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枯花廻りの籠の中  作者: 高良あおい
第三部
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番外編・三 終わりへと走り出す

 がちゃん、というのは恐らく鍵をかけた音だろうか。そのままゆっくりと彼――間違いなく女性ではないから彼で正しいだろう、彼がわたしの方へと近づいてくる静かな足音を、ただ息を殺して待ち構える。彼は私の傍で足を止めると、突然目隠しを外してきた。

 この場所ではありえないはずのその優しい手つきに、どこか呆然と見上げる。そこにいたのは若い――恐らくわたしとそんなに変わらないだろう、二十代前半から半ばくらいか。それくらいの年に見える、フード付きの黒いマントを羽織った男性だった。珍しい、と心の中で驚く。ここで出会ったのは屈強な……兵士か何かなのだろう、大柄な男ばかりだった。けれど目の前の青年は、背は高いけれど線は細いのがマント越しにも分かって、どちらかというと学者気質の人間に思えた。

「大丈夫ですか?」

「……っ!」

 わたしを気遣うそんな言葉と共に、青年はフードを外す。顔を見ようと視線を上にずらし、わたしは思わず目を見開いた。青緑色の長い髪、それはいい。日本じゃ絶対にありえない色だけど、この世界なら納得できる。問題は、目の色だった。

 紅い、血のように紅い瞳。嫌というほど見覚えがある。間違えようもない、愛しい娘と、そして憎い男と同じ色。それどころか顔立ちすら、あの男によく似ていた。

「ひっ……」

「怖がらせてしまいましたね」

 へたり込んだまま悲鳴を上げ、這うように部屋の隅へと逃げる。青年は困ったように苦笑すると、立ち上がってマントを脱ぎ、部屋の隅へと投げた。身に纏うのは高級そうな、まるで貴族のような服で、警戒するわたしに対し彼はにこりと微笑む。

「貴女が許してくださるまで、私はここから動きませんので、ご安心を。……初めまして、神子様。ずっと、お会いしたかった」

「あ、……なた、は」

「ああ、名乗るのが遅れて申し訳ありません」

 絞り出すようなわたしの言葉に、青年は苦笑した。すっと洗練された動作で片手を胸に当て、彼は優雅に一礼する。

「アドニス=リヒト=フェルステル=ウィクトリア。貴女をこんな目に遭わせている男の、腹違いの弟に当たります」

「弟……?」

 だから似ていたのか。その程度の感想しか抱けず、ただ彼の言葉を繰り返す。青年は頷くと、微笑んだままわたしを見た。

「はい。……神子様、貴女の御名前を訊いても?」

「…………なまえ……?」

 アドニスと名乗った青年のその言葉に、わたしは思わず目を見開く。

 なまえ。わたしの、なまえ、なんだっけ。……わたしに、なまえなんて、あった? もうすっかり薄れた記憶を辿って辿って、ようやく思い出す。ああそうだ、わたしにもあったよ。お父さんとお母さんがつけてくれた、大好きな人たちが呼んでくれた名前。

知夏ちなつ……来実くるみ、知夏です」

「チナツ様ですか。綺麗な名ですね。……そう、兄は貴女の名前すら知ろうとしませんでしたか」

 懐かしい響き。数年ぶりに呼ばれた自分の名に、思わず涙が滲む。それと共に、彼に抱いていた警戒心が霧散するように消えていくのを感じた。

 恐らくわたしはずっと、心のどこかで求めていたのだろう。この辛くて堪らない一人きりの世界で、わたしがわたしでいられるように繋ぎとめてくれる人を。一緒に堕ちてくれるかもしれない相手を、探していたのだろう。

「さっきはごめんなさい、アドニス様。もう、大丈夫です」

 だから、わたしはにこりと微笑んだ。ああ、笑うのも数年ぶりだから、きっととてもぎこちない微笑が浮かんでいることだろう。

 これが罠でも構わない。いつか、例えば明日、貴方に裏切られ捨てられるのだとしても。今この瞬間、わたしを見てくれるのなら――わたしは、堕ちよう。

「こっちへ、来てくださいませんか? ……訊きたいこと、たくさんあるんです」

 差し伸べた手をそっと握り返してくる、温かく大きな手。ずっと昔、繋いでいた兄の手を思い出す。

 ……わたしたちの禁じられた恋は、恐らくこのとき始まったのだ。


 ◆◇◆


 無言で教室に入ってくる級友に、どこか憐れむような視線が集まる。それは隣にいる僕の幼馴染たちも同じだった。誰も見えていないかのように虚ろな目で自分の席へと向かう彼を見て、咲月と真澄は心配そうに顔を見合わせる。僕はそんな二人を置いて、静かに彼の席へと歩み寄った。

「おはよう、冬哉」

「……慎」

 そっと声をかけると、友人は力なく僕を見上げる。

「おはようって時間でもないだろ」

「そうだね」

 三時間目と四時間目の間の休み時間。確かに、朝と呼ぶには少々遅いかもしれない。僅かに苦笑を返し、僕は声を潜めて訊ねた。

「知夏ちゃんのこと、なんだけど」

 聴いた瞬間、冬哉は机の上に置いていた拳を強く握りしめた。同時に、普段の彼からは想像出来ないような、殺気すら含んだ表情で僕を睨む。そんな反応が返ってくることは予想していたから驚きはしなかったが、それでも彼に嫌なことを思い出させてしまった罪悪感はあった。僅かな躊躇いを押し殺し、静かに冬哉を見つめ返す。

「その様子だと、まだ……?」

「……見つかってないよ。警察は家出じゃないかって……どこ見てるんだよあいつら馬鹿じゃないの脳味噌腐ってるよ、だってちぃが、あいつが家出なんかするわけないだろっ」

「……そうだね」

 彼の妹が突然行方を眩ましたのは五日ほど前、先週の水曜日のことだった。僕たちがそれを知ったのは金曜日のこと。二日経ったのだ、何か進展でもあればとみんな思っていたのだけれど、どうやらそれは叶わなかったらしい。冬哉がどれだけ彼女を大事に想っているか考えれば、むしろこれだけ落ち着いていられるのが不思議なくらいだ。

 だけど、冬哉の意見には僕も同意見だった。咲月や真澄ほどではないけれど、彼とも小学校からの付き合いで、当然その妹である少女のことも昔から知っている。大人しいけれどとても心優しい子で、家族想いで、彼によく懐いていて……とても、黙っていなくなるような子ではない。だからこそ、冬哉も焦っているのだろう。

 自分からいなくなったのではない、そんなわけがない。ならば残る可能性なんて、何かの事件に巻き込まれた、それだけだから。

 冬哉の口調から察するに、警察は当てにはならないらしい。考えるより先に、その言葉は自然と口から出ていた。

「僕に出来ることなんて、少ないかもしれないけど……何かあったら言って。手伝うよ」

 僕の言葉に、彼は驚いたように目を見開く。やがて、冬哉は苦笑し、どこか呆れるような口調で「慎らしいな」と呟いた。

「けど、ありがとう」

「どういたしまして」

 少しだけ普段の彼らしさを取り戻した友人に、微笑を返す。

 ……僕があの冷たい濁流に身を投じたのは、それから二ヶ月ほど後のことだった。


 ◆◇◆


 彼女と出会ってから、三年が経とうとしている。私たちが恋仲になるまでに、そう長い時間はかからなかった。……王妃と王弟の恋など、この国でなくとも大問題である。あの兄にまだ見つかっていないのは、言わば奇跡に近い。

 チナツ、というこの国にはない美しい響きは、しかし私には発音が難しかった。呼びにくそうにしていると気付いたのだろう、出会って間もないある日、彼女は呼びやすいように呼んでください、と微笑んだのだ。以来、私は彼女をティナと呼ぶ。……この世界で、私だけが呼ぶ名。

「そろそろ潮時かもしれませんね、ティナ」

「……アドニス様?」

 嘆息交じりに呟くと、腕の中の彼女は不安そうに私を見上げた。鈴のような、小さくとも澄んだ声。ふわふわと波打つ長い黒檀の髪、僅かに潤んだ同じ色の瞳。出会ったときから殆ど変化の無い、実際の年齢よりかなり幼く見える顔。一糸纏わぬ彼女を守るように抱きしめて、私はそっとティナと唇を重ねる。

 彼女と会うのはいつもこの、薄暗く小さな部屋――兵士たちのために建てられた、王立娼館と呼ばれる屋敷の一室だった。ウィクトリアの民らしく狂っている彼らの異常な性癖が外側に溢れ出さないよう、生贄を捧げて抑え込むためのおぞましい施設。ここに囚われているのは王の不興を買ってしまった女性や罪人ばかりで、彼女らが心を病んでしまうことも珍しくない。そんな場所に自分の妻を連れてくるなど正気とは思えなかったが、皮肉なことにそれが幸いした。

 王の不興を買う人間というのは、殆どがこの国では異端扱いされる『正常な』人間なのだ。それはつまり私の側に属する人間であり、まだ正気を保っている何人かに手引きを頼むのは、そう難しいことではない。兄に怪しまれないよう初日から彼女と交わらなければいけないのには良心が痛んだが、それも想いが通じ合うまでのごく僅かな間のことだった。ティナに兄が苦痛しか与えないのならば、私はその真逆のものを。兄への対抗心や憎しみはいつしか彼女への深い愛情にすり替わって、ティナを助けたいと願う自分がいた。

 ……いや、私は元々そのために、ティナに接触したのだ。神子が現れたという話は民にすら伏せられていたが、仮にも同じ王族である私には伝えられた。兄は私と違ってウィクトリアの王族にふさわしい、骨の髄まで狂気に呑まれた男だ。そんな彼が、神子をまともに扱うわけがない。神に愛された彼女が、こんな狂った国にいていいはずがない。他国に落ちればティナはその存在を公表され、誰からも敬われ慕われ愛され、幸せに暮らしていたはずなのだから。逃がしてやりたいと、最初にそう思ったのは単なる同情からだった。……だが、今は。

「明日の晩、会いに行きます」

 そっと彼女を抱き締める腕に力を籠め、その耳元で囁く。顔は隠れて見えないものの、ティナが目を見開いたのが分かった。

 ティナが普段閉じ込められているのは、兄以外の者の立ち入りは決して許されない、地下牢の最奥である。兄自身の魔法で厳重に守られる、秘された王妃の部屋。ここに送られる夜と稀に民の前に姿を見せるときを除くほとんどの時間を、彼女はそこで過ごしていた。彼女の実の娘であるカタリナすら、気軽に立ち入ることは出来ない。……昔はあの子も頻繁に忍び込んでいたのだが、兄に妨害されたのか、最近ではそれも少なくなったとティナは零していた。

 そんな場所に会いに行くと言った、その意味。

「兄が城を留守にするなど、滅多にないことです。明日を逃せば、次はいつになることか」

 彼女と目を合わせると、私はその長めの前髪をそっとかき上げた。額に残る、酷い痕。王家の紋章と兄の紋章……彼の実母の家の紋章とを組み合わせた、彼の所有物の証。ああ、だが彼は決して、彼女の心まで所有できたわけではない!

「……逃げましょう、ティナ」

 貴女はこんな狂った国にいてはいけない。囁くと、ティナはその黒い瞳を大きく見開く。やがて一粒の涙と共に、彼女は花のような微笑を浮かべた。

 ……部屋の外、そっと扉を離れて行った人影には、二人とも気付けぬまま。そのことを、私は一生後悔することになる。


こんばんは、高良です。……ま、間に合った?


久しぶりに慎視点で書いた気がします。多分お兄ちゃんの出番これで終わりだね! なんてことだ……!

そして王弟編なのに三話でようやく登場するアドニス様。それから三年、いつしか愛し合ってしまった二人は逃亡を決意しますが……?


では、また次回。

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