第九話 練習試合
「あれ、シリル?」
少し離れたところから、驚いたような声が聞こえる。こっちに来るのは予想が出来たからその前に、僕は少しだけ気を引き締めて木剣を振った。元々こっちが優勢だったのだ、それほど時間をかけることもなく相手の剣が軽く跳ね上がり、そのまま地に落ちて音を立てる。戦っていた騎士は悔しそうに苦笑すると、立ち上がって軽く礼をした。
「ありがとうございました。いや、しかしお強くなりましたね、シリル様」
「……そうかな?」
思わず礼を返そうとして、何とか思い留める。本来なら無礼と咎められる行動だが、僕がそれをするわけにはいかない事情があった。人の上に立つ人間が気安く頭を下げてはいけない、そう教えられている。相手が騎士――僕の臣下となる人間である以上、そんな彼に頭を下げたなんて知られたら先生に説教を喰らいそうだ。いや、マリルーシャにも、かな。
「ええ、昔なら私が全戦全勝だったのに、最近じゃ五分五分でしょう」
「それは……最近はまた、こっちにも通うようになったからね」
ウィクトリアとの戦争が終わった頃から父上が少しずつ僕に回す仕事を増やすようになり、そこに神子が降りたせいで、一時期僕に自由時間は殆ど無かったと言ってもいい。けれどようやくそれも治まって、またこうしてここ、騎士たちの訓練場に来るようになっていた。
「成長期でいらっしゃいますからねえ、力もついたんでしょう。身長も伸びましたし」
「それだけで変わるものかな?」
「変わりましたよ、シリル様は元々努力家でいらっしゃいますからね。王子じゃなかったら騎士団に勧誘してるところです」
「なぁに、何の話?」
ひょっとニナが僕の後ろから顔を出す。視線がぶつかりでもしたのだろう、騎士は面白いほど分かりやすく固まった。あ、赤面してる。
「みっ、……みみみ、神子様!」
「神子じゃなくてニナねー。名前で呼んでくれると嬉しいな。それで、シリルったら騎士になるの?」
「ならないよ。もしもの話」
苦笑交じりに首を振ると、ニナも分かっていて言ったのだろう、悪戯っぽく笑った。
「知ってるー」
「だと思った。それで、どうしたの? こんなところで」
騎士に礼を言い、彼から離れて訓練場の隅に移動しつつ訊ねる。矢なんかの飛び道具はまた別な訓練場があるけれど、それでも危険なものは危険だ。
「それはこっちの台詞だよ! 珍しい場所で会ったね」
「実はそうでもないんだけどね」
手に持ったままの木剣を見下ろし、苦笑する。確かにニナが来てからしばらくは忙しかったけれど、数年前、まだ師が城にいた頃は、勉強の合間を縫ってここにも頻繁に足を運んでいたのだ。もっとも、先生が去ってからは勉強に集中してあまりこっちに来なかった時期もあったから、自信満々に告げるのは躊躇われるのだけど。リオネルに説得されなければ、ここに来ることは滅多になくなっていただろう。
「そうなの? シリルっていつも本読んでるからひ弱そうなのに」
「ニナ、さらっと言われると僕もちょっと傷つく」
「あ、でもあれだけ重い本運んでれば力はつくのかな? 実際、体つきはそこまで非力な感じじゃないもんね。意外とがっしりしてるっていうか、着やせするみたいだから分かりづらいけど」
「ちょっと待ってニナ」
いつ見たの。君の前で脱いだ覚えはない。……多分。
無言の問いには答えず彼女は笑い、ふと思いついたように首を傾げる。
「そういえば私もこっち来てから体動かしてないなぁ。荷物は全部向こうに取り残されちゃったし……ねえシリル、その木剣って、私でも借りられる? 槍もあるかな?」
「え? ああ、うん、あると思うけど、何をする気?」
「手合わせして」
「……えっと」
可愛く言われても、いや可愛いけど、……可愛いし。
思いがけず乱れた心をどうにか落ち着かせ、僕は彼女の頼みを断ろうとする。
「今の、見ていたんだろう? だったら分かると思うけど、僕も一応それなりの実力はある、らしいんだ。君に怪我でもさせたら……」
父上に殺される。ついでに先生とマリルーシャと、あとリオネル辺りからもこっ酷く叱られることだろう。神子が絡んでくると母上も味方はしてくれない、どころか敵に回るだろうし。
ところがニナは心底楽しそうに、僕の言葉を笑い飛ばした。
「やだなぁ、本当に危険だと思ったら流石にこんなこと言わないよ。私も向こうで色々やってたからねー、多分シリルと同じくらいの実力はあると思うよ」
「本当に?」
「うん。お兄ちゃんが死んじゃって、お姉ちゃんもいなくなっちゃったって話、したでしょ?」
「……聴いたけど」
そんな重いことを軽く言われても、反応に困る。そんな僕の反応を見てニナは苦笑すると、言葉を続けた。
「それ以来うちの親、特にお母さんがね、私に対して過保護になっちゃって。ニナまで失うのが怖いから、って小さい頃から色々習わされたんだ。剣道とか弓道とか、他にも武道を色々と。中学くらいからなぎなたと弓道の二つに絞っていたんだけど、高校でなぎなた部に入ってからは、弓道はたまに道場でやるだけ。でもとにかく、全国大会で優勝するくらいの力はあるよ。分かった?」
「うん、ニナがそれなりに戦えるってことだけは理解した」
かつて師や親友、妹に聴いた彼らの前世の話に出てきた単語もあったが、それを理解しようとは思わない。いや、知らないことを知りたいとは物凄く思うけれど、僕が知っても意味のないことだ。そう自分に言い聞かせて抑え込む。
僕がそう答えることも分かっていたのだろう、ニナは苦笑した。
「あはは、ごめんごめん。そんなわけで、私もそろそろ運動しないと、ここのご飯美味しいからすぐに太っちゃうし。ね、良いでしょ?」
「……分かったよ」
こうなった彼女が頑固なのは、この二週間で嫌というほど分かっていた。その辺りは義理の姉だという『彼女』にそっくりだなぁと諦めつつ、僕は遠くで練習をしていた騎士に向かって声を上げる。
「エリック! 審判を頼める?」
「審判? それはもちろん構いませんが……戦われるのですか?」
別な騎士と戦っていた彼は試合を中断し、こっちに向かってきて首を傾げる。エリックと戦っていた騎士には悪いけれど、彼以外に任せられそうな人間は今はいない。
「うん、僕も反対したんだけど、ニナが大丈夫っていうから。木剣……槍が良いんだっけ? 持ってきてくれるかな。問題はニナに治癒魔法が殆ど効かないこと、なんだけど……防具とかは、つけなくても平気?」
治癒魔法は、その使い手より魔力の高い人間に対しては非常に効きにくい。ニナは歴代の神子の中でもかなり魔力が高い方だから、そんな彼女を治癒できる人間など先生とリザさんくらいだろう。いや、先生は治癒系の魔法はあまり得意ではないと言っていたから、リザさんだけか。もしかしたら純粋な歌守にも可能かもしれない。
「大丈夫だよ、使うのは木剣でしょ? だったら重くてもせいぜい骨折くらいだろうし」
「神子を骨折なんかさせたら色々な人に殺されるよ、僕が」
「……さっきからシリルが勝つ前提で話してるけど」
ニナが不満そうに目を細める。彼女の方が背が低いのだから、自然と上目遣いに睨まれる形になった。……あ、可愛い。
「分かる? 逆にシリルが骨折する危険もあるんだからね?」
「僕はそれなりに治癒魔法効くから平気、……じゃなくて」
それは挑発と受け取っていいのか。返答に迷っている間にニナは戻ってきたエリックから木剣を受け取り、僕と距離を取る。彼女が髪を後頭部の上の方でまとめ直すのを確認し、僕も剣を構え直した。……槍は長くて扱いにくいから苦手だけど、ニナの構え方は本来の槍の持ち方ともかなり違っている。両手でなければ扱えないような大剣じゃない限り、剣も槍も片手で持つのが普通だし、実際、僕が今握っているのも片手剣だ。彼女のように槍を両手で構えては、突くことは難しいだろう。
「お二人とも準備はよろしいですか? ――始め!」
僕たちが頷くのを確認し、エリックが手を振り下ろす。ニナが動くより前に、僕は勢いよく地面を蹴った。
ニナの目の前に着くと同時に、下から剣を振り上げる。彼女に怪我をさせるわけにはいかないから、と手加減していたのだが、予想に反してカンと高い音が響いた。ハッとニナの顔を見ると、彼女は何でも無さそうに微笑む。
「余裕だね、シリル?」
「……っ!」
そのまま僕の剣を巻き込むように槍を回す彼女。一体どうすればそんな真似が出来るのか、体ごと持って行かれそうになり、慌てて踏み止まる。すぐに体勢を立て直して今度は上段から剣を叩きつけるが、彼女は槍の柄でそれを受け流し、踊るようにくるりと反転した。隙なんて一欠片も見当たらない。
「確かに……手加減は、必要なさそうだね」
「さっきの言葉、訂正する気になった?」
「ああ、前言撤回するよ。……でも、それとこれとは別だ!」
今度は彼女の方から打ち込んできたのを、言葉と共に受け止める。小柄な体のどこからそんな力が出るのか、僅かに手が痺れたのを自覚しつつ、跳ぶように後ずさって一旦距離を取った。しかしニナはそれを許さず、僕が下がった分だけ勢いよく槍を叩きつけてくる。それを受け流し、今度こそ出来た隙を逃さず切りかかると、彼女は地面に転がってそれを避けた。
「……ニナ、服汚れるけど、良いの? 僕は着替えてきてるから大丈夫だけど、それ」
「……あ」
彼女も立ち上がってから気付いたのだろう、やっちゃったとでも言いたげに自分の体を見下ろす。しかしすぐに首を振ると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「ま、何とかなるでしょ」
「なるかなぁ」
いや、まぁ、マリルーシャがいない今、そこまで酷く叱られることはないと思うけど。数年前は毎日凄かったものなぁ、と妹とマリルーシャの攻防を思い出す。
「それよりシリル、余所見してて大丈夫?」
「っ!」
近づいてくる音は殆どしなかった。慌てて出した剣が、ちょうどよく槍にぶつかる。良かった、と安堵しつつ試合を再開するが、同じくらいの実力はあるという彼女の言葉は事実だったのだろう、全く勝負がつかなかった。
……そう、全くだ。どちらかが疲れてくればまた変わるというのは甘い考えで、元の体力も殆ど変わらないのだろう、戦況が片方に傾く様子はない。これは一気に決めるしかないかと覚悟を決め、疲労と大きな隙を覚悟して動きを大きくした。するとニナも同じことを考えたのか……いや、彼女のことだから正面から迎え撃つつもりなのだろう、動きが変わる。
少しだけ距離を取り、間を置かずに思い切り剣を振り上げる。同時に彼女も下段から槍を振り上げ――
「そこまで」
ぱしっ、と軽い音が耳に届く。肩で息をしながら前を見ると、リオネルが片手で僕の剣を、もう片方の手でニナの槍を受け止め、面白そうな顔で僕を見ていた。
「練習試合をするなとは言いませんが、お二人とも少々本気になりすぎかと。取り返しのつかないことになってからでは遅いですよ」
「審判は付けていたんだけど……」
「それは信用出来ません」
一転し、冷たい顔でエリックを睨むリオネル。睨まれた方は気まずそうに目を逸らし、乾いた笑みを浮かべた。
「あー……お久しぶりです、リオネル殿」
「久しぶりだな、エリック。仕事はどうした?」
「り、リオネル。審判を頼んだのは僕だし、その辺りで――」
「申し訳ありませんが少し黙っていてもらえませんか、シリル様」
それが王子に対する態度か、なんて指摘したら斬り殺されそうな勢いだった。いや、彼のその態度にはむしろ感謝しているのだが、これは違う。原因は分かっているから、僕はさっさと諦め、ニナに対して苦笑した。
いつの間にか槍を地面に置いて近づいてきていた彼女は、呆気にとられたようにリオネルを見つめる。
「えっと、……リオネルさん、だよね?」
「うん、正真正銘、本人だよ。この言動も含めて」
「この二人、何かあったの? 凄く仲悪そうに見えるけど」
ニナの問いに、僕は首肯を返した。彼らが話を聴いているとも思えないが、互いにしか聞こえない程度に声を潜める。
「悪そうじゃなくて、悪いんだよ。リオネルがかなりの愛妻家なのは知っているだろう?」
「うん、アドリエンヌさんに何度か聴いたよ。マリルーシャさん、だっけ? 確か、結婚前はシリルと妹さんの乳母だったって」
「うん。その彼女が城に来た原因……と言っていいのかな」
何しろエリックが悪いわけじゃないのだ、断言することは出来ない。
「リオネルとマリルーシャは幼馴染で、小さい頃から婚約者同士だったんだ。だけど、いつだったかな……確か二人が十代半ばくらいだったかな、その頃からしばらく婚約を破棄していた時期があって」
「それが、エリックさんのせいってこと? でも、そんなことするような人には――」
「うん、彼は何もしていないからね」
苦笑混じりに頷く。マリルーシャが屋敷に籠っているせいだろう、最近のリオネルは落ち着いているから、この世界に来たばかりの彼女に察しろと言うのは難しいかもしれない。
「彼はまだ従騎士だった頃に、リオネルがいないところでマリルーシャと話しただけだよ。内容も、城の中の日常的な出来事とか、そういう当たり障りのないことだったらしい。当時は二人とも城のことには詳しくなかったからね」
「……それだけ?」
「それだけで、リオネルには十分すぎたんだよ。それからマリルーシャも売り言葉に買い言葉で、あっという間に婚約破棄」
驚いたように訊ねてくるニナに対し、全部後で聞いた話だけどね、と肩を竦めてみせる。
「城に来るようになってから、人前では仲の良い幼馴染でいるようにしていたらしくて。僕もそのことを知ったのは二年くらい前なんだ」
「…………独占欲強いんだね、リオネルさん」
「それだけじゃなくて、割と嫉妬深いし根に持つ方だよ。見れば分かると思うけど」
「……うん」
乾いた笑みを漏らすニナ。その視線は当然リオネルの方に向いていて、気付けばエリックが逃げるように頭を下げて去っていくところだった。
「シリル様が目の前にいるのに挨拶もせず逃げ帰るような奴を、よりによって第二騎士隊の副隊長などにしておくのは問題ですね」
「僕もニナと話しているところだったししょうがないと思うけど、追い払ったリオネルがそれを言うんだね……」
エリック以外に対しては、自分より身分が低いからと相手を蔑むことも無く、人を公正に判断出来る有能な青年なんだけど。
「そ、それでリオネルさん、どうしてここに?」
「母上が、ニナ様を連れて来いと。午後から神殿に行く予定だったのでは?」
「……あ」
話を逸らそうとしたのだろう、ニナの問いに、リオネルは逆に質問を返す。ニナは思い出したように口に手を当て、「忘れてた」と呟いた。
「流石にこの格好で行くのはまずい、かな?」
「大問題ですが、そもそも貴女が神殿に足を踏み入れるとなれば、その前に準備があるはずです。神子の法衣は用意されているでしょうから、心配しなくても良いかと」
「法衣って神官の人たちが着てた、あの裾が長くてばさばさした服?」
彼女らしいその言い回しに、思わず吹き出す。リオネルも同じことを思ったのだろう、おかしそうに頬を緩めた。
「色は違いますが、それがこの世界での貴女の『正装』となります」
「そっか……じゃ、さくっと行って着替えないと、だよね。相手してくれてありがとシリル、楽しかった」
「こちらこそ。一人で戻れる?」
「平気平気。また後でね!」
迷いなく走り去る彼女を見送り、その姿が見えなくなったところで息を吐く。リオネルが僕を見下ろし、「それで」と僅かに目を細めた。
「母上の話は本当なのですか? 最近、ニナ様の様子がおかしいと」
「……ああ、やっぱりアドリエンヌも気付いていたんだね」
彼女と過ごす時間の長さでは、僕とアドリエンヌはいい勝負だ。僕の方が僅かに長いだろうが、それでも、僕に分かったことが彼女に分からないわけがない。薄く笑みを浮かべ、僕は首肯した。
「本当だよ。何かを考え込んでいることが多かった。数日前まではね」
「では、今はそうではないと?」
「様子がおかしいと思う瞬間が皆無ではないけど、殆ど無くなったよ。……だけど、そうだね。念のため、ニナの周囲を調べておいてくれるかな」
「神子を、疑うのですか?」
いくら僕でも許せない、とばかりに眉を顰めたリオネルに、僕は苦笑を返す。
「念のため、だよ。僕とアドリエンヌの気のせいだったのかもしれないし、そうじゃなくてもニナにとっては慣れない異世界だったわけだからね。最近になってようやく慣れてきて、本来の彼女に戻ってきた可能性だって十分ありえる。……だけど、例えばその不慣れなところを利用されることも、無いとは言い切れないだろう?」
「……そうですね。発表だけをして正式な場には出していないわけですから、そろそろ手を出してくる貴族もいることでしょう」
「うん、頼んだよ」
神子に危害を加える者はいない。けれど、神子の権力と力を利用しようとする愚か者がいないとも限らない。アネモスにも、『腐った林檎』は存在する。
牽制も兼ねて、そろそろ神子を表に出す必要があるのかもしれない。近い未来のことを考えて、僕は重い息を吐いた。
こんばんは、高良です。戦闘シーンに苦戦していたら旅行の日になってしまって大遅刻更新。ただその分長さはいつもより多めとなっております。
そんなわけで実はそこそこ戦闘能力のある二人。ニナはなぎなたやってるわけですが、この子身長は平均よりだいぶ下なわけで、自分の丈以上の某振り回してるのかなと思ったらちょっと、あの。
そして彼女の去った後に交わされる不穏な会話。ニナの異変、その理由は……はい、ご想像の通りです。
では、また次回。




