第六話 水晶に眠る
「でも助かったわ、あのとき柚希ちゃんが来てくれなかったらどうなっていたか」
「……もう二度と御免だわ、あんなの」
愚痴るように返すと、義母さんはおかしそうに微笑む。その腕の中で眠る小さな義妹を見つめ、アタシはそっと嘆息した。
家の中で蹲るように倒れていた義母を見つけたのは、二週間ほど前のことである。当然早産に分類されるし、生まれた子の体重も普通よりだいぶ足りなかった。彼女が生まれてから一週間を保育器で過ごす間、アタシと義父が義母さんを慰めるのに必死だったのは言うまでも無いだろう。
「無理はしないようにしていたんだけど、やっぱり年齢のせいかしら……どっちにしろ、この子にも辛い思いをさせちゃったわね」
「その分愛してあげれば良いじゃない。ねぇニナ? ……あ」
冗談交じりに話を振ると、彼女は実にタイミング良く、ぱちりと目を開いた。視線が合ったことに少し驚きつつ指を差し出し、強く握り返されるあの感触を楽しむ。まだ平均よりだいぶ小さいし、体重だって足りないらしいが、その力は孤児院にいた頃に面倒を見た赤ん坊たちと変わらない。
「……慣れてるわねぇ、柚希ちゃん」
「慣れてるわよ」
小規模な孤児院でも、長く過ごしていれば年下の子供たちと接する機会は増える。アタシの場合は高校入学と同時に無理やり一人暮らしを始めたし、それ以前もあまり他人と関わろうとはしなかったけれど、避けては通れないこともあったのだ。慣れざるをえなかった、が正しいか。
「慎は苦手そうよね、こういうの」
「あら、よく分かったわね柚希ちゃん。昔からそうだったわ、小さい子の相手するのは得意なくせに、赤ちゃん苦手だったのよあの子。いとこたちが生まれたときも、可愛い可愛いって言う癖に抱っこしようとはしなくてね。半年もしたら、そんなこと無かったような顔して面倒を見ていたけど」
「じゃ、首すわってないのが駄目なのかしら」
「そうみたい。折れそうだから嫌だ、って、珍しく物凄い顔して言うんだもの」
「見たかったわ……」
笑顔じゃない慎なんてかなりレアじゃないか。いや、笑顔じゃないことはたまにあったが、義母さんが言ったような表情はその中でも珍しい方だろう。写真とか、……無いか。
それにしても、と嘆息する。
「ニナはニナで、『良い子』ね」
「……ええ。よく食べる、よく眠る、あまり泣かない。……本当に、泣きたくなるくらい慎にそっくりだわ」
言葉の通り泣きそうな顔で呟くと、義母さんはニナを抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。アタシはそっと目を細め、ニナに握られたままの指を揺らす。
「勘違いしちゃ駄目よ、ニナ。あんたの仕事は泣くことで、我慢することじゃない」
聴いているわけがない。アタシが言っていることの意味が、今のこの子に分かるわけがない。アタシの言葉を聴いた義母さんが、苦笑交じりにニナの頭を撫でた。それでも、言わずにはいられなくて、独り言のように続ける。
「いい? 絶対に、あんたの兄さんみたいにはならないで。ニナがどんなに弱くても、失敗しても、アタシたちはあんたを見捨てないわ」
独りじゃない。それを、忘れないで。
……同じことを、彼に言えたら。まるで傷口が開くように、そんな後悔がじわりと滲んだ。
◆◇◆
「……つっかれたぁ」
この世界に来て二週間。アドリエンヌさんの教え方はかなり上手で分かりやすかったが、それでも覚えることが多すぎた。この世界の歴史、政治、神子のこと、その程度ならまだ耐えられただろう。ところがそこに礼儀作法やら貴族のことやら、挙句の果てに言葉の勉強まで入ってきたのだ。
シリル曰く、私と彼らの間で言葉が通じるのも『神子』としての力の一つであるらしい。私にとっては日本語にしか聞こえないけれど、彼らが喋っているのは全く別の言語だというのだ。ならば私が意識すれば日本語ではない元の言葉も認識できるはず。何かあったときのために学んでおいた方が良いだろう、というアドリエンヌさんの意見にシリルが乗っかったせいで、さりげなく私が学ぶことは増えてしまったのだ。この世界の公用語であるというミール語を私が習得したら、今度はもっと難しい古代の言葉を教える、と言われた。……うん、シリル、本当に私を元の世界に返す気あるんだよね?
まぁ、同時に私のいた世界の言葉……つまりは日本語になるけど、それを教えてほしいと言ってきた辺り、心配しなくても大丈夫だろう。多分二人とも知識欲がおかしいだけなのだ。というかアドリエンヌさんは自分でもそう言っていたし。
「知識欲、ねぇ……」
私もそうであることは否定しない。知らないことを知りたいと思う気持ちは、私だって人並み以上にあるつもりだ。知らないことは何だってお姉ちゃんに訊いたし、お姉ちゃんがいなくなってからは周りの大人たちに訊き回ったし、文字が読めるようになると自分で調べることも覚えた。家にある本は全部読み尽くしたし、近くの図書館の本も片っ端から読んだ。
懐に入れた封筒に、服越しにそっと触れる。私がこの世界に来たとき、荷物は全て向こうの世界に取り残されてしまったらしい。鞄の中に入れっぱなしだった携帯なんかも当然向こうで、電波なんて通じるわけがないと分かっていてもちょっとだけ惜しい。唯一の救いは、身に着けていたものやポケットに入れていたものはちゃんと一緒にこっちに来てくれていたことだった。これは、これだけは、失くすわけにはいかなかったから。
知識を得ようとするのは、良いことだ。だけどそうして得た知識は、本当に私が得るべきだったものだろうか。私が得て良い知識だったのだろうか。
『君は、決して中を見るな。彼女の死の瞬間と本気で向き合う覚悟が出来るまで、これを開けてはいけない。そしてその日は、きっと永遠に来ないはずだ』
彼はかつて、そう言って私にこれを手渡した。あの言葉は決して間違いなんかじゃなくて、知るべきことがあるなら、知らない方が良いこともあるのだ。
「……で、これは一体どっちなのか、が問題なんだけど」
目の前の扉を見上げ、私はそっと嘆息する。
アドリエンヌさんはともかく、シリルは王子としての用があって会えない日も多く、私に与えられた自由時間は思ったよりもたくさんあった。正式な場での『お披露目』こそまだだけど、城で働く人間には私の存在は公表されている。同時に一人で出歩くこともようやく許されて、そうなれば神子である私は基本的にどの部屋に入っても良いことになっていた。
そんな私でも入室を断られた場所が、二つだけある。一つが地下牢で、もう一つがここだった。地下牢は分かる、私が入れない理由など数え切れないほどにあるだろう。だけど、ここは? 城の中でも人通りの少ない、奥まった場所にひっそりとある扉。それにしては厳重すぎる警備。この向こうには、一体何がある?
知識欲。強すぎるそれは、しっかりと働いてしまった。恐らくここの見張りなのだろう騎士たちの動きを調べて、数日に一度だけ見張りが無くなる瞬間を知ってしまって……気付けば、ここに立っていた。
「好奇心は猫をも殺しちゃうんだよ?」
自分に言い聞かせるように呟いたところで、効果が無いのは痛いほどよく分かっている。……鍵がかかっていたら一旦諦めて、また何か方法を探そう。心の中で言い訳のように繰り返しながら扉を押すと、それは重々しくぎいと音を立てて、けれどあっさりと開いてしまった。
「……いや、鍵は、かけとこうよ」
忍び込もうとしている身で、思わず愚痴を零す。いや、まぁ、私にとっては好都合、だよね……?
一歩踏み込むと、ぞわっ、と冷たい空気が服越しに、突き刺すように肌を撫でた。ばれないように静かに扉を閉めれば、静寂と暗闇に包まれる。足元の方にぼんやりと出所不明の灯りはあるものの、それはとても弱々しく、間隔も開きすぎていて、殆ど頼りにはならなかった。それでも、これが無ければ自分の輪郭すら見えないだろうことを考えれば少しはマシだろうか。
薄明かりの中で目を凝らすと、階段があるのが分かった。一瞬の躊躇の後、私は恐る恐る階段を下りていく。
「ひゃっ」
足を踏み外しかけて上げた悲鳴は、暗闇に吸収されるように消えた。こつこつと自分の足音だけが反響して、それしか聞こえなくて、おかしくなりそう。やがて階段を降り切って少し歩くと、目が暗闇に慣れたのだろう、少しだけ周りが見えるようになっていた。
「……牢屋、かな」
並ぶ鉄格子、鎖に手枷、足枷。それだけを見ればここは間違いなく地下牢で、……だけど、おかしい。牢だというなら何故、囚人が一人もいないのか。大体、罪人を閉じ込める場所は別にあるはずなのに。
更に奥へと進むと、久しぶりに光が見えた。眩しさに目を細めながらそっちに視線を向けて、私は思わず立ち止まる。
「人……?」
牢の中に置かれた、光を放つ大きな結晶。まるで氷のようなそれの中には、黒髪の女の人が閉じ込められていた。幾重にも鎖で繋がれて、縛られて、瞼は閉ざされたままぴくりとも動かない。眠っているようにも死んでいるようにも見える彼女に引き寄せられるように、私は一歩だけ、女性に近づいた。
「――誰?」
「っ!」
突然、声が聞こえた。きょろきょろと辺りを見たところで、当然誰もいなかった。いや、そもそも今の声は耳で聞いたんじゃなくて、頭に直接響いたような。
「懐かしい、魔力ですわね。とても愛しい――けれど同時に、とても憎くもある。さて、あの二人の性質をどちらも併せ持つ、貴女は一体何者なのかしら」
「……あ、貴女、は?」
直感で、理解する。理解してしまった。喋っているのは、この女性だ。水晶の中に封じられた黒髪の美女はぴくりとも動かないけれど、でも確かに、この声は彼女の物なのだ。
震える声で訊ねた私に、彼女はくすくすと笑った。眠ったような表情のまま、ただ声色と周囲を包む雰囲気だけが変わる。
「珍しいですわね、この城にいて私を知らない人間なんて。最近来たばかりにしても、少し想像力と推理力があれば分かりそうなものですけれど」
「あ……私その、神子、らしくて。別の世界から来たばかりで、こっちのことはまだあまり詳しくないんです」
「神子? ……そう。お母様が『死んだ』から、再び歯車は回り出した、そういうことかしら」
「え?」
私に聴かせるつもりはなかったのだろうか、低い声で呟かれた言葉に、私は首を傾げる。彼女は何も答えなかったが、ただ辺りに満ちる空気が、またその色を変えた。
「ならば、私も答えて差し上げますわ。私の名は、カタリナ=オディール=ユーベルヴェーク=ウィクトリア」
聞き覚えのある単語が、一つだけ混じっていた。アドリエンヌさんに聴いた話。少し前までアネモスが戦争していたという国の名前。
「狂った国を従えてアネモスに戦を仕掛けた、狂った王女だった過去を持つ――けれど今はただの、力を封じられた精霊に過ぎませんわ」
お見知りおきを、と彼女は笑った。
氷の中の表情は眠ったまま、ただその声だけを。
こんにちは、高良です。……はいごめんなさい遅刻しました石を投げないでえええ……
前半は久しぶりの前世編。ニナが生まれて間もない頃の話です。早産で低出生体重児だったことが、更に彼女の両親を過保護にさせてしまうのですが、さておき。
後半はアネモスにも慣れてきたニナ。彼女の好奇心が招いた、一つの出会い……その相手は、第三部を読んでくださった方ならお分かりでしょう。
では、また次回。




