覆水盆に返らず
アンジェロの居場所も思考も、アルカードにもわからないようだ。移動の足跡としては、後宮、執務殿、自宅が国内では最後で、その後、ロダクエに渡ったことしかわからないようだった。
集まった内閣をはじめとするシュヴァリエ達や、虎杖や苧環などの山姫一族の主要メンバーは、それを聞いて顔色を変えた。
「ロダクエって・・・・・」
「まさか、官房長官はアスタロトの所に?」
「まさか! アイツが悪魔に着くわけねぇよ!」
「そうだけど、じゃぁなんでロダクエなんか!」
「陛下、本当にアンジェロはロダクエにいるんですか!?」
「いるのかは、わからない。ただ、そこで小僧の足跡が途絶えたことは確かだ」
ロダクエに渡りアスタロトと合流して、アスタロトの力を以てアンジェロの探索を遮っているとしか考えられない。
「ウソだ・・・・・アイツが裏切るなんて、あり得ない! きっと何かあるはずだ! 何か知ってるだろ!?」
必死な形相でクリスティアーノに掴み掛られたが、ミナにもどうなっているのかが分からない。
「小僧に最後に会ったのは、お前だな」
「はい」
「小僧は、別れの挨拶をしに来たのか?」
脳裏に思い返される。アンジェロは今日に限って、今日初めて、愛してると言ってくれた。
思い返す、アンジェロの優しいキス。思い出して、涙が溢れてきた。
「どこに行っても、何があっても―――――それは、いなくなるって言う意味だったんですか?」
「・・・・・そうなのだろう」
「アンジェロに会えるのは、今日が最後だったんですか?」
「わからない」
「今日で会えるのが最後だから、言ってくれたんですか?」
「・・・・・」
沈黙したアルカードの顔を睨みつけながら、涙がぽたぽたと床に滴り落ちた。
アンジェロが裏切り、アスタロトについた。それはまだ確証が持てなかったが、この国から消えてしまったことは確実なようだ。
ミナには、その理由は一つしか思い浮かばなかった。アルカードの策略でミカと引き離された事。あの時、アンジェロがアスタロトに言った。
「またなんかあったら呼ぶかもしんねぇ」
「クス。そうですか。お待ちしてます」
アスタロトは見抜いていて、そう返事をした。アンジェロの、アルカードに対する復讐心。
「アルカードさんの、せいです。アンジェロを追い詰めたのは、アルカードさん。アンジェロは本当に愛してたのに、アルカードさんのせいで・・・・・アンジェロは死ぬ程愛してたし、アルカードさんのことだって信じてたのに、裏切ったのはあなたの方じゃないですか!」
「ミナ、よせ」
アルカードに泣きながら掴み掛ると、慌てた様子でクライドが止めに入った。
「だって、そうでしょ!? 全部アルカードさんが仕組んだ茶番じゃないですか!」
「ミナ、やめろって!」
「離してよ! クライドさんだって本当は全部知ってたんでしょ!? アンジェロがミカさんを裏切っ・・・・・うっ」
「黙れ!」
クライドに無理やり掌で口をふさがれて、言葉が切れた。それでも、十分にミナの言わんとしていることは、周囲に伝わったようだった。
クリスティアーノが目を見開いてアルカードに向いた。
「陛下が、仕組んだんですか? 二人を、別れさせるために?」
アルカードは沈黙して、眉一つ動かさない。
ジョヴァンニが顔を歪めて、アルカードに問うた。
「また、同じ事を繰り返すんですか? アンジェロがどんなに愛してたか、知ってたはずなのに」
レミが、アルカードに敵意の眼差しを向けた。
「何が起きても、知りませんから」
そう言ってレミが背を向けると、シュヴァリエ達は一人一人背を向ける。
「アンジェロは、戦略と戦術のプロですから」
「いくら陛下でも、アンジェロには小細工は通用しません」
「お前達、裏切る気か」
アルカードの言葉に、クラウディオとクリスティアーノだけが振り向いた。
「勘違いしないでください」
「俺達は今も昔もアンジェロの部下であって、あなたの部下じゃない」
そう言うと二人も背を向けて、シュヴァリエ達は全員いなくなってしまった。
どうしよう、とボニーを始め女性陣はオロオロするが、年長組の女二人は落ち着いたものだ。
「行政の方は、あたしの方で考えておくわ。アンジェロとシュヴァリエの穴埋めは大変だから、しばらくまともに運営できないかもしれない。この間に何か起きるかもしれないから、一応覚悟しておいて」
「わかった。この件は、可能な限り内密に頼む」
「ええ、わかったわ」
返事をすると、山姫は苧環を連れて退室した。
「アルカード、彼らが造反したことは、全て為政者としてのあなたの責任よ。私としては坊やにも彼らにも戻ってきてもらうよう尽力するのがベストだと思うのだけど、あなたはどうする気なの?」
ミラーカに問われて、アルカードはしばらく考え込むように目を瞑っていたが、目を開けてミラーカに向いた。
「私もそれが一番望ましいが、今の段階では無理だろう。小僧の思考が聞こえないのは、今に始まったことではない。悪魔と随分前から結託していたのか、それとも小僧の能力を以て妨害しているのかは定かではないが・・・・・」
それを聞いて、ミラーカはチラリと捕まったままのミナに視線を送る。
「ミカに戻してあげれば、それで済むかもしれないわよ?」
「それは、できない」
「できないというのは、あなたには不可能、という意味ね?」
「そうだ。既に立証済みだ」
「そう・・・・・」
アンジェロが出奔した理由の一つは、そこにある。勿論ミナが記憶を失った時点で、アンジェロ達も試みた。ミナに、以前の記憶を戻すこと。
純血種は吸血鬼の能力を全て兼ね備えている。双子は魔眼の能力など使ったことはなかったが、試しにやらせてみたのだ。しかし、不可能だった。
「ダメだよ、できない」
「お母さんが昔夫婦をしてたって言う記憶は、どこにもない」
人の記憶は樹木と喩えられる。人間が記憶喪失になった時は、枝の一本を揺すれば、他の枝も揺すられて記憶を呼び覚まされる。アスタロトが記憶を操作する場合も、記憶の一部を凍結させていたにすぎず、だからこそ失った記憶を取り戻すことができた。
しかし、アルカードの魔眼はそこまで万能ではない。人を操るのは一時的な物だし、失った記憶は二度と戻らない。記憶の枝ごと、折り取られてしまっているのだ。折れた枝は、二度と元には戻らない。
だからアンジェロも双子も、ミカを取り戻すことは諦めたのだ。だからアンジェロはミナに新しい関係を求めた。
―――――小僧は真相を知った。二度とミカは戻ってこない。だが、ミナは手に入った。なのになぜ出奔し、しかもミナを置いて行ったのか。
ミナとアンジェロが密かに付き合っていることを知っているのは、アルカードと双子だけだ。他の者は知らない。
アンジェロはミナに言った。何があっても自分を信じろと。もしかすると、悪魔の下でミナにミカとしての記憶を戻す方法でも探ってくる気なのだろうか、とも考えた。その可能性もゼロではない。
だが、ひょっとするとまずは自分が出奔し、シュヴァリエやミナに自分の意志でアルカードの元を離れるように仕向ける為、そう考えられなくもない。アンジェロの命令ではなく自分の意志で離れてしまったなら、何をするにしてもやり遂げる以外にはなくなるからだ。
―――――だが、わからない。クソ、あいつは何を考えている?
アルカードはやっとのことでクライドから解放されたミナに振り向いた。
「ミナ、お前はどうしたい?」
尋ねられて、怒りの向くまま、アルカードを睨んだ。
「アンジェロのとこに行きたいです。だけど、アンジェロがどこにいるかわからないし、私を置いてったって事は、私が来ない方が都合がいいって事でしょうから、ここにいます。
でも―――――アルカードさんを、恨みます。ミカさんがいなくなったのも、アンジェロがいなくなったのも、アルカードさんのせいですから」
その言葉に、アルカードは気付いた。
―――――そうか。消えたのはミカだけではない。ミナの元から、小僧が消えた。その為に、小僧はミナを置いて行ったのか。私のせいで小僧がいなくなってしまった、そうミナに思わせる為に―――――。
ミナに、アルカードを恨ませる為に。ミカとアンジェロを引き裂いたのも、ミナとアンジェロを引き裂いたのも、アルカードのせいだと思わせる為に置いて行った。
―――――すべて、小僧の思惑通りか。この状況では、ミナを手放さざるを得ない。
こうなった以上、アルカードがミナを傍に置いておくのは反って危険ともいえる。
「ミナは、もう後宮を出ろ。お前は、都庁舎へ行け」
「そうさせてもらいます」
返事をして、ミナはすぐに消えた。
一旦後宮の自分の部屋に戻って、とりあえず荷物を纏めて庁舎へ転移した。すると、部屋には明かりがついていて、人がいた。
アンジェロが帰って来たのかと思って一瞬気分が高揚したが、いたのはミケランジェロだった。
「お父さん、いなくなっちゃったみたいですね」
「・・・・・うん」
「ミナさん、ここで暮らしますか?」
「陛下にもそうしろって言われたし、私もそうさせてほしいんだけど、ミケランジェロくんがダメっていうなら・・・・・」
「言いませんよ。ミナさんの部屋はとっくに用意してありますから」
「えっ?」
「来て」
ミケランジェロは笑ってミナの手を引く。連れて行かれた先は、ミカが使っていた部屋だった。
「ここ、使ってください。多分お父さんも喜ぶし。お母さんの荷物も残ってるけど、それも使ってもらっていいですから」
「それはできないよ」
「いいえ、いいんですよ。きっと趣味もミナさんとあうし、服のサイズもピッタリだし。寝る時は寝室を使ってくださいね」
ミナは一度も立ち入ったことはなかった。興味がないわけではなかったが、とてもではないが見せて欲しいなどとは言えなかった。
初めて入ったミカの部屋。書斎並の蔵書量。並んでいるのは、小説や様々なジャンルの専門書。物理学や化学の本。ドレッサーの上の櫛やアクセサリー。テレビの前のゲーム。クローゼットの中の服。インテリア。
他人の部屋だとは思えなかった。趣味が合うどころではなかった。ポケットから、写真をとりだした。
「ねぇ、これが、ミカさんなの?」
写真をミケランジェロに見せた。ミケランジェロは少し驚いたようだったが、少し物憂げに笑った。
「翼も、呼びましょうか」
そうして翼もやってきて、3人でリビングのソファに座った。
ミケランジェロは一旦席を立って、何冊もアルバムを持ってきた。
「お父さんとお母さんと、僕達の写真です」
「僕達?」
「そう、僕達」
翼が返事をした。
「不思議に思ったこと、あるでしょ? ミナさんとお父さんは古い付き合いなのに、ミナさんがお母さんに会ったことないなんて、あり得ない」
「・・・・・うん」
「その答えは、そのアルバムの中に」
とりあえず見ればわかると思って、アルバムを開いた。
アルバムの中の写真は、ミナとアンジェロの写真で埋め尽くされている。笑顔でバラの花束を抱えるミナや、シャンティ達と一緒に映っている写真や、アンジェロと二人で映っているもの。下に貼られている付箋には、旅行先の名前やミナとアンジェロの誕生日の日付が書いてある。最初の頃はそう言う写真が多かった。
何枚もページをめくると、ミナは一点で手を止めた。
「これ・・・・・結婚式?」
「そうですよ」
ミナとアンジェロの結婚式。黒のドレスを着たミナと、タキシードのアンジェロが指輪を見せて笑っている。12月24日結婚式。そう書かれている。
それから徐々にミナ一人の写真が増える。下に貼られた付箋には、妊娠3か月、妊娠1年、そう書かれていて、徐々にミナのお腹も大きくなっていく。
ベッドで白い服を着て、生まれたてのミケランジェロと翼を抱いて笑うミナと、隣に座ってミナの肩を抱いて頭に頬を寄せるアンジェロ。
そこからは家族4人の写真が増える。生後半年、1歳の誕生日、5歳の誕生日。ミナ達家族4人とシャンティの家族たちの写真、ミナ達とクライド達の写真、シュヴァリエ達に遊んでもらう双子の写真。双子とアヴァリ兄弟の写真。双子とメリッサの写真。デイヴィス一家、エゼキエル一家との写真。ミナの両親や、つばさとアレスとの写真。
途中から日本に移る。山姫一族の写真も増えてきて、ミナは白衣を着ている。並んだ写真で目を止めた。結婚10周年、その隣の写真には双子が映っている。双子の10歳の誕生日。アルバムを持つ手が、震えた。
「この人が、ミカさんなんだね」
「そうですよ」
「ミケランジェロくんと翼は、兄弟なの?」
「僕達は、双子だよ」
「ミカさんは、私なの?」
「そうだよ」
「じゃぁ、アンジェロは・・・・・」
「お父さんが愛してるのは、今も昔も、お母さんだけだよ」
ミケランジェロが言った。どこを攫っても、写真のように、アンジェロと夫婦していた記憶は全くない。
だけど、苧環の事を相談したときに翼が言った。
「お母さんの為に魂を売り渡せるような男じゃないと許せない」
アンジェロがミカの為に魂を売った事は聞いた。翼は最初から、アンジェロ以外許さないと言っていたのだと、今初めて気がついた。
「僕の本当の名前は、ミケランジェロ=昴・ジェズアルド」
「僕の本当の名前は、ラファエロ=翼・ジェズアルド」
「お母さんの天使」
「お父さんの希望の星」
「そう言う意味を込められて、お父さんとお母さんが付けてくれた名前」
双子の名前は、確かに揃いになっている。ミケランジェロに至っては、ミドルネームは日本人か中国人でなければきっとつける事なんてできない。アンジェロと外国人の彼女との間にできた子供なら、ミドルネームに昴なんて漢字が入るはずがない。昴が星の名前だなんて、日本人でも知らない人はいる。
アンジェロが付けた、ミナの天使の名前。ミナが付けた、アンジェロの希望の星の名前。二人は間違いなく双子で、双子はミナとアンジェロにとって、希望と未来の象徴だった。
それなのに、今はその事を想像する事しかできない。
「私と、アンジェロがつけたの・・・・・?」
「そうだよ」
「お母さんはその事ももう思い出せないと思う。だけど、泣かないで」
「正直、泣かれたら僕らも辛いし」
悲しかった。悔しかった。申し訳なかった。とても、とても大事なことなのに、何一つ思い出せない。自分の子供の事なのに、何も思い出せない。
「っ・・・・・ゴメンね、私、思い出せない。本当に、2人は双子なの?」
「そうだよ。僕達は双子」
「僕達は、ミナとアンジェロの息子」
「・・・・・っう、ゴメンね、ゴメンね」
悔しかった。忘れてしまったこと。もう一人の子供、双子の片割れ。アンジェロによく似たミケランジェロ、足りないような気がいしていたもう半分は、ミケランジェロ。アンジェロとの間にできた子達。
自分が産んだはずなのに、なにも思い出せない。
今日までミケランジェロは一体どんな思いでミナを所長と呼び、翼は一体どんな思いでアンジェロを官房長官と呼んでいたのか。そう考えると、あまりにも親としてふがいない自分に腹が立った。
「なんで、私は覚えてないの?」
「お母さんが陛下に記憶を消してくれって頼んだからだよ」
「じゃあアルカードさんに・・・・・」
「無理だよ」
「え?」
「もうお母さんの記憶は戻らない。二度と」
「僕達も試した。陛下にも頼んだ。けど、無理だった」
「そんな・・・・・」
双子の否定の言葉はかなりショックだった。もしかしたらミナが記憶を取り戻せば、アンジェロが戻ってくるかもしれないと思っていたのに。
ミラーカの「ミカに戻して・・・・・」という言葉の意味をようやく知った。それをアルカードが不可能だと言ったことも。
双子も悔しそうにして、悲しげに瞳を揺らがせた。
「お母さんの記憶が戻らないって最初から知ってたら賛成したりはしなかった」
「あのとき、もっとちゃんと止めておくべきだった」
「お母さん、ゴメンね」
そう言って、双子は申し訳なさそうに瞳を伏せた。
双子が悪い訳じゃない。言い出したのはミナ。だけど、今さらどうしようもない。ミナの記憶が戻ることは、もう二度とない。だからといって、このままの現状に甘んじようとは微塵も思えなかった。
「ねぇ、これからまた、親子できない?」
ミナの言葉に、双子は視線をあげた。
「今までの事は、ゴメンね、思い出せないけど、これからもう一度、家族をやり直したいの。それじゃ、ダメ?」
ミナの提案を聞いた双子は笑ってくれた。
「全然ダメじゃないよ。僕もう一度、お母さんにお母さんになってほしいと思ってたし」
「僕も。お父さんにお父さんになってほしいと思ってたし」
「「ね」」
顔を見合わせて笑った双子はミナにも笑った。双子につられてミナも笑った。
「よかった。ありがとう」
双子とは、これからまた家族をやり直す。アンジェロが戻ってきたら、また4人で家族をやり直す。
その為にはアンジェロの存在は必要不可欠。アンジェロがいなくなったのは、ミカが消えてしまったから。それでもミナは手に入ったと言うのに、ミナを置いていなくなってしまった。
アンジェロの目的が見えない。一体何を求めて国を出奔したのかが分からない。勿論、復讐もあるだろうとは思うが、アンジェロのことだから、それだけで済ませるはずはない。
―――――アンジェロ、どこにいるの。一体何を考えているの。私はアンジェロの、一体何を信じていればいいの。
アンジェロの事が心配だ。何を考えて、今どこにいて、どうしているのか全く分からない。目的が分からないから、何を信じたらいいのかもわからない。
ただ、信じられることがあるとしたら。
―――――アンジェロはきっと帰ってくる。私を愛してくれてるなら、私の所に絶対帰ってきてくれる。それだけは、信じよう。
そう思って、右手の薬指に光る金細工の指輪を撫でた。
★覆水盆に返らず
――――――――――日本の諺




