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コントラクト 3 ―宿命の契約―  作者: 時任雪緒
第3章 歴史が語る三位一体
39/96

悲しみて我は座し、涙して朝を待つ



 ミラノに隣接した大都市トリノ、アルベルト通り。この通りにアンジェロの家はあった。

 アンジェロの家もアパルトマンの様な佇まいで、その一室に家族3人で暮らしていたようだ。

 他にも隣接した部屋があると言うのに、よく襲撃する気になったものだ、と思うかもしれないが、その原因はすぐに判明した。

「フルート?」

「ピアノの音がする」

 アンジェロの家の向こうの通りには、ジュゼッペ・ ヴェルディ音楽院。イタリアでもっとも卓越しているとされる養成カリキュラムを誇る音楽大学があった。

 かつてのアンジェロの家に住んでいるのも、その院生だ。他の部屋も、この音楽院の院生が多く住んでいる。

「なるほど、道理で」

「音楽院生なら、銃声を聞いてもパーカッションだと思い込みかねねぇな」

「道理で若くて綺麗なねーちゃんばっかりだと思ってたんだよ」

「そっちかよ!」

 若い音大生が多いアパルトマン。ちびアンジェロは女子大生にモテモテだったらしい。

「ヤダぁ、この子超可愛い!」

 と寄ってきた女子大生たちにチヤホヤされて育ったようだ。思わぬところでアンジェロのモテの根源が判明した。

 女子大生たちに取り囲まれてチヤホヤされるちびアンジェロを想像して、シュヴァリエ達は心底羨ましそうだ。

「チクショウ、俺も女子大生にチヤホヤされてぇ」

「そんな経験一度もねーよ・・・・・」

「チクショウ、アンジェロばっかり・・・・・」

「道理で“ヴァチカンのジャブジャブ鳥”になるはずだよな」

「誰がジャブジャブ鳥だ!」

 ジャブジャブ鳥とは、「不思議の国のアリス」に登場するトリで、年中発情しているやけっぱちな鳥、と記載がある。まぁ、間違いではない。



 中庭の土を採った後、意外にもアンジェロは中を見たいと言い出した。それで、アルカードが現在の入居者を魔眼で操って招待させ、室内に入った。

 さすがにアンジェロが住んでいた頃とは何もかもが違う。家具は当然ながら、壁の色も内装も何もかも変わっていた。6階の西の角部屋。玄関以外に逃げ道のない部屋。

 アンジェロはダイニングに行くと、ダイニングテーブルを指で撫でた。

「ここで、最初に父さんが死んだ」

 時間はもう夜だった。アンジェロは寝る時間で、お風呂から上がって母親が寝巻を着せてくれた。寝る前に父にお休みの挨拶をしに行こうと、父がいるはずのダイニングに行った。

 母と連れ立ってダイニングに入ろうとすると、話し声が聞こえた。客でも来ているのか、と母が入室を躊躇って引き留めると、ガタン、と大きな音がして、

「カテリーナ! 逃げろ!」

 と父が叫んだ。

 その直後に破裂音、すぐにドサッという音が響いた。

 母は、声を上げそうになったアンジェロの口をとっさに塞いで、すぐさまアンジェロを抱えて寝室に逃げ込んだ。母はアンジェロをベッドの下に押し込んで、切迫した表情で声を潜めて言った。 

「いい? アンジェロ、絶対に喋ってはダメよ。ここから動いてはダメ。ここから出てはダメ。わかった?」

「おかあさん、おかあさんは? おとうさん、どうしたの?」

 アンジェロには、何が起きているのかが分からない。しかし、恐怖だけが募って、怖くなって、涙声で母に縋ろうとした。それを母は止めて、涙を拭って頭を優しく撫でた。

「シッ、静かに。心配しないで。声を出してはダメよ。ここにいるのよ。いいわね?」

「・・・・うん」

 母親は立ち上がり、クローゼットのドアを開けた。その瞬間に「客」が寝室に入って来た。アンジェロは怖くなって、声を上げないように、自分で自分の口を手で覆い、ベッドの下から様子を覗き見た。

 母は開けたクローゼットをゆっくりと閉めた。「客」が母に言った。

「そんなとこに隠したって無駄だ」

「狙いは、あの子なのね」

「そ。アンタにゃ用はねぇ。でもアンタいい女だなぁ。大人しくガキ引き渡せば、殺さないでやってもいいぜ」

「なにもかも、あなた達にくれてやるものなんか、ないわ。撃ちたければ撃てばいい」

「フン、プライドの高けぇ女は、嫌いだ」

 そう言って「客」は母親の前に歩み寄り、銃弾を撃ち込んだ。母親はベッドの前まで引きずられ、クローゼットの前から血の尾を引いた。

 クローゼットのドアを開けた「客」は、アンジェロがいないことに驚いた。すぐにあちこち室内を探し始めるものの、ベッドの前には母親がいて、気付かない。

 わずかに意識の残った母は、アンジェロを見つめて涙を零した。精一杯微笑んで、消え入りそうな声で、囁いた。

「アンジェロ、愛してるわ」

 母はアンジェロに伸ばそうとした手を、引きとめた。自分の行動でアンジェロの居場所を悟らせないために。涙を零して、瞼を閉じた母は、すぅっと力が抜けたようになった。

 力の抜けた母の体から、血が流れてきた。フローリングの溝を辿って、アンジェロのもとへ真っ直ぐに流れ込んできた。

 それを見てアンジェロは恐ろしくなった。真っ赤な血が恐ろしくて、母が、母でなくなったようで、恐ろしくなった。そして、母の言いつけを破った。

 ベッドの下から這い出て、母の体を揺すった。

「おかあさん、おかあさん」

 呼んでも、反応はない。揺すられた体からは、衣擦れの音と、血の滴る音が響くだけ。

「おかあさん・・・ひっく、おかあさん」

 泣いても、もう頭を撫でてはくれない。涙を拭ってくれた指先は、既に血に塗れていた。

「うわぁぁん、おかあさぁん、おかあさん」

 号泣し、母に泣き縋るアンジェロに、影が差した。顔を上げると、「客」が笑った。

「さぁ坊や。おれと一緒に、行こうか」

 そこで、アンジェロの意識は途切れた。



 寝室に入ったアンジェロは、当時の事を鮮明に思い出した。

「やっぱり、アレは、ウソなんかじゃなかった」

「え?」

 ミナはウソだと思っていた。そんなはずはないと言ってアンジェロを説得した。しかし、アンジェロを連れ去った「客」の一人、スーツを着た、母親を殺害した「客」は、間違いなく若かりし日のイルファーン・スレシュ。

 スレシュが頭目になって、最初の依頼がアンジェロだった。客はジュリオ。その後も何人も依頼を受ける予定があった。所謂上客だ。

 自分の初仕事、初めての依頼。挨拶もかねて、自ら現場に赴き、自らアンジェロをジュリオのもとへ連れて行った。だから、初対面でアンジェロがアンジェロだとわかった。父親も、母親も、スレシュが殺したから。

 母親似の顔、父親譲りの金髪と、鋭い金色の瞳。父親と母親から受け継いだ、切迫した状況でも瞬断できる性格と、プライドの高さ。

 唯一違っていたのは、アンジェロが殺す側に回ったこと。


 目を閉じて、自分に言い聞かせた。

 ―――――大丈夫だ、俺は。もういい加減、今更だ。俺は赦すと決めたはずだ。その意志を覆してはダメだ。真実がどれほど酷なものであっても、自分で決めたんだ、赦すと。それを覆すことは、プライドが赦さない。憎むことは甘えだ。甘えを赦してはならない。

 言い聞かせて、目を開けて顔を上げた。

「・・・もう、いいや。スレシュも死んだし、死者を恨むなんて、バカバカしい」

 床を撫でて立ち上がったアンジェロは、そう言って笑って、寝室を出た。

 いつも無理をして、我慢する。アンジェロを心配していると、アルカードが語りかけてきた。

【ああ言うのを、やせ我慢と言うのだ】

【・・・そうですね】

【心配か?】

【はい】

【ならば、なぜ何もしない】

【聞いても、答えてくれません。私の言葉じゃ、アンジェロは救われません】

【何によって救われるかを決めるのは、お前ではない。話すのが嫌だと言うのなら、言葉以外で表現させてやればよい】

【言葉以外・・・・・】

 どうしたらいいかはわからなかったが、とりあえずアンジェロを追いかけた。アンジェロはリビングにいて、部屋にあったピアノを撫でていた。

「この部屋の人、ピアノ、弾くんだね」

 声をかけると、アンジェロは振り向かずに「そうだな」とだけ答えた。

「アンジェロ、ピアノ弾いて?」

「ハハ、人んちでか?」

「院生ばっかりだからわかんないよ。お願い」

「しょーがねーな。何がいい?」

「アンジェロが弾きたい曲」

「弾きたい曲なぁ・・・」

 言いながらアンジェロは椅子に腰かけ、ピアノのふたを開いた。そして弾きはじめる、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ、第8番ハ短調「悲愴」。

 その旋律はまるで、鉤爪で掻かれた心臓から血がにじむように痛切で、沸き立った溶岩が喉元を通って行くように熱く、また凍った花が崩れ落ちるように儚く、その響きに溢れる、引き裂かれた両親への愛と、引き裂かれるような悲哀と、燃える様な惜別の辛酸に、聞く者の心は熟れた柘榴を握り潰されてしまったかのように、赤い膿を滴らせた。


 ピアノを弾き終わったアンジェロに、堪らず抱き着いた。後ろから抱き着いてきたミナにアンジェロは力なく笑って、優しく頭を撫でた。

「だから、なんでお前が泣いてんだよ」

「だって・・・アンジェロが、泣かないから」

「俺の代わりに、お前が泣くんだっけ」

「っ・・・そうだよっ・・・」

「いつも泣かせて、ゴメンな」

「謝んないで。アンジェロは、なにも悪くないから」

 そう言うと、アンジェロはミナの腕を離した。離して、座ったままミナに向いて腕を引いた。少しだけ傾いた体を、そのままアンジェロは抱きしめた。強く、強く、ミナの呼吸を止めるほどに。

「俺の為に泣いてくれて、ありがとう」

「お礼も、いらないよ。愛する人の為に泣けるのは、きっと幸せなことだから」

 ミナの言葉を聞いて、アンジェロはより強く抱きしめた。

―――――そうかもしれない。愛する女が俺の為に涙を流してくれる。俺は不仕合せな子供ではなくなった。あぁ、俺は、幸せ者だ。

 涙を流しても、それを止めてくれる者は消えて失せた。絶望は涙を枯渇させた。泣きたいほど辛いことがあっても、泣けないことは不幸だ、とシャンティが言った。

 顔を隠すな、存分に泣け。捌け口を鎖された悲しみが、うちに溢れれば、ついには胸も張り裂けよう。ミナが言った。しかし彼は、泣けない、泣けない、どうしても。

 だから代わりにミナが泣く。アンジェロの心を掬って、鏡のように映して、代わりに涙を流すのだ。アンジェロの心の内に溢れる悲しみは、ミナの頬を伝って零れ落ちる。アンジェロの胸が張り裂ける前に、ミナが鏡のようにそれを掬い、救う。

 それが出来る事を幸福と呼ばず、何と呼ぼう。そうしてもらえることを幸福と呼ばず、何と呼ぼう!

 泣けない不仕合せな子供は、自分を映す鏡を得て、幸福な男になった。



 二人の様子を見て、二人の心の声を聴いて、アルカードは痛切に思い知った。

 アンジェロの代わりにミナが泣いて、ミナの代わりにアンジェロが悩んできた。互いの傷を舐め合う様に、ギリギリに張りつめた糸の上を、二人で手を繋いで歩いてきた。

 アンジェロが守り、ミナが労わり、アンジェロが励まし、ミナが癒し、あの戦いの後、二人はそうやって生きた。

 シュヴァリエ達は幾度も見かけた。涙をこぼすミナを、辛そうにしたアンジェロが抱きしめる姿。いつも苦しそうな表情で物思いにふけるアンジェロが、ミナの前では笑顔を見せていた。

 二人の間にできた絆がたとえ愛情ではなくても、二人の間に誰かが無理やり入ってしまう事は出来なかった。二人の精神的な依存と、均衡が崩れてしまう事が恐ろしかった。

 均衡を乱したら、もしどちらか一人が欠けてしまったら、二人はきっと壊れてしまう。

 少なくともあの当時は本人たちも、周りの者達もそう思っていたし、そう言う生き方をしてきた。


 渇望は、言葉に表せない。いつも、いつも、今日も昨日も、その前も、ずっと前も。いつもミナは誰かのもの。常にミナはアンジェロのもので、その前はクリシュナのもので、その前はジュリオのものであった。

 ―――――あぁ、ロッテ! シャルロッテ! あぁ、ウェルテル、私はお前ほど、美しくはいられない。清くはいられない。

 だからジュリオから奪い、殺した。また同じことを繰り返す? ―――――否、美しくもいられないが、愚かな己は赦せない。

 シャルロッテが言った。

「そういうおのぞみをこんなに素晴らしいものに見せかけているのは、どうしようとこのわたくしはあなたのものになりっこがないという、ただそのことじゃないかしら」

 渇望が、手に入らないと言う現実が、より美を高める。頭ではわかっていても。

 二人はきっと正常ではない。二人の愛は正常ではない。きっとどこかで狂って、気がふれてしまっている。しかし、気がふれた者はそれを幸せだと思う。はたから見れば不仕合せな、しかし当人たちは幸福者なのだ。依存と恋の病に憑りつかれて、不仕合せをスパイスにした、幸福者なのだ。


 二人の様子や、ジョヴァンニたちから聞いていた話から、やはりアルカードは後悔に駆られた。

 二人にそう言う人生を歩ませてしまったのは、自分に責のあることだと。アルカードに端を発した惨劇でも、誰もアルカードを責めはせず、それどころかミナはジュリオを、アンジェロはスレシュを赦した。

 二人は罪だけを憎み、人を赦した。二人はそれを正しいと思い、耐え、努め、それを成した。

 不仕合せな二人は、二人で支え合って、正しい道を歩もうとしているのだから、幸福でないはずがない。それが間違いであっていいはずがない。正しくなければいけない、正しいと刷り込まなければいけない。そうでなければ、何のための戦争だったのか。

 現実を見ることが、清濁全てを知ることが、知って憎悪を膨らませることが世の常で、自分も世の人もそれが普通だと思い、彼らはバカだと不仕合せな幸福者を嘲笑するのだ。

 嘆き悲しんでばかりとは愚かだと。赦しは弔いにならないと。弔いに仇を討て、悲しみを怒りに、憎しみを剣に乗せよ。それが出来ぬものは臆病者だ、そう言って罵るのだ。

 それであってはいけないのだ。誰が彼らを愚か者と罵れよう。その権利が一体どの手に? 赦しは全ての罪を洗い流す、最上の審判だと言うのに?


 幸福な不仕合せ者は、不仕合せな幸福者たちを見つめた。

 愛・友情・慈しみ・労わり・親切・真心。人を思う全ての思いを互いに注ぎ合う、不仕合せな幸福者たち。

 到達すべき愛の頂点に達した。恋は熟して、焦がされた、身も心も既に灰になった。到達すべきところに辿り着いたとき、その愛は既に友情の様な穏やかさを帯びた。不仕合せな幸福者達。それはしかし、自分も同じにありたいと、切に願った。

 いや、願ってばかりではいられない。願い、決め切り、行動が必要になった。成りたい者には、自分で成るのだ。

 誰もアルカードを責めはせず、それどころかミナはジュリオを、アンジェロはスレシュを赦した。

 自分もそうありたい。二人の様に、不仕合せな幸福者に。成りたい者には、自分で成るのだ。必要だ。願い、決め切り、行動が―――――――赦しが。


 ―――――ミナも、小僧も、十分に苦しみ抜いた。侘びに、ミナはくれてやる。

 アルカードはアンジェロを赦すことで、少しばかりの贖罪を願った。




★悲しみて我は座し、涙して朝を待つ

――――――――――ゲーテ「若きウェルテルの悩み」よりオシアンの歌「コルマ」より



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