第十九話 あの日の言葉は今も
驚きの次に湧いてきたのは、怒りだった。同時に、同じくらいショックを受けている自分がいるのも分かる。だって、あれはお姉ちゃんだった。容姿は全然違っても、私が柚希お姉ちゃんを間違えるはずがない。どうしてここにいるのかも、どうしてあんな姿なのかも分からないけれど、それでもあの少女の中身はお姉ちゃんなのだ。
「……だったら、何で、逃げるの」
絞り出すように呟くと、隣にいるシリルがぎょっとしたように私を見た。……構うものか。お姉ちゃんが私を避けるように逃げ出した、そっちの方が今は重要だ。無意識に拳を握りしめ、キッと開け放たれたままの扉を睨みつける。
「えっと……ニナ?」
「ごめんシリル、話は後!」
噛みつくように叫び返し、私はお姉ちゃんを追うように部屋を出た。
当然、、彼女がどっちの方向に行ったかなんて分かるわけがない。そう思っていたけれど、意外なことに私の足は迷うことなく走り出す。どこか懐かしい胸の痛みが、向こうだと告げていた。これでも運動は苦手じゃないのだ、少しして、遠くの方で紅の髪が揺れているのを見つける。……目立つなぁ、あの色。
けれどそれでお姉ちゃんも私が追っていることに気付いたのだろう、一瞬だけ止まった足音は、次の瞬間一気に早くなった。だから何で逃げるの、と心の中で叫び、私も床を蹴る足に力を込める。途中で侍女が何人か、驚いたように振り返るけれど、事情を説明している暇なんてない。ようやく慣れてきた広すぎる廊下をひたすら走り抜けて、階段を何度か降りて、昇って。私もこの数カ月で城の中には詳しくなったつもりだけど、彼女は更に上を行くのだろう、距離はなかなか縮まらなかった。
不意に、足がもつれる。
「あ、……っ!」
体制を立て直そうとしても、流石に走り疲れてしまったのか、まるで足に力が入らなかった。びたん、と派手な音を立てて、床に倒れ込む。痛みは殆ど感じなかったけれど、代わりにじわりと涙が滲んだ。
私は、何をしているんだろう。突然異世界なんかに飛ばされて、帰る方法はいくら探しても見つけられなくて、大事な人に大事なことを伝えることも出来なくて。いくら周りが褒めてくれても、私は無力で何も出来ない、小さな子供のまま。変わりたいと思ったのに、変わろうと思ったのに、これじゃ何も変わっていない。
体を起こしはしたものの、もう立ち上がる気力までは残っていなくて、床に座り込んだまま俯く。そんな私の耳に届いたのは、小さな嘆息だった。
「転んだら起きなさい、って言ったでしょ。……倒れたままじゃないのは、ちょっとは成長したってことかしら」
その声に、顔を上げる。いつの間にすぐ傍に来ていたのか、彼女はとても哀しそうな顔で、けれど確かに微笑んで、私に手を差し伸べていた。私の確信を裏付ける……彼女が柚希お姉ちゃんなのだと、間違いないのだと告げる言葉。恐る恐るその手を掴むと、じわりと温もりが伝わってきた。どうしようもなく懐かしくて、零れる涙を抑えるように俯く。震える声で、私はぽつりと呟いた。
「……お姉ちゃん、捕まえた」
「そうね」
彼女は苦笑し、私の傍に膝をつく。ぼろぼろと零れる涙は、最早抑えようとしても無駄だった。
訊きたいことはたくさんある。どうしてここにいるの、だとか。その姿は何、とか。けれど言いたいことは一つだけで、私はお姉ちゃんにしがみついた。
「寂しかった……ずっと、会いたかったよぉ、お姉ちゃん……っ!」
「……あたしも、会いたかったわ」
小さい頃のように、優しく抱き締められる。溢れ出る思いが我慢出来なくなって、子供のように泣きじゃくる私の耳元で、お姉ちゃんは囁いた。
「こんな場所で、こんな形で会ってしまうことになるなんて、流石に予想も出来なかったけど。……大きくなったわね、ニナ」
記憶にあるものとは違うその声は、けれどあの頃と同じようにどこまでも優しくて……同時に、こっちまで哀しくなるような、そんな何かを含んでいた。
◆◇◆
ニナの足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると、部屋は一気に沈黙に包まれた。少しして、先生が面白そうにこっちを見る。
「何となく想像は出来ますが……説明していただけますね、シリル様。さっき言いかけていたのは、このことですか?」
「……久しぶりですね、この何も隠し事は出来ない感じ」
全てを見透かすような瞳が懐かしくて、僕は思わず笑みを零す。先生がアネモスにいた頃は隠し事が出来ないのを不便に思ったりもしたけれど、話していてこんなに気が楽なのも久しぶりだった。会話の主導権を握られるなんて、相手が先生以外だったら絶対に出来ないことである。姿勢を正して彼に向き直り、僅かに表情を引き締めて、僕は頷いた。
「はい、出来ることなら彼女が来る前に話したかったのですが……加波仁菜、という名前に聞き覚えはありますか?」
「かつての僕の妹の名ですね。リザから聞いたことがあります。僕が死んでしばらくしてから生まれたそうなので、会ったことはありませんが」
「話が早くて助かります」
何もかも分かっているような顔で微笑む先生に苦笑を返し、話を続ける。いや、先生のことだ、既に僕が何を話そうとしているかは分かっているのだろう。
「たった今リザさんを追って出て行ったのが、アネモスに降りた当代の神子、ニナです。名前を聞いたときからそうじゃないかと思っていたのですが、彼女と親しくなって確信しました。間違いなく、あの子はかつての先生の妹君です」
「ええ、そうだと思いました。……よく、そんな少女と僕たちを会わせる気になりましたね」
先生の言葉に、僕は僅かに身を強張らせた。
「……ごめんなさい先生、やっぱり迷惑でしたか」
平気そうに見えたけれど、やはり本心ではそうではないのだろうか。アネモスにいた頃、前世の記憶が絡んだ事件のせいで彼は右目を失った。その後も、彼が持って生まれた前世の記憶にずっと苦しめられていたことを、僕は知っている。知っていて、何も出来なかった。数か月前に色々あってから、先生のそんな傷も少しは癒えたのだと思っていたけれど、もし違ったのなら。
しかしそんな僕に対し、彼は一瞬驚いたように目を見開き、すぐにその目をおかしそうに細めて、首を横に振った。
「いいえ、まさか。昔ならともかく、今はもう前世のことを引きずってはいませんよ。リザのおかげで、自分の中で色々と整理が出来ましたから。ですが、シリル様はこうなる前の僕をご存知でしょう。いくら問題が解決したとはいえ、以前のシリル様なら危ない橋を渡るのは避けられるのではないかと思っただけですよ」
「それを言われると、反論は出来ませんね」
先生の言葉に、僕は苦笑を返す。そうだ、先生がいた頃の僕は、そうだった。無知で愚かで、弱くて臆病で、どこまでも無力な子供だった。彼が去ってしまう原因となったあの事件で、ようやくそれに気付いたのだ。
「僕だって先生がいない間、何もしていなかったわけじゃないんです。先生との約束は、忘れていませんから」
王に相応しい人間になってみせると、彼が去る時に誓ったのだから。見上げると、先生は嬉しそうに微笑む。
「……そうですか」
「はい! ……でも、先生よりもリザさんの方が、ニナに関しては色々思うところがあるみたいですね。失念していました」
「リザなら大丈夫ですよ。僕よりずっと強いですから」
まさかリザさんがあんな行動に出るとは思わなかったけれど、二人は大丈夫だろうか。そう思って彼女らが去った方向を見る僕に対し、先生はそっと目を細めた。
こんばんは、高良です。
ニナが心から願った再会。けれどリザの方は、何か思うところがあるようで……
逆に何もわだかまりが無くなった(らしい)のがジルとシリル君。彼らが言っている約束が何なのか気になる方は、第一部の最終話をちょっと覗いてみてくださいませ。
では、また次回。




