ベアトリスとカリン
あれはちょうど一年前のことだ。
カリンが叔母の店を手伝い始めて間もなかった頃、期待の新人の作品よ、と言って一枚の絵を飾った。その絵はすぐ売れてしまい、もう残っていないが五段街のどこかを描いた絵だった。
街角。通りの端にはトランペット吹きが立ち、着飾った女たちが大きな帽子をかぶって歩いている。自動車と馬車が仲良く並んで、通りを渡る人混みが途切れるのを待っている。それはよく晴れた日の街角を描いた絵だった。
それなのに、妙に寂しい絵だとカリンは思った。
人間はたくさんいて、人々の細かい所作や息遣いが感じられるのに、画面からは声が聞こえてこない。昼間なのに歩く人々の表情が窺えない。
例えばそういう下手くそな絵もある。人の姿が描かれているだけで、人間が描けていない絵だって。しかし、この絵はそういう未熟な絵ではないと、カリンは感じた。すぐそこに人がいるのに、何かで隔たっている。私から手を伸ばしても、決して手をとってもらえなような、どうしようもない寂しさ。
こんな寂しい絵を描く人が、どうして期待の新人などと呼ばれるのか分からず、カリンは叔母に尋ねた。
「楽しい絵ばかりが、絵ではないわ」
と、叔母は言った。
「楽しかったり、悲しかったり、寂しかったり、狂気だったり、熱狂だったり。見る者に何かを強烈に訴えられる描き手。それが大成する画家の条件だと、私は思ってるの。彼の絵を初めて見るカリンが、なんて寂しい絵なんだろうって思ったということは、彼の才能の証明じゃないかしら」
絵のことはカリンはよく分からない。叔母がそう言うからにはそうなのだろう、とその場では納得した。ただ、こんな寂しい絵を描くなんて、どんな画家なんだろうと興味をひかれた。
それがフェノルだった。
木箱のなくなった店内で、カリンはお茶の用意をしていた。キサラ市場では茶葉や茶器を販売するだけでなく、客が気に入ったお茶を飲んでいけるように、飲食できる場が用意されていた。普段は叔母が茶飲み友達を招いているが、今日はカリンだけである。叔母はその茶飲み友達と観劇に出かけていて留守だった。
カップとポットを用意してお茶菓子を選んでいた時、ドアのベルが鳴った。
「カリン、来たよー」
振り返ると黒髪の女が立っている。
「ベスいらっしゃい。今日は時間通りだね」
「それが午前のデートがキャンセルになっちゃってさ。急だったから遊んでくれる子もいなかったし」
「はいはい。相変わらずモテるんですね。座ってよ」
「お邪魔しまーす」
彼女の名前はベアトリス。カリンの友人で、同じ服屋で働く同僚だ。
ベアトリスは赤いコートを脱いで、大きな羽飾りのついた帽子をとりコートかけにかけた。今日来ているドレスはカリンが初めて見るドレスだ。妙に胸元が空いたそのドレスは、彼氏の誰かからのプレゼントに違いないとカリンは思った。
流行の髪形に、最新のファッション。これから繁華街にでも遊びに行くような派手な格好をしている。実際ベアトリスは夜な夜なそういった場に繰り出しては遊びまわっているのだ。今日も、突然店に遊びに来ると連絡してきたのは夜まで暇をつぶせる相手を探していたからだろう。交友関係が派手なベアトリスのことを悪く言う人もいるが、カリンはそんな彼女のことが嫌いではない。過度な遊びで身を滅ぼさないようにと願うばかりだ。
お茶とお茶菓子をベアトリスの前に出し、カリンはその向かいに座った。ゆっくりお茶に口をつけると、ふー、とベアトリスの肩から力が抜けた。
「カリンの淹れてくれたお茶が、一番好きだなぁ」
カリンが淹れたお茶を飲んだ時、ベアトリスは決まってそう言う。
「ありがとう」
『一番美味しい』と言わないあたりが、正直だな、とカリンは思う。でもそれはベアトリスがカリンに対して誠実に対応してくれている証でもあるので、むしろ『一番好き』という表現を光栄に思っていた。
「木箱なくなったね」
店内を見回していたベアトリスが言う。
「やっと引き取ってもらえたからね」
木箱が店内を占領してから一週間、ようやく昨日、引き取ってもらえた。だからこうしてベアトリスの急な訪問にも対応できた。
店内を見回していたベアトリスが、壁にかけられた絵に目を止めた。三枚飾られているうち、右側の絵をじっと見ている。それはカフェテラスの夜を描いたフェノルの絵だった。
「アイツ、まだここに出入りしてるんだ」
絵を見つめるベアトリスの目に友好的な色はない。
「うん。おととい持ってきたんだよ」
またあの話題か、とカリンは肩をすぼめた。
「カリンさぁ」
カップをテーブルに置き、ベアトリスがカリンの方を見た。普段はチャラチャラと笑っているベアトリスが笑みを消して真剣な表情をすると、変な威圧感があってカリンはますます肩を狭めた。
「何?」
「アイツのこと、まだ好きなの?」
ベアトリスはフェノルのことを”アイツ”と呼ぶ。重度の面食いのくせに、ベアトリスはなぜだかフェノルのことが”嫌い”なのだ。
「別に、好きってわけじゃないよ」
ベアトリスに尋ねられるたび、カリンは否定する。こうも厳しい顔つきで問われれば、素直に「はい」とは答えづらい。
「アイツは女を不幸にするヤツだよ。絶対、やめなよ」
いろんな男と遊んでいるベアトリスは、自身のことを男女の仲の専門家と自負している。そんなベアトリスから見て、カリンの片思いは子供の遊び、それも好奇心からマッチを手にして危険性に気付いていない火遊びのように思えるらしい。だからフェノルのことを話題にだすたび必ず忠告してくる。
「自分のせいで周りの女が不幸になっていることに気付いてないアイツは、最悪だからね。いい?」
「別に、フェノルが女の人を弄んでるわけじゃないじゃない」
「アイツが、女で遊ぶ男だったらこんな何回も忠告しないって。そういう遊び人は限度を知ってるし、本気になっちゃう女か、遊びで付き合える女かちゃんと見分けてるから。そうじゃなくて、アイツは自分にいれあげてる女がいることに気付いてないから性質が悪いの。その気がないならきっぱり断らなきゃならいのに、無自覚でいるから事態が悪化しちゃう。いれあげたり貢いだりして、不幸になるのはカリンなんだからね」
「貢いだりなんかしてないって。お金貸そうかって言っても断るのはフェノルの方だし」
彼は絵の代金以外は決して受け取らなかった。収入なんてほとんどなく、日々のパン代にだって困っているのだろうにも関わらずだ。
「貢いだあとに言っても遅いから」
「はーい」
さすがにムッとして、カリンは口をとがらせた。表情を隠すため、カップに口をつける。
「純情もいいけどさカリンが騙されないか心配だよ。そうだ君も一度遊べばいいんだよ。今時、結婚まで処女なんて流行らないんだし。避妊すれば大丈夫だから。自覚があるヤツ紹介しようか?」
ブッ。さすがにベアトリスのこの発言には、カリンも驚き、お茶が気管に入ってしまった。激しくむせる。
「大丈夫?」
「どうしてそうなるのっ!」
顔を真っ赤にしてカリンは叫ぶ。
「カリンて純情だからさ。遊び人なんてみんな女の敵って思ってるんだろうけど、お互いが遊びだって、深い関係じゃありません、て自覚してればそれ以上にならないでしょ? 大丈夫、私の友達に経験の無さにつけこむようなひどいヤツはいないから」
「いいです! いらないです!」
カリンは必死に手を振って否定する。ベアトリスもそれ以上は言わなかった。間をおくようにお茶を飲み、ベアトリスはもう一度絵を見上げた。
「あんな寂しい絵を見せられたら、気になるのも分かるけどね」
画面の左半分は、明るいカフェのテラスだ。男たちがワインを飲みながらカードゲームに興じている。しかし右半分は暗闇に沈んでいた。暗闇の中で建物の影がゆらりと星灯りに浮き上がっている。建物の影をようく見つめると、誰か人物の影が描かれているのが分かる。目を凝らしすぎるとかえって見失ってしまうくらい、かすかな人影。カリンには、その人影がフェノル自身に思えてならないのだ。
「私は、さ。フェノルが寂しくないようにしてあげたいだけだよ」
カリンの呟きに、ベアトリスは肩をすくめた。




