これがぼくの愛、これがぼくの心臓の音
アスタロトがアンジェロの胸についていた手を離した。
「約束通り、更に強化しました」
「あぁ。これなら長年温めてた能力も使えそうだ」
アスタロトと約束をした。願いの消費ではなく、相互に約束を結んだ。仮に互いに約束を破られても、特に困ることもない。
VMRに関して悪魔には既にミナで叶えさせている願いがあるので、その願いに接触する行動をとることはできない。つまり、政治的な関与は一切できない。裏を返せば、理由が政治的でなければ、何でもできると言う事だ。
アスタロトがかつて保有していた固有の財産、エレストルを奪還する、という個人的な事情にしてしまえば、国盗りをする理由は成り立つ。
本来は悪魔だってあの様な大国を保有する理由はない。勿論自分達の領土を持つことは必要ではあったが、あれほどの領土も権力も必要か、と問われれば、答えは必要ない、だ。
アスタロトがあそこまで領土を広げて勢力を拡大させたのは、他者からの牽制だ。他の悪魔族に付け入る隙を与えないため、他の種族―――――例えば人間に、侵略できるかもしれない、と思わせないため。あとは趣味半分だ。
それをわざわざ奪還しようとするのは、やはり自分自身の繁栄の為と、権威を手中に収めていたいから。なによりも、吸血鬼ごときに国外退去させられたことが憎くてならない。その雪辱を果たすために、国と民を奪う。とくに必要のないものでも、復讐のために必要なら奪い取る。ただ、それだけ。
アンジェロが約束したこと。VMRへの侵攻、アルカードと山姫一族殺害後のアスタロトの自由、アスタロトが約束を守ったのちに、魂を引き渡すこと。
アスタロトが約束したこと。強化、アルカードを殺害する権利、大隊の付与、ミナの記憶の改竄。
「本当に国を裏切ってよかったのですか? こんな事の為に官房長官が裏切るなんて」
「お前には“こんな事”でも、俺には大問題だ。俺は絶対ミナを取り返す」
ミナの記憶は失われて、戻らない。アルカードにも不可能だ。だが、悪魔になら可能だ。千里眼を使ってずっと二人を監視し続けていたアスタロトなら、記憶を戻すことは不可能でも、過去の出来事を記憶させることはできる。
アンジェロはミナの全てが欲しい。心も体も、現在も未来も過去も。それらを手に入れて、完全に完璧にアンジェロの物になったなら、それで死んでしまっても構わない。
「アイツは多分、双子から話を聞いただろ。それで、記憶がないことを嘆いたはずだ。昔の事を記憶させてやれば、アイツは幸せなはずだ」
「その為に国を裏切るんですか? 確かに、アルカードのやり方は私も驚きましたが」
「裏切るさ。どの道あのままなら、俺が犠牲を払ってたことに変わりはなかったんだ。利用価値があって、かつ邪魔になれば俺でも殺すだろ、奴は」
「フフ、まるでチェーザレ・ボルジアですね」
「それ以上だ。権威の為に俺どころかミナすらも利用するからな。俺が犠牲になるのはいい。でも、ミナはダメだ。どうせ俺が犠牲を払うなら、裏切り者だろうが戦犯だろうが、どんな不名誉な称号でも受けてやる。
下らねぇ理由で俺とミナを別れさせて、記憶を復元することはできないと知ってたくせに、俺とミナと双子の、家族の記憶の一切を消し去りやがって。アイツだけは許さねぇ。俺の手で殺す。殺して、今度こそ本当にミナを手に入れる」
「死ぬときは一緒―――――ですか?」
「そうだ。アイツは俺となら、心中するさ」
アンジェロはミナの全てが欲しい。心も体も、現在も未来も過去も、命も。本当に、ミナの全てを。
「アイツを手に入れられるなら、国の一つや二つ、悪魔に売り渡す。俺が一番必要としているのは、国なんかじゃねぇ」
「酔狂ですね」
アスタロトの言葉に、アンジェロは自嘲するように笑った。
理由なんて、アンジェロにはそれで十分だった。彼にとってミナはその人生の全て。国とミナを天秤にかけるほどの事もない。何と比較しても、アンジェロの中ではミナが最上位にやってくる。ミナの為に国を裏切ることくらい、アンジェロには大した問題ではなかった。
きっとミナが世界を滅ぼしたいと言えば、アンジェロはその願いを叶えるし、ミナが神になりたいと言えば、アンジェロは祀り上げる。ミナの為に全身全霊を注ぎ、ミナの全てを手に入れる事が出来たなら、その悲願が叶うなら、この世界でアンジェロが惜しむものなど何一つない。例え、誰の命であっても。だから今日まで、悪魔との契約を解約させなかった。
ところで、とアスタロトが振り向いた。
「長年温めていた能力とは、なんです?」
「あぁ、そうだな。折角だから、試してみるか」
不意にアンジェロは視線を横に流すと、傍らでアスタロトに礼を取っている魔女を見つけて、近寄った。魔女が礼を取っているのを立たせると、ぐい、と顔を持ち上げて魔女の顔を覗き込み、ニヤリと笑う。
「お前、いい女だな」
「えっ」
そう言うと、魔女の表情が変わる。歓喜に。それを見て手を離すと、アンジェロは魔女に向かって言った。
『跪け』
言われた瞬間、魔女は膝を折りアンジェロの前に跪く。魔女は、自分でその行動をとったことに驚いた様子で、瞳を泳がせている。
「何をしたのです?」
「俺らしい能力だろ。口手八丁で人を操る、そう言う能力」
「あぁ、なるほど。実にあなたらしい。口が達者で嘘吐きで、口から先に生まれてきたようなあなたには、ピッタリですね」
「まぁな」
音響の波に言霊を載せて、人を服従させ操作する能力。アブソリュート・ジュリスト。アンジェロの言葉は、法律だ。彼の能力にかかったら、その法を遵守しなければならない。それこそが絶対服従。
制限はある。操作の前に、アンジェロに対してポジティブな感情、または畏怖を抱くこと。誰だって好意を持った相手、畏れた相手の話は聞く。それが服従の心理。
受け入れやすい状態に落として、強制的に服従させる。一度それにかかった者は、今後ずっと、アンジェロの操り人形。自称・籠絡王には、おあつらえ向きだ。
―――――恐ろしい能力を考えたものだ。
アスタロトは心の中で、素直にそう言う感想を呟いた。確かにアンジェロらしい。アンジェロの言葉は市民たちの意欲を掻き立て、シュヴァリエ達の戦意を高揚させ、ミナの心をかき乱す。彼の言葉には、他者にない力がある。
ヒトラーやキリストが多くの人々を扇動出来たのは、その能力もさることながら、声とその口述、演説力にあったとされている。
ミナはアンジェロにいつも耳元で囁かれる。低く少しハスキーで、それでいて脳髄の奥まで響き渡るような声。その声で囁かれると、抗えない。言葉の力、言霊、声のカリスマ。
―――――もし、その能力を以て私の方が裏切られてしまったら?
そう考えてはみたが、それはなさそうだ。アンジェロがアスタロトを裏切っても、得るものは何一つない。アンジェロが全てを失って、何も手に入れられないだけだ。
アンジェロが裏切ったら、ミナに記憶を書き込む必要はない。そうなってもVMRへの侵攻をやめる理由にはならないし、それでもアンジェロの魂は手に入る。
ミナはアンジェロを愛した。アルカードはミナから手を引くと宣言した。ミナとアンジェロが再会して、互いに愛を確かめ合ってしまえば、その瞬間にゲームオーバーだ。
―――――この男も、バカな賭けにベットしたものだ。
アンジェロが裏切っても裏切らなくても、アスタロトはいっこうに困ることはない。困るのはアンジェロだけ。相当に分の悪い賭け。勝っても負けても、アンジェロは莫大な賭け金を支払わされる。
それでも、アンジェロは昔からそう言う男だった。アスタロトから見ればくだらないことに、法外な賭け金を支払うのは今に始まったことではない。
―――――何もいらない。どうだっていいんだ、俺は。ミナさえいれば、何もいらない。
彼を突き動かす原動力、ミナ。彼の愛、彼の魂、彼の狂気、彼の夢、彼の願い、彼の全ては、ミナの為に。
彼が笑うのはミナのため。彼が泣くのはミナのため。彼が呼吸するのはミナのため。彼が血を啜るのはミナのため。
彼の腕が長いのはミナを抱きしめるため。彼の指が綺麗なのはミナを愛でるため。彼の眼差しが強いのはミナを見つめるため。彼の声が美しいのはミナに囁くため。彼の心臓の拍動は、ミナと共に生き、ミナと共にその拍動を止めるため。彼の全てはミナの為に。それが、彼の愛。
アンジェロにとっての問題は、自分がミナを愛していることと、ミナが自分を愛している事、それだけ。それだけで、アンジェロは世界を敵に回せる。例え全てが敵に回って、この世の全てがアンジェロを軽蔑しても、ミナさえアンジェロを信じて愛していれば、彼はそれで十分なのだ。それで十分に、自分の心臓を握り潰す理由になる。
―――――本当、妙なところがジュリオ様に似たなぁ。ジュリオ様もこんな気分だったのか。
そう考えて、やっぱり少し自嘲した。愛に狂った男に育てられて、結局は似てしまった。親子揃って愛が狂い咲き、踊り狂っている。最早そんな事も、どうだってよかった。
アスタロトに連れて行かれたのは、ナボック城の北にある砦。国境を接する砦の向こう側には、VMR最南端の砦、オキクサムの砦がある。勿論吸血鬼の視力を以てしても見える距離にはないが、もう、目と鼻の先だ。
オキクサム砦とナボック砦の間には国境線となる関所が存在する。通行手形が認められれば、その関所を通過できる。行政、自治体、商人たちにはその手形が配布されているが、一般人には手に入らない。
砦の城壁から、国境を眺めた。
「ここから、関所を通過してオキクサム砦を攻めるのか?」
「順序としては、ね」
「お前のカードは、何枚?」
「今のところ私の手札は、15万です」
「ハハッ、たったの5年で、えらく集めたな」
「当然、他国を侵略して強奪した民や捕虜ですよ」
「裏切られたら?」
「裏切りませんよ。王家と兵の家族を人質に取っていますから」
「手抜かりなしか。さすが悪魔だな」
「ふふ、ありがとうございます。あなたにはナボック兵を与えましょう。ディアリですが数は多いので、用兵次第ではいかようにも使えるでしょう」
言われて砦内を見ると、砦の守備兵や男達が大勢集められているのが広場に見えた。
「ふぅん、ディアリか。数は?」
「2万です」
「そんだけいりゃ、脆弱なディアリでも充分だ。コイツらの家族も人質にしてるのか?」
「ええ、勿論。家族にとっては、兵たちの方が人質ですから、どちらも無闇な行動はとれません」
「なるほどな。じゃぁ、家族は殺しちまえよ」
それを聞いてアスタロトは可笑しそうに顔を歪めた。
「あなた、意外に面白いことを仰いますね」
「意外か? 普通だろ。人質なんていても邪魔だ。兵たちに死んだと伝えなけりゃ、それで済むだろ。ここから俺達が進軍を開始した後に、人質の奴らが蜂起するって可能性はゼロじゃねんだから、殺しといた方が無難だろ」
「うふふふ。そうですね。そうしましょう」
アンジェロの提案を聞いて、アスタロトは笑う。とてもとても、愉快そうに。
「そんなに面白いか?」
「えぇ、とても」
「どの辺が?」
「あなたの、綺麗事だけで済まさないところですよ」
ハン、と鼻から抜けるように返事をして、アンジェロはアスタロトにニヤリと笑う。
「それに比べて、お前は随分綺麗な真似をするな」
「そうですか?」
「そうだろ。わざわざ南から攻略するなんて、戦争に礼儀が必要か?」
「不要ですが、南を陥落させておかないと、それこそ進軍中にオキクサムに駐屯している軍が侵略してくる可能性もありますから」
「その心配はねぇよ。あの男は専守防衛にかけてる。こっちから攻撃しない限り、あっちが攻撃してくることはまず、ない。南から攻略しても、消耗戦になるだけだ」
「そうですか。ならば?」
『直接首都を狙えばいい。できるだろ?』
「ええ、勿論。そうしましょう」
「けど、今すぐってわけにはいかねぇな。俺が消えて国内は混乱してるだろうけど、俺がお前に寝返って進軍してくることは読めてるはずだ。同盟国から援軍を呼ぶだろうから、こっちもあの男の策を吹聴してやれば、自然VMRの敵に回るはずだ」
「いえ、それはいけません」
拒否の言に、アンジェロは不思議そうにアスタロトを見た。
「確かにナエビラクなど、真実を話せばVMRの敵に回るでしょう。そして戦勝して、その後は?」
「あぁ、今度はその連合国、同盟国でお前に攻撃を仕掛けるか」
「ええ、そうです。敵を打倒したら新たに敵を作り出し、そこに攻撃を仕掛ける。それこそが人、それこそが生物ですから」
「なるほどな」
「しかし、援軍は少しばかり厄介ですね。VMRを陥落した後に援軍が到着するようなことになっても面倒ですし、どうせなら一網打尽にしてしまった方が良さそうです」
「援軍が到着するのは、閨秀からは早くて半年、聖トロイアスからは早くて3か月、ってとこか」
「ならば、長めに見て―――――今は2月ですから、10月ごろでしょうか」
「いや、12月がいい。12月24日」
「何故、その日に?」
「ミナとの結婚記念日だし、俺達にとっては、クリスマスイブは戦争の日だ」
「あぁ、そうでしたね。ですが、いささか遅くはありませんか?」
「そうでもねぇさ。あっちの国軍の武器庫は破壊してきたから」
「うふふふ、あなたこそ、抜かりがないじゃないですか」
「まーな」
「では、そうしましょう。クリスマスイブの日に。聖夜の戦いを」
「あぁ、楽しみだ」
「楽しいですか?」
「とても」
「うふふ」
「楽しい、とても。これからあの男を殺して、あの男が死ねば、ミナは俺の、俺だけのものになる。アイツがあの男の為に生きて、あの男の為に死ぬなんて許せない。それが許されるのは俺だけじゃなきゃいけない。
あぁ、早くミナに会いたい。ミナに会って、ちゃんと愛してると言って、ミナを殺して死にたい。あぁ、早く、ミナを殺したい」
アスタロトはアンジェロの呟きを聞いて、つくづくイカレた男だと思ったが、随分面白いとも思った。本気で愛してる相手を、愛ゆえに殺したいと願う。
―――――人の愛は、美しい。これほどの狂気が生まれるから、美しい。
感動すら覚えた。アスタロトは人の堕落と狂気がたまらなく好きだ。それを引き出すために策謀の限りを尽くす。人を貶める為に数々の堕落へ誘う。アンジェロも、その一人。
アンジェロもわかっている。悪魔に都合のいいように利用されることは目に見えている。それでも、どうでもいい。
―――――ミナ、会いたい。愛してる、本当に。あぁ、早く俺の心臓を刺して、お前の心臓を撃ち抜かせてくれ。生まれ変わって出会ったら、また恋をして、一緒に死のう。
ピアノを奏でるように恋をする。時計の様に歯車を回す。花火の様に明るく咲いて、一瞬で燃え落ちる。それが彼の愛、それが彼の夢、それが彼の、心臓の音。
★これがぼくの愛、これがぼくの心臓の音
――――――――――萩尾望都「トーマの心臓」より




