フェノルとカリン
淡い初恋のお話
章=1、フェノルとカリン
木箱の山に埋もれるようにカリンは座っていた。欠伸を一つ。眠たそうにしながら、コーヒーをすする。
ここは”キサラ市場”という名前の店だった。コーヒー豆や紅茶、他にも珍しい茶葉や外国の茶器を置いている。
店主はカリンの叔母が務めており、カリン自身は頼まれて留守番をしている。カリンの本業は針子だった。今も、横に置かれた木箱の上には縫いかけのスカートと裁縫道具が載っていた。
コーヒーを飲みほし、カリンはスカートを手に取った。
顔をあげると、すぐ目の前には木箱が山積みされていた。思わずため息のもれる光景に、カリンは手にしたスカートを元に戻す。
狭い店内は木箱によって埋め尽くされていた。かろうじて人が一人すり抜けられるだけの隙間は残してあるが、床には全て木箱が置かれ、木箱の上にはまた木箱が載り、レジカウンターの上も占拠している。
テーブルやイスは全て、店の外の軒下に追いやられていた。カリンが座っているのも、コーヒーカップを載せているのも、全て木箱の上だ。
これらは全てお得意さんからの注文の品だった。中身は東洋の茶葉と専用の茶器だそうだ。茶道楽の金持ちが何百人と客を招いてパーティを開くとか。
大量注文だ、と叔母はウキウキしていたが、この量と大きさの木箱で入荷するとは予想外だったらしい。店の倉庫にも入りきらず、仕方なく店内に運び込んだ。貴重な茶器が割れないよう、厳重に厳重に! と出荷元にうるさく言ったところ、こんなでかく頑丈な木箱で送られてきたのだった。
ヤになっちゃう。カリンは思った。
カリンに店番を頼んだ叔母は、注文主の元へなるべく早く引き取りに来てくれるよう相談しに行っている。
お客さんが来たらよろしくね、と叔母は言い置いていったが、こんな状態でどう接客しろというのだろう。
何度目か分からないため息をついたとき、カラン、とドアに取り付けられているベルが鳴った。
「いらっしゃい!」
カリンは声を張り上げたが、反応がない。店内を埋め尽くす木箱に戸惑っているのかと思ったが、それにしても何の反応も返ってこないのはおかしい。
カリンは立ち上がり、木箱の上に登った。そして木箱の向こうへ身を乗り出す。
「あ、フェノル。いらっしゃい」
ドアの前に、戸惑った表情で立ち尽くす銀髪の青年がいた。
「今日の用は? あ、そこの隙間が通れるから」
青年の右前方を指さし、カリンは木箱から降りた。
店内は木箱に占領されているが一応、お客さんが来たときのため人が座れるスペースも確保されていた。イスもテーブルも木箱の代用で、肘を張ればお互いぶつかってしまうくらい狭かったが。
カリンはあたふたとスカートと裁縫箱をまとめ、自分が座っていた木箱に置いた。そして木箱の隙間から姿を見せた青年に、空いた木箱に座るよう勧める。
青年は不安そうに木箱を見上げながら腰かけた。
「叔母さん、お客さんの所に出かけてるんだよね。コーヒー飲む?」
青年が頷いたので、カリンは店の奥へコーヒーを淹れに向かった。そこは叔母の住居兼倉庫で、当然ここも木箱で埋まっている。本当は店内にガス台があるので、普段はそこでコーヒーを沸かしているのだが、こんな状態では使えない。
フェノルが来た、とコーヒーの準備をしながらカリンは笑顔になった。フェノルが来た。今日店番をしていてよかった。
先ほどまでの退屈さが嘘のように消え、俄かにウキウキしだした。フェノルが来た。
カリンはトレイにカップを二つとポットを載せ、店内に戻った。顔がニヤけるのを止められない。
青年の前に、湯気の立つコーヒーカップを置く。青年は一口すすると「ありがとう」と言った。
カリンもスカートを別の木箱に移し座った。
青年フェノル・エガークはこのキサラ市場の常連の一人だ。客かどうかは疑問符がつく。彼は画家で、それもあまり売れていない画家だった。日々のパン代にも困る生活をしているので、当然お茶を買いにくる余裕などない。
そんな彼がこの店にやってくる理由は、叔母がパトロンをしているからだ。叔母は自分が気に入り、そしてまだ売れていない画家がいると、その画家の作品を店に飾る。キサラ市場の常連客には上流階級の人間も多いので、その中で前衛芸術に理解があったり投資しようという人に作品を紹介し、彼らを援助していた。
フェノルのように特にお金に困っている画家に対しては、叔母が直接、絵を買い取り生活を助けている。
お茶や茶器だけでなく絵に対しても目利きだとかで、叔母のその方面に対する評価も高い。実際、叔母が紹介し、売れっ子になった画家もいた。
今も木箱に隠れてしまって見えないが、店の壁にはそういったまだ無名の画家の絵が飾られている。
前回フェノルが絵を持ってきてから一か月ほど経つので、そろそろ来る頃だと思っていた。今日だとは、カリンは予想していなかったけど。
「今日も絵を持ってきたんでしょ?」
カリンが尋ねると、フェノルは頷き視線を後ろにやった。
意味が分からずカリンが首を傾げると、
「ドアのところに置いてきた」
とフェノルは言った。
「分かった。叔母さんに伝えとく。お金は明日でもいい?」
カリンはお茶の販売はできるが、絵の見立てはできない。
フェノルは浅く頷いて、またコーヒーをすする。このままカリンが無言でいれば、フェノルはほとんど会話もないまま、コーヒーを飲み終わり帰ってしまうだろう。カリンは話題を必死で探した。
「ねぇ、後で見てもいい?」
いつもフェノルは絵を麻で包んで持ってくる。最近はフェノルの絵に注目する人も出てきたとかで、カリンが絵を見る前に売れてしまうことも考えられた。
フェノルはまた、ゆっくり頷く。
木箱が積み上がっているせいで、店内は薄暗い。窓からの光は遮られているが、ガス灯を点けるほど暗くもない。薄暗がりの中で、フェノルの銀髪は色をなくし、顔に落ちた影が白い肌をさらに白く見せていた。女であるカリンが羨むほどの白さだ。
「フェノル」
カリンが名前を呼ぶと、フェノルはこちらを向いた。色の薄い瞳に、カリンの姿が映っている。
「今度の絵は、どんな絵なの?」
「ミルク・ブブの夜のテラスを描いた」
カリンが彼の絵について質問すると、やっと彼はしゃべりだした。
ミルク・ブブとは彼行きつけのカフェで、この店と同じく貧乏芸術家が集まる店だと、以前聞いた。
「夜のあの店を描いたことはなかったから」
「そっか。そういえば、依頼されてた広告はどうしたの?」
「もう仕上げた」
「ミーナのショーの広告だっけ。いつ配るかな。私の分、もらってきてよ」
「さぁ、没の可能性もある」
「ミーナ直々の依頼だったんでしょ? 没なんてなるの?」
「支配人には、もっと過激ならないのかと言われたからね」
「そうなんだ」
ミーナとは有名キャバレーに出演している売れっ子ダンサーだ。この街でミーナの顔と名前を知らない人はいないだろう。それくらいの人気者だ。
彼女から直々に広告の依頼があったとき、フェノルはなぜそんな売れっ子が自分のような無名の画家に依頼するのだろう、と首をひねっていた。しかし、カリンは何となく理由が分かっている。多分、どこかでフェノルを見かけたミーナが、フェノルに一目ぼれでもして、彼に近づくためにしたのだろう。
銀糸の髪に、光によって色を変える薄い瞳、白磁のように白い肌。ある劇場の支配人は、フェノルを俳優にしようとしつこく勧誘していると聞く。通りを歩けば女の視線を釘づけにする。フェノルはそんな美形なのだ。
「ねぇ、フェノル。私をモデルに絵を描いてよ」
努めて明るく、冗談に聞こえるようにカリンは言った。
しかしフェノルは首を横に振る。
「どうして?」
カリンが尋ねると、フェノルはカリンのほうに向きなおった。
木箱によってできた狭いスペース。木箱になんて座るんじゃなかった、とカリンは思った。
フェノルの膝が、カリンの足に当たった。フェノルはすぐ謝って離れていったけど、顔が赤くなってはいないだろうか。
「モデル代が払えない」
「…。いらないのに」
予想通りの返答に、カリンは苦笑いをする。
本当にいらないのに、どうやったら彼は理解してくれるだろう。フェノルが帰ったあとも、カリンは考えていた。




