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コントラクト 3 ―宿命の契約―  作者: 時任雪緒
第5章 この手で掴む、五風十雨
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愛じゃないけど、恋じゃないけど




 キスをする。突然心の中にできてしまった虚空。それが何かは全く分からない。だけど淋しい、何もかもが。心も体も淋しい。だからキスをする。

 心は自分の物。血はアルカードの物。だけど体は別の誰かの物のような気がする。それは自分が嫌なだけかもしれないし、クリシュナなのかもしれないし、他の誰かなのかもしれない。

 あやすようなキスに慰められる、その時だけは。だけどそれ以上には進めないし、進みたくもない。進んでしまったら、何かが壊れてしまうような気がする。 

 あやすような一瞬のキスだけなら、まだ「そういう挨拶」だと言い聞かせられる。自分にも相手にも言い訳が立つ。ただ利用しているだけ、気持ちなんて全くない。お互いにわかっているはずなのに、口に出さなければそれで済むから。

 いつも強請る。キスをして。髪を撫でて。抱きしめて。目を見て名前を呼んで。お願いしないと、そうしてくれる人がいないから。

 この人となら、キスをしてもクリシュナや誰かを裏切ったような気分にならなくて済む。ただの戯れ、ただのお遊び、ただの挨拶。だって本人が言っていた。

「昔は親密な間柄で友情を示す為に、キスをすることは普通だった。同性間でもね。だから、そんなに驚くことはないわ」

 そう言ってミラーカが泣いているミナに微笑んで、優しくキスをしてくれて、離婚が成立する間も随分と慰めになった。

 ミラーカなら罪悪はなかった。同性だから。男の人にはこんなことお願いできない。男の人にお願いしてしまって、間違って恋をしてしまったら、と考えたら恐ろしかったから。翼がいるのに、別の人に恋をすることが恐ろしかったから。



 ミナの中で、翼はクローンということになっている。クリシュナが死んで、寂しさを紛らわすために、クリシュナとの間に子供を作った気分を味わいたくて作り上げたクローン。

 翼を愛した。今は大人になってしまったけど、それでも可愛いわが子。でも、何かが足りない。もうはんぶん。

 ―――――足りない半分は、きっとクリシュナの遺伝子だ。

 ミナの遺伝子を濃く受け継いだ翼。アンジェロの遺伝子を濃く受け継いだミケランジェロ。足りないもう半分、双子は二人で一つ。ミナはもう、その事さえも覚えていない。



「翼はいいね。お母さんをお母さんって呼べるから」

「ミケランジェロはいいね。お父さんをお父さんって呼べるから」

 ただ離婚しただけなら、双子にとっては両親は両親のままなのに、離婚した上にミナの記憶まで改竄されてしまっては、相互に他人を演じる以外にはない。

 二人はたまに姿を交換して、それぞれ親に会いに行く。ミケランジェロの姿をした翼、翼の姿をしたミケランジェロ。双子は姿以外はおんなじ。魔力は一緒、性格もよく似た双子。入れ替わっても両親は気付かない。

「気付かれないのは幸いだけど、悲しいね」

「そうだね。気付いてほしいような、欲しくないような」

「折角僕達が味方してるんだから、早く前みたいにならないかなぁ」

「お父さん頑張ってるもんねぇ」

「でもお母さんのあの態度・・・・・」

「泣けてくるよ、本当。お父さんとお母さんって、昔はあんなだったんだね」

「これは長期戦だよ、本当に」

「お母さんの難攻不落っぷりにはクリス兄ちゃんたちも悩んでたもんね」

「お父さんが落とせないなんて信じられないって?」

「そうそう。でも、夫婦してたのは事実なんだし、その内くっつくとは思ってるけどさ」

「そうだねぇ。折角二人っきりにしてやったんだから、お父さんには頑張ってもらわないと」




 ―――――ミナが俺の事を愛さなくなった。じゃぁ、周囲の祝福も必要ない。それでも俺が死なないのは、ミナに愛し愛される者が現れるように、という願いが遂行されなかったせいだ。第一俺が夫のままで死ぬ事になれば、願いを完全達成させる方が難しい。だとしたら、次にミナと結ばれる相手は俺じゃなく、誰からも祝福される相手。ミナに恋人が出来たら、俺は死ぬんだ。そうなると、あの悪魔が目をつけるのは―――――

 折角双子の気遣いで二人っきりにしてもらった部屋で、アンジェロはウッカリ鬱になった。

 今日はパパ友ママ友同志、仲良く双子とお食事会という名目でミナと翼を都庁舎に呼んだ。双子は食事が終わるとさっさと帰って行って、まだ食事が終わっていなかった両親は、まんまと二人っきりにさせられた。かつて二人で暮らしていた家で。

「アンジェロ? どしたの?」

「あ、いや、なんでもない」

「仕事の事考えてたの?」

「・・・・・別に」

「もう、いっつも内緒にするんだから」

 お前の事を考えてたんだよ、とは言えない。事実を話しても、きっとミナは信じない。

 それどころか

「なにその妄想。気持ち悪い」

 と敬遠されそうだ。



 ミナの中では、アンジェロとの関係はイタリア時代にまでさかのぼっているようで、全く脈なし。恐ろしいほどに難攻不落且つ鉄壁だ。

 その事で双子を含めたシュヴァリエ達やジュリオ血統組が再び結成した、“アンジェロの恋を応援する会”は、非常に頭を悩ませている。

「つーかそもそもさ、ミナは俺のどこに惚れたわけ? 恐ろしいほど脈が感じられねぇんだけど」

「・・・・・」

「ぶっちゃけわからん。そこが一番わからん」

「確かにそこは昔から謎だった」

「あれじゃね? セックスが上手い」

「・・・・・仮にそうだとしても、そこにこぎ着けるまでが問題なんだけど」

「こぎ着けられそう?」

「お嬢様のあの様子じゃ、手を握っただけでビンタしそうですよ」

「昔はお嬢の方から強請ってたのに・・・・・」

「じゃぁもう前科3犯目指すしかねぇじゃん」

「さすがに3度目は許さないと思うけど」

「けどさ、頭で忘れてても体は覚えてんじゃない?」

「あー、若が好きそうなシチュエーションだな。反抗しても体は飼い馴らされてるっていう」

「いいですね! 拘束があると尚いいです!」

「なんでリュイちゃんノリノリなの・・・・・」

「何その設定・・・・・完全にリュイの趣味だろ」

「若は3次元でもソレ好きそうではあるけどな」

「つかソレ、ただのセフレじゃん・・・・・」

「そんなの嫌だ! 悲しすぎるだろ! 俺はミナとヤリてーから頑張ってるわけじゃねんだよ! わかんだろ!」

「や、わかってるけど、余りにも脈がなくて・・・・・ゴメン」

「謝ってんじゃねーよ! チクショー!」

 という空しい会議を経ての、家で二人きりと言う悲しいシチュエーションだ。ミナの中でアンジェロとの関係が過去と同一である以上、アンジェロには触れたくても触れられない。

 衝動的に抱きしめようものなら、背負い投げされたうえに踏みつけられそうだ。

 ―――――あぁ、綺麗な髪。撫でたい。ほっぺたプニプニしたい。手を繋いで抱きしめて頭を撫でてキスしたい! けどそんなことしたら、本気でセクハラで訴えられそうだ・・・・・。

 今のアンジェロにとっては、ミナは“不可触の天使”とでもいうべき存在になってしまった。



 またしても鬱に入ったアンジェロに、ミナは小さく溜息を吐く。

「もう、どうしたの? なんか悩みでもあるの?」

「いや、別に」

「ミケランジェロくんのこと?」

「や、別に」

「・・・・・じゃぁ、ミケランジェロくんのお母さんの事?」

「・・・・・あぁ」

 ミケランジェロの母はミナなのだが、アンジェロが昔の彼女との間に、悪魔に願って出来た子供で、その彼女はどこかへ行ってしまった、という事になっている。

「彼女さん、どうしていなくなったの?」

「・・・・・俺が裏切ったせいで、俺の事を好きじゃなくなったから」

「アンジェロは、好きだったの?」

「愛してたよ・・・・・いや、今でも、愛してる」

「意外に一途だね・・・・・アンジェロ、昔は恋とかしないって言ってたのに。どうでもいいって言ってたじゃん」

「どうでもよくねぇよ。心も魂も時間も、俺の持ってる全部を捧げたんだ。アイツの為なら、今すぐにだって死ねる」

「アンジェロみたいな人がそんなに好きになるなんて、よっぽど出来た彼女さんだったんだね」

 ―――――お前だよ!!

 なんとかツッコミは心の中だけで治めたものの、衝動的にテーブルをひっくり返したくなった。



 そんなアンジェロの葛藤など露知らず、ミナはお説教モードだ。

「そんなに好きなら大事にしたらよかったのに。アンジェロはいっつもツンツンしてるし、口も性格も悪いから、彼女さん淋しかったんだよ」

「・・・・・そーかもな」

「アンジェロを好きになる人はいっぱいいるだろうけど、アンジェロみたいな人とちゃんと付き合える人なんて滅多にいないよ」

「そうだろうな」

「もう、彼女さんには会えないの?」

「わかんねぇ」

「新しく恋をしないの?」

「しねぇよ。約束したから。最初で最後だって」

「でもアンジェロはモテるじゃん。事務員さんとかがカッコイイって言ってるの結構聞くよ」

「モテねーよ。俺は世界一モテねぇ」

「モテてるじゃん」

「モテねーよ。この国の女全員に好かれても、好きな女に好かれなかったら、意味ねぇから」

 アンジェロが本当に切なそうな顔をしてそう言うものだから、ミナもつられて切ない気分になって、なんとなく少しだけ、嬉しいような気分になった。

「アンジェロは、もう恋はしないんだよね?」

「しねぇっていうか、アイツしか好きになれない」

「じゃぁ私も」

「は?」

「私ももう、恋はしたくないの」

「・・・・・なんで?」

「失うことが怖いから。持ってなければ失う事もなくて、怖くないから。アルカードさんが言ってた。吸血鬼に課せられた呪いは、孤独なんだって。愛を得てもいつかは失う様になってるんだって。だからアルカードさんはミナ・マーレイを失ったし、シュヴァリエ達はジュリオさんを失ったし、アンジェロは彼女さんを失って、私はクリシュナを失った。だからもう、恋をしたくないの。好きな人がいなくなったら、意味ないから」

「・・・・・なるほどな。誰も愛さなければ失う事もないし、失っても怖くはねぇな」

 胸の中にできてしまった虚空。それは愛があった場所なんだろう。その虚空を埋めてしまいたいけど、淋しくて仕方がないけど、また恋をしてしまったら、その相手は死んでしまうのだ。

「好きになった人がいなくなっちゃうくらいなら、好きな人なんか作らないで、みんなで一緒にいた方がいいもん」

「でも、制御してどうこうなることじゃねぇだろ。どうしても好きになったりすることはあるだろ」

「そっかぁ、そうだよね。どうしても誰かを好きになって、恋をしたら・・・・・私がいなくなっちゃえば、それでいいかな」

「なんだよ、お前恋をしたら死ぬ気か?」

「死ぬ程の恋をしたら、死んでもいいよ。アンジェロだって、彼女さんの為に死ねるくらい、好きなんでしょ? それならわかるでしょ?」

「わかるけど、お前が死んだら、みんな悲しむだろ」

「うん、だから恋をしないの」

「・・・・・そうか。俺もお前も、可哀想な奴だな」

「そうだね」

 決定的になった。アンジェロはもう、ミナと恋をすることはできない。なにしろ、ミナが怯えて愛を放棄した。



 愛する人に愛されないことは意味がないと思った。だけどミナは、愛した人を失っては意味がないと言った。

 死ぬ程の恋をしたなら、死んでしまってもいい。失うくらいなら、消えてしまった方がいい。愛を抱えたまま死ねたなら、それは幸せなのかもしれない。

「ねぇ、アンジェロ」

「あ?」

「彼女さん、名前なんて言うの?」

「・・・・・ミカ」

「へぇ、天使の名前だね。ミカさんからミケランジェロくんの名前取ったの? ミカエル+アンジェロ?」

「そーだよ」

「どんな人だった?」

「俺にとっては、本物の天使だった」

「今でも?」

「今でも」

「幸せだね。その天使は、愛されて」

「・・・・・だといいけどな」

「珍しい。いつもなら自信満々に当たり前だろっていうのに」

「幸せなら、いなくなったりしねぇだろ」

「いる時は、幸せだったんじゃない。本当のアンジェロは、優しいから」

「・・・・・ミカにだけはな」

「あはは、じゃぁやっぱり、幸せだったと思うよ」

「そーかなぁ」

「そうだよ。お母さんが言ってたもん。女は愛するよりも、愛された方が幸せなんだって」

「ふーん・・・・・」

 ミナの言ったことをかみしめるように呟きながら、はた、と気付いた。今のミナはまさにそれではないか。誰も愛していないのに、愛されている。それは、幸せなのだろうか。

「お前、今幸せか? 誰も愛さないで」

 尋ねると、ミナは宙に視線を泳がせて考える。

「どうだろう? 幸せと言えば幸せだけど、クリシュナがいたときみたいな感じじゃない」

「愛されるだけじゃ、幸せじゃねぇだろ?」

「そうかもね。さっきアンジェロの言った通り、好きな人に好きになってもらわなきゃ意味ないかも。確かにそれは幸せなんだろうけどね」

「怖いか?」

「怖いね」

 仮にミナが自分を愛さなくても、ミナには幸せになってほしい。アンジェロは心からそう思っている。

 誰かがミナを好きになって、ミナもその誰かを好きになって、死ぬ程の恋をして幸せだと言うのなら、それで死んでもいいと思った。

「もしさ、もし、お前の事を死ぬ程好きだって奴がいて、お前はソイツ好きになれるか?」

「それはわかんないよ。それに、多分断るもん」

「もしお前がソイツを好きになったら?」

「二人とも死ぬ程好きになったら・・・・・その時は一緒に死んじゃおっかな。好きな人と心中するなら、淋しくないし」

 その言葉で思い出した。ミナとした約束。

 ―――――死ぬときは一緒だって、俺が言ったんだ。

 ミナに恋人が出来たら、アンジェロは死ぬかもしれない。だけどそれが自分だったなら、死んでもいい。きっと行先は地獄でも、心は天国に行ける。

 かといってミナに死んで欲しいとも思わないけど、死ぬ程の恋をして一人遺しておきたくもない。どうせ死ぬなら、一緒に死にたい。

 ミナと愛し合って、愛を抱えたまま、ミナを殺して自分も死ぬ。それはきっと、幸せだ。ミナがそう言うのだから。


「なぁ、お前また恋人探せよ」

「なんで?」

「お前恋愛至上主義だろ。なんか今のお前は、お前っぽくねぇ」

「なにそれ・・・・・」

「けどお前の恋愛観ちょっと怖えぇから、お前を死ぬ程好きになれる奴なんて滅多にいねぇと思うけど」

「うるさいな! ていうか勧めるか文句言うか、どっちかにしてよ!」

「や、だってよ、一緒に死ぬつっても、相手の承諾なしか」

「本当に好きなら死んでくれるって!」

「・・・・・そうか? それ言ったら、お前が好きじゃなくても、相手が一方的にお前を死ぬ程好きになったら、お前殺されることになるぞ」

「あ、そっか。それはヤだなー」

「まぁ、普通はそんなことしねぇけどな。お前と一緒に死んでくれるような奴なら、そういうこと考えるんじゃねーの」

「・・・・・そう言う事考えつくって事は、結局アンジェロも似たようなもんじゃん」

「まーな。俺は死ぬほど愛してるし、死んでもいいと思ってっから」

「うわ、開き直ってるし・・・・・でもミカさんの為に死んでないじゃん。まだ生きてるじゃん。死ねばよかったのに」

「お前は本当ヒデェな・・・・・今はまだ死なねぇよ。また取り戻せたら、その時は死んでやる」

「本当に死ねる?」

「死ねる」

「もしミカさんが、自分を忘れて新しく恋をしてって言ったら?」

「無理。出来ねぇ。俺はミナしか好きじゃねぇ」

「ちょ、名前間違えないでよ。気持ち悪いんだけど。最悪」

「・・・・・お前マジムカつく」

 わざとやったのにミナには引かれた。粟立った二の腕を抱いて、軽蔑の視線を投げかけている。

 密かに悲嘆に暮れたアンジェロだったが、ミナが今何を考えているのかが聞けて、そこは収穫だと思えたので、その点については、まぁいっか、と納得することにした。



 しばらくすると、ミナは暇だから何かしたいと言い出した。それで映画でも見ようと言う事になって、二人で棚を漁る。

「羊たちの沈黙は?」

「私もうそれ500回くらい見たよ」

「SAWシリーズは?」

「一回見たらシリーズ全制覇したくなるからなぁ」

「セブンは?」

「あ、セブンいいね! でもオールドボーイが見たい!」

「最初から言えよ・・・・・」

「だってアンジェロの持ってるの、私が好きなのばっかりだから、悩んじゃうじゃん!」

 そりゃそうだ。映画に関しては、ミナの趣味とアンジェロの趣味はほぼ同一だ。棚にある映画も、二人で選んで揃えたものなんだから、ミナの好きなものがズラリと並んで当たり前だ。



 早速見始めたオールドボーイ。2003年公開の、日本の漫画を原作とした韓国映画だ。突然誘拐された主人公は15年間監禁され、突然解放される。主人公は少女と出会い、少女と共に誘拐された理由を究明するために奔走する、という話。

 主人公と少女は愛し合う様になる。主人公には誘拐される前妻がいて、娘がいた。誘拐される直前に、娘へのプレゼントに天使の羽を買った。

 黒幕の所に乗り込んでいった主人公の帰りを、少女は父に貰った天使の羽をつけて待つのだ。

 屈辱、復讐、禁忌、愛、狂気。究極の禁忌と究極の復讐が詰まっているこの映画は、明らかにチョイスをしくじった。

 ―――――忘れてた。この映画、ラブシーン濃厚だったんだ。

 ミナも忘れていたようだ。しかし、このラブシーンの後からが最高に盛り上がるので、なんとか我慢して雰囲気に耐える元夫婦。

 そして最高に盛り上がるクライマックス。主人公が黒幕の足に縋り付いて、泣きながら許しを懇願し、嘲笑する黒幕の靴を舐めるのを見て、ミナは

「可哀想ぅぅ」

 と号泣する。何度も見たはずなのに。泣き上戸なミナは随所で泣くので、いい加減アンジェロも慣れたもので、すかさずティッシュを差し出す。



 映画が終わるころになって、ようやく涙が引いてきたようだ。

「本当、お前はすぐ泣くなぁ」

「グスッ、うるさいな」

 アンジェロ的には、感動屋ですぐ泣くところも、涙で潤んだ目で睨みつけてくる顔も、可愛いと言えば可愛い。

 ついつい、癖でミナの頭を撫でてしまった。ミナの表情が変わったのを見て、慌てて手を引っ込めた。

 頭を撫でられて、ミナは不覚にもちょっとだけ心がぽわっとなった。アンジェロはすぐにそれに気が付いて、どうしようか迷ったが、再びミナの頭を撫でた。すると、心なしか嬉しそうにしている―――――ように見える。

「お前、頭撫でられんの好き?」

「うん」

「じゃぁしてって言えよ」

「なんでよ。言わないよ」

「言えばするのに」

「なんで? ミカさんがいるのに」

「はぁ? 頭撫でるのに愛情が必要なわけ?」

「あ、いらないか」

 とは言ったものの、アンジェロ誰にでもはしないし、出来ない。他の女にはそんなに優しくできない。普通の人なら愛情は確かに必要ないが、アンジェロには必要だ。

 


 ミナは大人しく撫でられている。気持ちよさそうに。まるで飼い主に撫でてもらっている子犬だ。

 柔らかいストレートの黒髪は、ほのかに冷たくて指先に心地いい。指に髪を絡ませて、梳く様になぞる。サラサラと落ちる髪が、綺麗。

「なに?」

「ん? 別に、綺麗な髪だと思って」

「やだ、どうしたの? アンジェロが私を褒めるなんて、病気? 脳の病気?」

「違ぇよバカ! 折角褒めてやってんのに! 髪抜くぞ!」

「ヤダ、もう! 引っ張らないでよ!」

 毛先を掴んで引っ張ると、抜かれまいとしてミナも身を寄せてくる。それに少し心臓がざわついた。

 ―――――肩幅ちっちぇえ。抱きしめたい。キスしたい。

 とか思ったが、ミナがギャーギャー言うので何とか抑制。

「ゴメンナサイは?」

「ご、ゴメンナサイ!」

 素直に謝罪したので、髪を離してやった。ミナは恨めし気にアンジェロを睨んで、髪を梳かしている。

「折角人が褒めてやってんだから、素直にありがとうって言えよ」

「うるさいな! アンジェロは女の子にもこんな乱暴なことするんだから、そりゃミカさんにも逃げられるよ」

「うるせーな! お前ソレ言うなよ! 傷つくだろ!」

「アンジェロでも傷つくことあるの? ウソでしょ? やっぱ病気?」

「ムカつく! あーもーいいよ! 病気で!」

「あはは、ゴメンゴメン」

「笑ってんじゃねーよ・・・・・」

「だって、可笑しいよ。あのアンジェロがそんなに入れ込むなんて。可笑しい。病気でしょ」

 誰に言われても、そうは思わなかったかもしれない。でも、ミナにそう言われて、嘲笑までされたことにさすがに傷ついたし、猛烈に腹が立った。



 ミナをソファに押し倒して組み敷いて、首元に手をやった。ミナは驚いて、少しすると顔色を変えた。

「ご、ゴメンね? 怒った?」

「・・・・・確かに、病気かもな。俺はおかしいかもな。でも、好きなんだよ、本当に」

「ゴメン、もう笑ったりしないか・・・・」

「好きなんだよ、本気で! 頭おかしくなりそうな位に! 悪いのは俺だってわかってるけど、俺が本気で好きだって知ってて消えるなんて、酷すぎるだろ!」

「アンジェ・・・うっ」

 首元にやった手に、力を込めてミナの首を絞めた。

「なぁ、ミナならわかるよな。本当に愛してたんだ。今でも愛してる。でも、もう俺の女じゃない。俺は、どうしたらいい?」

「くっ・・・・・やめ、て。ごめ・・・・・許し、て」

「なぁ、お前、謝るなら代わりに死んでくれよ。お前を殺したら、俺も死ぬから。お前は俺をクリシュナさんの代わりだとでも思えばいい。今度は一緒に死ねるんだ。幸せだろ?」

「そ・・・・・なの、いや」

「けど、お前も一人で寂しいんだろ。だから俺が誘っても苧環が誘っても、誰が誘ってもついてくる。俺はさぁ、もう生きてる理由がねぇんだよ。俺の生きる理由だったんだよ。俺の全てだったんだよ。本気で愛してたんだ。アイツの為なら、死んでもいいと思ってた。世界が滅んでもいいとさえ思ってた。

 なのに、もう俺の事を愛してない。俺はこれから一人でどうやって生きて行けばいい? 今でも信じられない。考えられない。もう傍にいないなんて、もう俺の事を愛してないなんて、辛くて淋しくて、それだけで死にたくなるくらいだ。

 なぁ、俺はどうしたらいいんだよ。もう好きだとは言ってもらえない。もう好きだと言えない。髪を撫でる事も、抱きしめる事も、キスすることも、抱く事も出来ない。お前と一緒に死ぬ以外に、どうしたら俺は慰められる? どうしたら埋められるんだよ・・・・・

 まだ、こんなに愛してるのに、もう俺一人じゃ、生きていられないんだよっ・・・・・」

 一旦言葉にし始めたら、溢れて止まらなくなった。感情の方がどんどん内から押し流されてきて、絞めていた手の力などいつの間にか抜けてしまって、ミナに泣き縋っていた。

 急にキレ出して急に泣き縋り始めたアンジェロに、流石にミナも驚いて戸惑っていたが、アンジェロが泣くなんて本当に余程の事なので、アンジェロが落ち着くまで、背中に腕を回して、ぽんぽん、とあやすように優しくたたいた。



 少しすると落ち着いたのか、泣いている顔を見られるのが嫌らしく、アンジェロはミナの耳元で小さく「ゴメン」と謝った。

「俺、別に本気でお前を殺したいとか思ったわけじゃねぇんだ。けど・・・・・」

「ゴメンね、無神経に笑ったりして。アンジェロがそんなに好きだったなんて思わなくて」

「好きだよ。愛してる。これからもずっと。死ぬまで、死んでからも愛してるって、そう言ってきたし、ずっと傍にいるって言ってくれたのに・・・・・」

「淋しい?」

「淋しい」

「だから私を誘ったり、会いに来るの?」

「そうだよ。淋しいから。お前だって淋しいから、断らねぇんだろ」

「・・・・・うん」

 肯定の返事を聞いて、脳裏に浮かぶ考え。

「お前も、淋しい?」

「うん」

「じゃぁ、俺が慰めてやるから」

「あ、やっ! ふっ、んぅ・・・・・」

 アンジェロが仕込んだとおりに、ちゃんとミナの体は反応する。今は夫婦じゃないから、愛していないから、ミナは抵抗してみせるが、口の中に差し入れられた指に緩やかに掻き回されて、首筋や胸を舐められたり吸われる度に、全身に駆け廻る、快感。

「や、だ・・・・・やめて」

「なんで? お前だって淋しいんだろ。気を紛らわすのに、俺を利用すればいい。俺はお前を代わりに抱くから、それでお互い様だろ。愛情がないなら、死ぬ必要もねぇしな」

「でも、そんなこと・・・・・」

「誰の誘いにも応じるよりは、よっぽど健全だと思うけどな。それともお前、誰に誘われても、すぐについていくなんて悪評が立ってもいいのかよ?」

「ヤだけど・・・・・誰かにっ、あっ!」

「知られなけりゃいいだろ。俺とお前だけの秘密。お前の寂しさは俺が慰めてやるよ。頭を撫でて、抱きしめて、キスをして、目一杯甘えさせてやるし、なんなら愛してるって囁いてやるよ」

「そ・・・・・なの、ミカさんが・・・・・」

「許しなんかいらねぇ。どの道、もう俺は愛されてねぇ。もう愛されることは諦めたっていい。けどせめて、愛してる気分ぐらい、味わわせてくれたっていいだろ」

「なんで・・・・・私が・・・・・あ、やだ、やだ、やめて! やぁっ!」

「っは、もう、無理だ。俺も、お前も、共犯だ」

「や、あ、やだ、いや、やめて!」

「ミナ、愛してる・・・・・愛してる」

「そ・・・・な、うそ、平気で、言わない、で」

「平気で、言えるかよ。愛してる、お前と、こうしてられるなら、明日、世界が、滅んでもいい」

「アンジェロの、ウソつきッ・・・・・」

「ウソじゃねぇよ、愛してる。ミナ、愛してるよ」

 自分で、狂気の沙汰だと思った。やっぱり頭がどうかしていると思った。既に他人になってしまったミナの体を無理やり奪って、他人だと思い込んでいるミナを、代わりだと言って抱くなんて。

 愛情がないのはミナだけで、愛情で抱いているのに、何が代わりなものか。自分の中の狂気に近い愛情を改めて自覚した時、ほしいと思ったものを手に入れずにはいられなかった。



 ミナの寂しさと、自分に向ける同情と憐憫に付け込んで、一度関係を結んでしまえば、どうしたって逃げる事なんか出来ない。

 アルカードには筒抜けだと思うが、逃げようとしたら、みんなにバラすと脅せばいい。他のみんなはそれを聞いても特に反応はないだろう。しかし、ミナにはそれがわからない。

 ただ単に背徳的な肉体関係であるだけなら、いつかはミナも嫌気がさして逃げ出すかもしれない。だけど、アンジェロには自信があった。

 ミナの行動を制限して、いつも傍にいて、二人だけの秘密を共有して愛を囁き続ければ、その内ミナが自分を愛するようになる。

 求めているのは、アンジェロだけではないから。ミナも淋しさから他人を求めているから、必ず落ちる。

「俺に抱かれて、幸せだっただろ? お前が求めるモノは、全部俺が与えてやる。どうしてほしい? 髪を撫でて欲しい? 抱きしめて欲しい? キスしてほしい? それとも、愛してると言って欲しい? なぁ、言えよ。言えば、何でもしてやる」

「・・・・・愛してるって、言って。名前を、呼んで」

 アンジェロは笑って、ミナを抱きしめる。優しく、優しく。以前のように。

「ミナ、愛してる。愛してるよ。世界で一番愛してる。お前さえ傍にいてくれたら、何もいらない。愛してるよ、ミナ。お前の為なら、死んでもいい。誰が死んでも、構わない」


 強烈すぎる愛情は神聖な狂気。ミナは恋をしたくないと言ったものの、淋しさから愛を求めていたのは否定できない。

 そこに付け込まれたことはわかっているけど、アンジェロの腕の中が心地よすぎて、抜け出せる気がしない。


 これがただの痛みならばよかった。

 これに快感が伴わなければよかった。

 錯覚してしまいそうで、恐ろしくていられない。

 心に開いた虚空が満たされてしまう。

 ずっと、こんな風に抱かれたいと思ってた?

 違う。

 これは愛じゃない、これは恋じゃない。

 言い聞かせて楽になる。

 同時に辛さを感じる矛盾。

 一度罠にかかれば、もがくほどに絡め取られる。





★愛じゃないけど、恋じゃないけど

――――――――――Acidblackcherry「蝶」より

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