第八話 紡いだ過去を忘れて
「なー慎、休憩しようぜー。疲れた」
「……まだ一ページも進んでないんだけど」
脱力して机に突っ伏す親友に、僕は嘆息した。彼の前に置かれたノートには、殆ど何も書かれていない。いや、それでもまだ最初の方に数行ほど計算式が書いてあるだけ、真澄はまだマシか。
「だって分からないものは分からないもの! 真澄の言う通りよ、休憩!」
「もっと駄目だよ。そういうことはせめて問題文くらい書いてから言おうね、咲月」
咲月に至っては、本当に何も書いていないのだ。
「書いてると眠くなるのよ。ね、休憩ー!」
「駄目」
「慎のケチ」
頬を膨らませ、真澄と同じように机に突っ伏す咲月。そんな二人の頭を、僕は丸めた教科書で軽くはたいた。
「ほら、起きて。それ、明日までに提出だろ?」
「大丈夫、こんなの真面目にやって提出するのなんて慎くらいよ!」
「自慢げに言わないの」
「ぶっちゃけ、慎のを写せば問題ないよなー」
「ぶっちゃけすぎ」
まったく、どうしてこの二人はこんな性格になってしまったのか。一応、生まれて間もない頃からずっと一緒に過ごしてきたはずなんだけど。
……もしかして、僕のせい?
「仕方ないな、それじゃ休憩にしようか」
「本当っ!?」
僕の言葉に、咲月が顔を輝かせる。それに対し、僕は笑顔で頷いた。
「うん。ただし、五十二ページの最初から六十ページの最後の練習問題まで終わらせてからね」
「……ふぇ?」
「おいちょっと待て慎」
硬直する二人。でも、僕は一時間以上前に、ここまでの問題をやるようにと二人に告げているのだ。
「ここら辺は簡単だし、一時間もあれば終わったはずだよ?」
「うぐ……わ、分かんないもんは終わらないだろ」
「分からなかったら訊いて、って言ったよね」
そう言うと、真澄は諦めた表情でようやく問題に取り組む。……うん、これもいつものこと。二人とも、スイッチが入るまでがとても長いのだ。毎日こうして無駄に雑談をしてから取り掛かるせいで、終わる頃にはすっかり夜も遅くなる。家が近くなければ出来ない芸当だ。
これで真澄の方は大丈夫だろう。問題は……
「分からないところが分かんないわ、慎」
未だ固まったまま、明後日の方向を見やるこの少女だ。
「……咲月。僕、言ったよね? そうなる前にちゃんと僕に訊いて理解しなさい、っていつも言っているよね?」
「だって、授業も聴いてて、その上慎にも教えてもらってるのに全然分からなかったら本気で馬鹿みたいじゃない、私! 真澄はともかく、まともな方の幼馴染にまで幻滅されちゃったら生きていけないわ」
「咲月テメェ」
さりげなく真澄を貶す咲月と、そんな彼女を恨めしげに睨む真澄。うん、いつ見ても恋人同士とは思えない光景だ。この二人はこうじゃなきゃ、逆に落ち着かないけれど。
咲月の言葉に、僕はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫、君たちがちょっとアレなのはずっと前から知ってるから、今更その程度で幻滅なんかしないよ」
「酷っ!」
そのやり取りで諦めたのか、咲月もやっと真面目に問題を解き始める。僕はというと、さっきまでやっていた明日の予習やら課題が全て終わってしまったため、のんびりと読書。
そうして、しばらく流れる沈黙。不意に、窓にこつんと何かが当たるような音が聴こえたような気がした。
「……?」
疑問に思って顔を上げるけど、二人が気づいた様子は無い。
……一つだけ、心当たりがあった。僕は立ち上がり、どうしたのかと見てくる二人に向かって笑顔を向ける。
「ちょっと、用事を思い出しちゃって。少しだけ出かけてくるから、その間に終わらせてること。いいね?」
「よくないっ!」
「よくねーよ!」
まったく同時に叫ぶ二人を無視し、僕は部屋を出る。そのまま階段を降りて、一階へ。今日は両親ともいないため真っ暗な廊下を抜けて、靴を履いて外に出る。
そして、ぼんやりと思案顔で僕の部屋の辺りを見上げている金髪の少女に声をかけた。
「柚希」
「っ!」
彼女は一瞬だけ目を見開き、僕に気づくと僅かにその表情を和らげた。
「……脅かさないでよ、慎」
「ごめん。でも、君が呼んだんだろ?」
「あんなんで気付く方がおかしいだろ」
「ほら、また言葉遣い。まったく、ちょっと良くなったと思ったら逆戻りするんだから」
「うっさい」
不機嫌そうに嘆息する彼女に、僕は苦笑を向ける。
「それで、どうしたの? あ、いくら用事があっても家の窓に石をぶつけるのは止めた方がいいと思うよ。いつも言っているけど」
「そーね、聞き飽きた」
頷き、柚希は肩を竦めた。
「ま、大したことじゃない……っつーか、用事なんて無いし。暇だったから来たんだけど、あいつらがいるのにアタシが押しかけるのもアレかなって」
あいつら。十中八九、咲月と真澄のことだろう。
春、高校に入学して間もない頃に柚希と出会ってから、もう半年。彼女もどうやら心を開いてくれたようで、たまに店の帰りにこうして寄ってくれたり、あとは僕の方から訪ねて行ってどこかに遊びに行ったりする程度の仲にはなっていた。……けれど、今日のように咲月や真澄が僕の家に来ていると、彼女は決して上がって行こうとはしないのだ。
「別に、僕は構わないんだけど」
「あんたはね。アタシは構うし、あいつらだって気にするでしょ。うちの学校の生徒……いや、教師もか。とにかくうちの学校の人間にとって、宝城柚希は『学校で唯一の不良』だし」
「……実際は、真面目に夢を追いかけている人見知りの激しい女の子?」
「殴るわよ」
物凄い目で僕を睨み、彼女は再び嘆息した。
「ま、良いわ。あいつらがいるなら、帰る」
「送って行こうか?」
「要らないわよ。っつーかあんた、あいつらに勉強教えてたんじゃないの」
「でも、危ないよ」
女の子がこんな時間に一人で歩いている、というわけでも十分危険。なのにそれに加え、柚希はこの容姿の良さだから。
「要らないっつってんでしょ! 大体、アタシがそんなに簡単に何かされると思うわけ?」
「うん」
頷くと予想通り、彼女は怒った顔で言い返してこようとする。それを遮るように僕は柚希の腕を取り、軽く捻るようにして彼女の身体をくるりと回転させた。バランスを崩した彼女を、抱きかかえるように支える。
そして、僕は呆然とする柚希を、少しだけ真面目な顔で覗き込んだ。
「ほら、ね。何も出来ないだろ? 気をつけなきゃ駄目だよ。君が喧嘩とか強いのは知っているけど、それでも女の子なんだから」
「……あんた、さぁ」
「どうかした?」
心なしか顔を赤くする柚希に向かって訊ねると、彼女はすぐに何でもないような表情に直って首を横に振る。
「いや、何でもない。にしても、何でさっきみたいな芸当が軽々と出来るわけ? あんたも言った通り、アタシこれでも喧嘩には自信あるんだけど」
眉を顰める柚希。そんな彼女に対し、僕は苦笑した。
「君は確かに強いけど、それでも女の子なんだよ」
「聞き飽きた」
「うん。女の子なんだから、喧嘩は控えようね」
「それも聞き飽きた」
僅かに笑いを漏らし、彼女は踵を返す。
「じゃ、そーゆーわけで帰るわ。どうせ明日も来るんでしょ、また明日」
「うん、また明日。気を付けて」
「あんたみたいな化け物はそうそういないっつの」
歩いていく柚希を、僕は苦笑混じりに見送った。
……一つ、決めたことがある。やっぱり、彼女は僕以外にも友人を作るべきだ。
◆◇◆
「ジルベルト、さん?」
廊下を歩いていると、背後から控えめに声をかけられた。僕は振り向き、声の主に微笑みを向ける。
「ジルで結構ですよ、ハーロルト様。どうなされたのです?」
少し跳ね気味の金髪に、明るい緑色の瞳。かつての真澄ほど平凡でもないものの、それでも特に目を引くわけでもない、そこそこの容姿。……これは、ちょっと王族に対して不敬か。
彼――ハーロルト様は、戸惑うように答えた。
「あ、いや……ジルは、『風の国の賢者』なんですよね。色々と話を聴いてみたくて。もちろん、迷惑だったらいいんですけど」
「賢者、と呼ばれるようなことは特にしていませんが……僕などでよろしければ、構いませんよ。もちろんアネモスの不利益にならない程度に、ですが」
「うっ……それじゃ、ジルを懐柔してグラキエスに連れて行くっていう目的は達成できないんですね」
がっかりしたようなほっとしたような、微妙な表情で呟く彼に、僕は思わず呆れ顔を浮かべる。
「そんなことを考えておられたのですか?」
「はい、父が」
「ああ……グラキエスの国王陛下ですか。確かに、考えそうだ」
胡散臭い笑顔で人を振り回すはた迷惑な国王を思い出し、苦笑。
「父と知り合いなんですか?」
「ええ、小さい頃に何度かお会いしたことがあります。その度に論破していたせいか、少々目をつけられてしまいまして……今はどうにか僕をグラキエスにつかせようと、日々画策しているようですね」
王としての能力は凄まじいほど優秀なのだから、困ったものだ。才能の無駄遣いもいいところである。
「論破したんですか? あの父を、何度も?」
驚いたように僕を見るハーロルト様に、僕は苦笑する。
「ええ、まあ」
「凄ぇ……!」
「おや、よろしいのですか? そのような言葉遣いをして」
段々と硬さが抜けてきた彼の口調を指摘。……不意に、さっきまで夢に見ていた、かつて親しかった金髪の少女を思い出す。彼女にも、よく注意していたっけ。女の子なんだから気をつけなさい、って。
普段なら、夢に見てもその後で思い出すことは無いのに。どうしても、彼に……ハーロルト様に、真澄の面影を見てしまう。クレア様を見るたびに咲月が重なると同じように。
「……ハーロルト様は、クレア様がお好きなのですよね」
気付けば、その言葉は自然と口から漏れていた。彼は笑顔の中に不思議そうな表情を滲ませて、僕を見上げる。
「大好きですけど」
「何故?」
訊ねると、ハーロルト様は面白そうに笑う。
「この間、シリルにも同じことを訊かれました。信じられないかもしれないですけど……俺、夢で彼女を見てるんです。小さい頃からずっと」
「っ!」
その言葉で、全て察した。情報はかなり少なかったけれど、賢者と呼ばれる頭脳は容易く察してしまった。僕の意志には関係なく。
彼は、覚えているのだろう。彼が真澄だったときのことを。ただし自分がそういう名前の少年であったことは知らず、僕や他の人間のことも分からず、ただ咲月という少女の存在だけを。咲月を愛していたことだけを、覚えているのだろう。
「やっぱり信じられませんか? クレアとシリルは、びっくりするくらいあっさり信じてくれたんですけど」
「お二人はこちらが心配になるほどお人好しですから。……ですが、そうですね。僕も信じますよ」
「本当ですか!?」
嬉しそうにこちらを見る王子に、苦笑。
「ええ。そういう話も、無いわけではありませんから」
僕の言葉に、彼は何も答えない。でもその表情は、どこからどう見ても満面の笑みだった。
「立ち話もなんですし、どこか落ち着ける場所に行きましょうか。そうですね、第二書庫ならばシリル様やクレア様もいらっしゃるでしょう」
「行きます!」
……これは、懐かれた……かな。
即答する彼に笑顔を返しながら、僕は心の中でそっと苦い表情を浮かべた。
こんばんは、高良です。一日遅れてしまいましたが、まぁ本来「三日~五日おきに更新」なのでこの程度は許容範囲、のはず。
前半は彼らが高校一年生の頃のお話。出会って半年経ち柚希も心を開いてきた様子ですが、まだそれは慎限定。果たして慎は、一体何を企んでいるのでしょう。
後半はそんな彼らの現在。前世のことを知らずに、ハルはジルのことを慕っているようですが……
それでは、また次回。
……そろそろストックが無くなってきたので、ちょっと怪しいですが。