? という言葉さえ口にできない。

 徐々に、フェノルの目から非難の色が消え、代わりに戸惑いが広がった。フェノル自身、自分の感情に動揺しているようだ。ふいに顔をそらすと立ち上がり、スケッチブックと画材をまとめ始めた。

「フェノル!」

 慌ててカリンも立ち上がり呼びとめる。しかし、フェノルは振り返ることなく出て行ってしまった。



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