第十八話 重なる面影
「お久しぶりです、先生!」
「ええ。お元気そうですね、シリル様」
三ヶ月ぶりに会った師は、記憶に残るのとは少し違う笑顔で、部屋に飛び込んだ僕を出迎えた。扉を閉め、彼の目の前に座ったところで、僕は先生の隣に座っていた少女に視線を移す。
「リザさんも、お久しぶりです」
「……あんたは変わんないわね」
鮮やかな紅髪、この世のものとは思えないほど整った容姿。一歩外に出れば恐ろしく人目を引く彼女は、不機嫌そうな表情を隠そうともせず呟き、手に持っていたティーカップを目の前の机にことりと置いた。
「でもまぁ、そりゃ三ヶ月程度じゃ変わらないかしら」
嘆息するリザさんは、僕よりも三つほど年下――確か今年で十三歳だっただろうか。背が少し低めのせいだろう、一見しただけならば実年齢よりも少しだけ幼く見える。けれど彼女は、以前からそうだったが、とても年下とは思えないような大人びた雰囲気を纏っていた。
「分からないよ。ほんの僅かな出来事で大きく変わってしまうのが、人間というものだから」
「ちょっと前のジルみたいに?」
からかうような少女の言葉に、先生は黙ったまま、ただどこか困ったように微笑む。それもまた新鮮で、僕は思わず目を瞬かせた。いや、困ったような笑みならば、彼は城に仕えていた頃からよく浮かべていたけれど。ただ、僕が知る先生の笑顔は、仕事用のものではない彼自身の笑顔は常にどこか寂しそうで、苦しそうで、陰のある笑みだったのだ。その彼が今のような……影も含みも無い普通の笑顔を浮かべるなんて、誰が想像しただろう。僕の視線に気付き、先生は不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、何でもありません」
「大体予想はつくわね」
再びカップを取って口を付けるリザさんに、苦笑を返す。緩んだ心を僅かに引き締めると、僕は姿勢を正して先生に向き直った。
「それで、先生。リオネルやアドリエンヌから話は――」
「ええ、聞いていますよ。神子とカタリナの話でしょう」
先生は微笑を崩さずに頷き、僕を見つめ返す。……先生にとって、かつてウィクトリアの王女であったあの精霊は自分を脅迫し軟禁していた、いわば天敵とすら呼べる相手のはずだ。こんなにもあっさり彼の口からその名前を聴くなんて想定外で、思わず目を見開く。先生もそんな僕の表情には気づいているのだろうけれど、何も無かったかのように言葉を続けた。
「カタリナを神子と契約させて、彼女の護衛にしたと。発案者はシリル様だそうですね。良い案だと思います。これで神子がアネモスを裏切らない限りカタリナが反旗を翻すことも無いでしょうし、アネモスにとっても精霊という力を得られたのは大きいですから。封じていては彼女の力も利用出来ませんからね」
「……先生にそう言って頂けると、安心します」
自分のしたことが間違いではなかったと、そう確信が持てるから。もちろん先生の言葉が常に正しいわけではないことも分かっているけれど、これはもう幼い頃からの癖だろう。生徒として過ごした数年間は僕の中ではそれほどまでに大事なもので、だからこそ先生に認めてもらえると嬉しい。そんな考え方が染み付いてしまっているのだ。
「容赦ないわね」
ぽつりと呟いたリザさんの言葉に、首肯を返したい気持ちを堪える。言うまでもなく、先生の言葉に対しての突っ込みだろう。先生が誰よりもアネモスのことを考えているのは知っているから、例えその言い方が酷くても何も言えない。……容赦ないとは、僕も思ったけれど。
首を振ってそんなどうでもいい考えを追いやり、僕は顔を上げた。
「あの、先生。リオネルやアドリエンヌは、他に何か言っていませんでしたか?」
「他に? ……何か、あったのですか?」
首を傾げる彼のその表情から、二人が何も話していないことを知る。ちゃんと話したことはなかったけれど、神子と多く関わったあの二人が気付かなかったはずはないだろう。ニナが名乗った名、語った過去、そこから導き出される答え。目の前に座る師と、その隣で話を聴いている少女にも関係のあること。
「何かあった、というわけではないんですけど、実は……」
事情を話そうと口を開きかけたところで、ノックの音が響く。考えるまでも無い、今から話題に上ろうとしていた少女だろう。僕は話すのを諦め、「入って良いよ、ニナ」と声をかける。彼女はそっと扉を閉めて駆け寄ってくると、僕に向かって手を合わせた。
「遅くなってごめんねシリル、なるべく急いで来たんだけど、こっちまで来ることってあまり無いからちょっとだけ迷っちゃって――」
その視線が先生に、そしてリザさんに移る。瞬間、ニナは言葉を切り、同時に大きく目を見開いた。異様な沈黙を破り、やがて彼女は恐る恐ると言った様子で口を開く。
「……お姉、ちゃん……?」
その言葉を聞いた途端、リザさんは音もなく僕たちの横をすり抜け、瞬く間に部屋から飛び出した。
◆◇◆
アドリエンヌさんがどこか嬉しそうな理由は、シリルから聞いて何となく分かっていた。今日の授業が一段落し、いつものように雑談に入ったところで、私は少し躊躇いつつも訊ねてみる。
「あの……賢者様が帰ってきた、って聞きました」
「まあ、よくご存知ですね。情報源はシリル様ですか?」
「はい。今日の昼食前には顔を合わせることになると思う、って。……そういえばアドリエンヌさん、王都にある別邸じゃなくて、トゥルヌミール領にあるお屋敷からここまで来ているんですよね? 賢者様も、そっちに帰ってきているって。いくら王都の隣って言っても、毎日気軽に来られるような距離じゃないと思うんですけど」
「意外と早くお気づきですね、ニナ様」
私の問いに、アドリエンヌさんはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。ああこれは意図的に隠していたんだな、とどこか納得する。そういう人なのだ。つくづく教師気質、というか。
「我が公爵家は特別なのですよ。屋敷の中に転移の魔法陣がありまして、それを使えば一瞬でこちらにある別邸の中に移動出来るようになっているのです。もっとも私たちは魔法が使えませんから、自力でそれを利用できるのはジルくらいですが」
「じゃあ、アドリエンヌさんやリオネルさんはどうやって? それを使ってきているんですよね」
「トゥルヌミールに代々仕えてくれている魔法使いの一族がいますから、彼らの力を借りています。それとまぁ、別邸とはいえ我が家であることに変わりはありませんから、帰る手間も惜しいときは他の貴族のようにこちらで過ごすこともありますね」
楽しそうに説明するアドリエンヌさんに首肯を返し、ふと思う。彼女にも、その息子であるリオネルさんにも、そしてシリルを始めとする周りの人たちからも散々聴いていたことだけど、本当にトゥルヌミール公爵家は『特別』なのだ。他にも公爵家はあるけれど、夜空の瞳を持つ彼らの影響力は本当に強い。何か理由があるのかな、などと考えていると、アドリエンヌさんが不意に声の調子を変えた。
「ところでニナ様、ジルに会うというのは、シリル様がお決めになられたのですか?」
「え? はい、多分そうだと思います。……あの、もしかして、会わない方が?」
いつになく真剣なその表情に、少しだけ不安になる。何と言っても、目の前にいるのはその『賢者様』の実の母親なのだ。シリルが知らないような何か――私と賢者を引き合わせるのを躊躇うような何かがあるとしたら、それを知っていてもおかしくない。しかし、アドリエンヌさんは深く嘆息し、何事も無かったかのように微笑んだ。
「いえ、何でもありません。私やリオが気付いたことに、シリル様が気付かなかったというのも考えにくいですし。ジルのことならなおさら、あの方は鋭いですから。シリル様にも何か考えがおありなのでしょう」
「気付くって、何にですか?」
「ここで私が説明しなくとも、すぐに知ることになるかと。そんなことよりニナ様、昼食前に会う予定なのですよね? ここでのんびりしていて大丈夫ですか?」
「あっ」
思わず声を上げ、つい辺りをきょろきょろと見合わす。しかしこの世界に時計なんてあるはずもなく、それでもシリルを待たせてしまっていることは予想が出来て、私は慌てて立ち上がった。
「ごめんなさいアドリエンヌさん、ちょっと大丈夫じゃなさそうです」
「そうだと思いました。では、少し早いですが今日はここまでにしておきましょう」
おかしそうに笑い、アドリエンヌさんも立ち上がる。そのまま二人で部屋の外に出ると、彼女はいつものように立ち止まって、私の方を振り返った。
「どこで会う予定なのですか?」
「実は、まだ行ったことがない部屋なんです。何度か前を通ったことはあるから、場所は分かるんですけど……賢者様の部屋だったって、シリルが。アドリエンヌさんは、今日は王妃様と会うんでしたっけ」
「ええ、その予定です。ジルが帰ってきていますから、色々と話を聞かれることでしょうね。あの子が王妃のお気に入りなのもありますが、ジルがクローウィンにいたというのもシリル様辺りから聞いているでしょうから」
神国クローウィン……王妃様の故郷。恐らくは私もいずれ神子として行くことになるのだろう。いや、その前に『聖地』の方が先だろうか。そっちは早ければ今月中に、とシリルが言っていたから、また色々と習うことが増えそうだ。思い出さなくていいことまで思い出しつつ、私はアドリエンヌさんを見上げる。
「それじゃ、今日もここでお別れですね。ありがとうございました、アドリエンヌさん」
「いえいえ、いつものことですがニナ様は理解が早いですから、教えている側としてもとても楽しいのですよ。それでは、また明日」
「はい!」
去って行く彼女を見送り、少し急いで逆の方向へと歩き出す。少しして、私にしか聞こえない声が辺りに響いた。
「大丈夫ですわよ、ニナ。遅れたら迷ったとでも言えば怒られませんわ、あの王子ときたら貴女にとことん甘いのですもの」
「……私もそうしようと思ってたけど、堂々と言うのは止めようねカタリナ。シリルに悪いから。あと、今はいいけど、部屋に入ったらしばらく眠っててね?」
彼女は姿を消していても、基本的に私の傍から離れることはない。……向こうの世界で育った私にとっては、取り憑いているという表現が一番しっくりくるのだけれど、それを言ったら間違いなく怒られるだろう。さておき、それでも彼女が常に私を監視しているわけではなかった。私が席を外してほしいときはそう頼めば、カタリナの方からはこちらが見えないし聞こえないような状態になれるらしい。眠る、と称してはいるけれど、私が一言彼女の名前を呼べばいつでも戻ってこられるのは確認済みだった。
私の言葉に、カタリナは不満そうに頷く。
「ええ、構いませんわ。どうせしばらく城に滞在するのでしょうし、ジルと会う機会はたくさんあるでしょうから。……ふふっ、また彼を存分に苛められると思うと、楽しみで堪りませんわね」
「そういうことするから失敗したんだと思うなぁ……控えめにね?」
乾いた笑みを向けても、カタリナはくすくすとたのしそうに笑うばかりで答えない。シリルなんかは未だに彼女のこういうところを警戒しているみたいだけれど、私にとってカタリナは頼れる親友で、それは封印を解いた今でも変わらないのだ。怖がれ、という方が無理があるだろう。
そんなことを考えていると、目的地だった扉の前に辿り着いていた。立ち止まってカタリナに目配せし、彼女が姿を消したことを確認して扉を叩く。
「入って良いよ、ニナ」
返ってきたのはシリルの声で、私は僅かに微笑み、部屋に足を踏み入れた。そのままそっと扉を閉めてシリルに駆け寄り、彼に向かって手を合わせる。
「遅くなってごめんねシリル、なるべく急いで来たんだけど、こっちまで来ることってあまり無いからちょっとだけ迷っちゃって――」
視界の端に二人の人影があるのに気付き、謝りながらも視線を移す。藍色の髪にリオネルさんと同じ夜空の瞳、恐ろしく整った顔立ちの、背の高い男の人。間違いなくこっちが噂の賢者様だろう。その隣に立っているのは紅髪の、人形のような美少女だった。
――瞬間、見覚えのある人の顔が、少女に重なった。
思わず言葉を切り、目を見開く。何かの間違いかと瞬きを繰り返しても、見えるものは変わらなかった。小さい頃からずっと慕っていた、会いたいと何度も願った、けれど決して会えない場所に逝ってしまったはずの人。髪の色も、目の色も、顔立ちもまるで違うはずなのに。ああ、でも見ていれば浮かぶ表情はどこか懐かしいもので、驚きはやがて確信に変わる。
やがて、私は恐る恐る口を開いた。
「……お姉、ちゃん……?」
一瞬だけ、彼女が凍りついたのが分かる。……きっと私と少女以外には、そのほんの僅かな間は分からなかったことだろう。それくらいに短い、瞬きする間もないほどの時間を置いて、彼女は音もなく私とシリルの横をすり抜ける。
そのまま扉を開けると、少女はまるで逃げるように部屋から飛び出した。
こんばんは、高良です。
第四部では十八話目にしてようやく登場した二人、言うまでもありませんが本作の主人公カップルでございます。お久しぶりです。彼らも彼らでここ数か月色々とあったんですが、それについては第五部で語りますのでさておき。
久しぶりの再会を喜ぶシリル君。しかしニナの方は、ある事実に気づいてしまったようで……
では、また次回。