番外編・二 帰れぬ場所を想う
あれから、一体どれくらい経ったのだろうか。細かい日数は分からないけれど、しばらくするとわたしは妊娠していた。……当然だろう。毎日毎日、暇さえあればあの男に犯されていたのだから。中学生孕ませるなんて何考えてるの変態、などと罵ったら多分半殺しにされる。日に日に胎内の子供はその存在感を増していって、その大きさから考えても既にわたしがこの世界に来てからかなり経っているのは明白だった。
帰りたい、とは今も思っている。ずっとずっと、心からそう願っている。けれど、そう泣き喚くことは無くなった。諦めた、ともいうのだろう、叶うなんてもう思わないし思えない。来たばかりの頃は兄や恋焦がれていたその友人に助けを求めもしたけれど、その声が届いたなら、もっと早く助けにくるはずだ。……届いているはずもない。
食事を運んでくる侍女らしき人たちはみんな無口で無愛想だったが、それでも彼女たち同士の会話を盗み聞いて分かったことがいくつかあった。
例えば、ここはウィクトリアという小さな国で、あの男はその国王であること。だからわたしは王妃ということになっているらしい。確かに今は綺麗なドレスを着せられているけれど、それでもくらい牢で幾重にも鎖に繋がれて動けないわたしが王妃だなんて、冗談もいいところだろう。一度だけ、正式に結婚するときは国民の前に出させられたけど、彼らはあのときわたしが被っていたベールの下に隠された烙印のことなんて知りやしない。
もう一つ、ここはどうやらわたしのいた世界ではないらしい。それだけで、わたしを絶望させるには十分だった。だってどんなに帰りたいと願っても、世界を渡る方法なんてわたしには分からない。どころか、彼らに『魔法』を使われれば、対抗する手段はわたしいはないのだ。
「……異世界に召還されるっていったら、普通はもっと優遇されるものじゃないの」
毎晩、下手したら昼間も、国王に無理やり『色々なこと』をさせられて泣き叫んでいるせいだろう。向こうでよく読んでいた小説や漫画を思い出して呟いた言葉は、酷く掠れていた。
……ただ、無情に時は流れていく。転機が訪れたのはそれから六年近く後、無事に私のお腹から出てきた娘が、少し成長した頃のことだった。
◆◇◆
暑い日差しから逃げるように、勢いよく玄関の扉を開ける。先に帰った兄がエアコンをつけていたのだろう、ぶわっと心地良い冷気が肌を包んだ。
「たっ、ただいま!」
「おかえりー」
玄関にあった靴は二つ。それを確認し、緊張気味に叫ぶ。声は兄の部屋から返ってきて、わたしは慌てて鞄を置くと、死ぬほど急いでコップに氷と飲み物を注ぎ、零さないように階段を駆け上がった。ドアの前に立ったところで、はたと気づく。……両手が塞がっていたら、ノックも出来ないじゃないか。
「お兄ちゃん! 開けて!」
「……馬鹿だなーお前」
心底呆れるような兄の声と共に、ドアが開く。けれど目の前に立っていたのは、兄ではなかった。
「せっ、先輩? ごごごごめんなさいわたし、あの!」
「気にしないで。おかえり、知夏ちゃん。お邪魔してます」
「覚えててくれたんですか?」
何しろ前に会ったのはいつのことだったか、わたしも覚えていないのだ。多分小学校の頃だったとは思うけど。わたしの問いに、先輩は笑顔で頷いた。
「もちろん。久しぶりだね、もう中学生だっけ? 二年生?」
「は、はい!」
「……二人ともさぁ、とりあえず座れば」
わたしの必死な表情に気付いたのだろう、兄が呆れ顔で促す。先輩は「そうだね」と笑うと、今まで座っていたのだろう、部屋の中央に置かれたテーブルの横に腰を下ろした。わたしも二人の隣に膝をつくと、今まで持っていたお盆を置く。ちゃんと座り直したところで、わたしはそっと兄を見上げた。
「あの、お兄ちゃん、わたしいても大丈夫? 邪魔にならない?」
「ちゃっかり自分の分の飲み物も持ってきてる奴の言う台詞じゃないと思う」
「……の、喉乾いたんだもん。外暑いから」
「だと思った。大体やることは終わったし、大丈夫なんじゃないの? 今だって駄弁っていたところだし」
兄の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。加波先輩を見上げると、彼はにこりと微笑んだ。あぅ、格好良い。
「冬哉の妹自慢を聴いていただけだったけれどね」
「……余計なこと言うなよ、慎」
「わたしの?」
悪戯っぽく言う加波先輩に、お兄ちゃんは苦い顔で返す。先輩は面白そうに微笑むものの、それ以上は語らずわたしを見た。
「そういえば知夏ちゃん、うちの学校を志望しているんだって?」
「あ……は、はい。今の成績だと厳しいかもって言われたんですけど、あと二年近くあるし大丈夫かなって」
「言っとくけどちぃ、お前が高校に入る頃には僕らは卒業してるからな」
「知ってるもん! あの、先輩、高校でも生徒会に入ったんですよね」
「よく知っているね、冬哉に聴いたの?」
訊ねると、彼は少しだけ驚いたような顔をする。兄が余計なことを言う前にと、わたしは慌てて頷いた。
「はい! わたし……わたしも今、中学で生徒会に入ってて」
「そう、それじゃ本当に後輩なんだね。大丈夫、その調子で頑張れば高校も受かるよ」
「あ、ありがとうございます!」
視界に映った呆れ顔の兄は全力で無視しつつ、わたしは先輩に笑みを返す。
加波先輩は、兄の小学校からの友人だった。勉強も運動も完璧にこなして、とても格好良くて、優しくて、女子にも大人気の先輩。兄も物静かな方だからか気が合ったらしい。初めて彼が遊びに来たとき、わたしが一目惚れしてしまったのは、恐らく必然だろう。
年齢差のせいで、同じ学校に通えるのは小学校までだった。それでも、頑張って追いつきたいと、そう思ったのだ。初恋の人であると同時に、憧れの先輩。だから勉強だって頑張るし、生徒会の仕事だって頑張る。振り向いてもらいたいとか付き合いたいとか、そんな高望みはしないけれど、私自身は先輩を好きになる資格のある、先輩みたいに立派な人間になりたかった。今ではもう、叶わない夢。
「……え?」
心の中に浮かんだ言葉に、目を見開く。叶わない? どうして? そんなの分からないのに、未来なんて分からないのに、……どうしてわたしは、そんなことを、確信してしまっているの?
「ちぃ?」
訝しげな兄の声。不意に、視界が歪んだ。
渦を巻くように、先輩も、お兄ちゃんも、見慣れた部屋も、遠くへと逃げていく。同時に、視界が暗く染まっていった。驚きはない。ただ一つ、どこか諦めに近い感情が浮かぶ。
――ああ、やっぱり、また夢だったんだ。
◆◇◆
「お母様」
「……まだ起きていたの? カタリナ」
牢の中に響いた幼い声に、わたしはゆっくりと重い瞼を持ち上げる。鉄格子の外からわたしを見つめる、あの男と同じ紅の瞳。父親と同じように冷たい印象を与える、幼くても十分に整っているのが分かるその顔は、しかしわたしと目が合うと心配そうに歪められた。
「お父様が、お母様に会わせてくださらないのですもの。大丈夫ですか、お母様? また怪我が増えたわ」
「……いいえ。大丈夫よ、ありがとう」
娘の問いに、わたしはそっと首を横に振る。
愛せるわけがない、と思っていた。あの男との子供なんて、無理やり生まされた子供なんて、きっと憎いに違いないと。だけどわたしを求めて泣いていたこの子を放っておけなくて、気付けば抱き締めていた。愛しいと、思ってしまった。敵ばかりのこの場所で、唯一この子だけは信じられた。
「お母さ――」
「カタリナか」
なおも不安げな少女の言葉を遮るように、冷たい声が重なる。全ての元凶たる男はコツコツと足音を立てて降りてくると、自分の娘を無表情で見下ろした。
「ここには来るな、と言ったはずだが?」
「お父様、ですが――」
「もう夜も遅い。寝なさい」
「…………はい」
不満げに顔を顰め、カタリナは渋々頷く。ぱたぱたと去っていく少女を冷たい目で見送ると、彼は嘲るようにわたしを見下ろした。
「母親らしくも無いお前が、随分と懐かれたものだな」
一体どんな魔法を使った? というその問いに、わたしは沈黙を返す。魔法なんて使えない、そう言い返すことは簡単だったけれど、反論すればきっとまた殴られるだろう。そう思って黙っていたのだが、それはそれで男にとっては不愉快だったらしい。静かに目を細めると、彼は牢の扉に手をかけた。内側からでは決して開かないそれは、しかしあっさりと動く。中央に座り込むわたしに近づいて、男は『魔法』を使った。
重たく体中に巻き付いていた沢山の鎖が、両手首の拘束だけを残して一瞬で消える。代わりに現れた首輪を苦しいほどきつく締めると、最後に彼は黒い布でわたしの目を塞いだ。
「今日は休ませてやろうと思っていたのだが、気が変わった。行くぞ」
「っ……は、い」
浮遊感。男がわたしを抱き上げたのだと分かってはいても、視界を奪われた今、地に足がつかないのはやはりとても怖い。この後に何が待ち構えているかを考えると、更にその恐怖は増した。
いつからだったか――カタリナが二歳くらいの頃だから、三年ほど前からか。あまり抵抗しなくなったわたしをつまらなく思ったのか、男は突然ある『遊び』を始めた。
……薄暗い部屋にわたしを放置して知らない男に凌辱させる、ただそれだけ。国王だというあの男に命令でもされているのか、彼らがわたしに対して優しく接することはない。快楽なんて感じたことは一度も無いけれど、それでも男性経験だけは積み重なって、気付けばわたしを娼婦のようだと嘲る男の言葉を否定することは出来なくなっていた。
今日も、間違いなくそうなるのだろう。部屋につくと手首の縛めは解かれていたが、首に巻かれた首輪と目隠しはそのまま。……一時期は全裸で放りだされていたのだ、今は綺麗なドレスを着せられているだけマシだと考えるべきだろうか。手が自由になったのだから他の二つは外せるだろう、というのは甘い考えで、どんなに頑張っても自分でこれらを解くことは決して出来なかった。
一度壁を伝って扉のところまで行ってみたけれど、恐らく『魔法』のせいだろう、ここから自分の意思で出ることは決して出来ない。震えながらあの扉が開くのを待って、一晩中続く地獄に必死で耐えるしかないのだ。『客』によっては目隠しを外してくれることもあるけれど、それだって彼らが楽しむためで、自分の痴態を見せつけられるわたしにとっては苦痛でしかなかった。そういえば大勢の男に同時に犯されたこともあったっけなぁ、とどこか麻痺した頭で考える。
視界を奪われ、ただ考えることしか出来ない状態では、それはとてもとても長い時間だった。部屋の外、段々と近づいてきた足音は、この部屋の前で止まる。少しして、扉の開く音が耳に届いた。
こんばんは、高良です。
微妙に更新が遅れてしまったのは某ネトゲのせいなんですストックはあったのに……!
というわけで番外編第二話。一気に数年が経過しました。この純粋な幼い少女がどうすれば本編カタリナのような人間に育ってしまうのか、その辺りもじわじわと……
間に入っていたのはお馴染みのあれ、ですね。
次こそアドニスさん登場、させる予定です。
では、また次回。




