番外編・一 未だ秘された全ての始まり
暴力表現あり。
酷く、退屈だった。
氷の結晶に封じられた体が動くことはなく、通常の牢の何倍も厳重に守られたここを訪れる人間などいるはずもない。少し前まで軟禁していた賢者とその連れの少女のことを考えるのにも、そろそろ飽きてきてしまった。話し相手の一人でもつけてくれればよかったものを。それかいっそ意識まで封じてくれれば良かったのだ。アネモスの王族は人が良いと聞いていたが、……いや、これはどちらかというと賢者の復讐だろうか。
「……お母様に比べれば、遥かに良いのでしょうけれど」
思考以外の全てを奪われたこの状況で、そこに考えが至るのはごく自然なことだった。
物心ついたとき、母――今は亡きウィクトリア王妃は鎖に繋がれて、暗い地下牢に幽閉されていた。記憶に残る彼女の姿は総じて一国の王妃とは思えないほど傷だらけで、惨めなもの。いつも何かに怯えていた彼女は、けれど幼い私にだけは優しく穏やかだった。
そんな母が叔父と出会い、別れ、死してなお幽閉され続けた理由。
「そうね……暇潰しには、なるかしら」
アネモスの人間には知らないと答えたが、何も知らないわけではない。どうせ時間は気の遠くなるほどたくさんあるのだ、幼い頃の記憶を手繰り寄せるのも、たまにはいいだろう。
忘れたと思っていた母の姿は、けれどすんなり浮かんできた。
◆◇◆
「……ほう、神子か」
「ひっ」
それは、本当に突然のことだった。鋭い切っ先と共に向けられた言葉に、思わず息を呑んで声の主を見上げる。わたしより少なくとも十歳は年上だろう、黒髪に血のような深紅の瞳の、整った顔立ちの男。口元は楽しそうに歪められているものの、その目に宿る光はとても冷たく、恐怖すら覚えた。恐らく体格の差も関係しているのだろう、わたしはただでさえ小柄だというのに、目の前の男はどう見ても百九十センチ近くある。こっちが地面にへたり込んでいるのに対し向こうは立っているという……まさに蛇に睨まれた蛙、いや気分的にはもうライオンに睨まれたハムスターだった。
……おかしい。わたしはついさっきまで、学校に行こうと一人で通い慣れた通学路を歩いていたはずだったのに、どうしてこんな見知らぬ森の中で、初対面の男性に剣を突きつけられているのだろうか。
「便利なものだな、選ばれた血筋とは。だが、流石に神泉無しでは判別は難しいか」
「っ……あ、や、やだ」
腕を掴まれ、強く引っ張られる。走った激痛にわたしは思わず声を上げ、身をよじって逃れようとした。そんなわたしを見て彼は不快そうに眉を顰め、手を放す。
安堵の息を吐いた瞬間、突然耳元で大きなばしんという音が響いた。勢いよく地面に叩きつけられ、数拍遅れて、叩かれたのだと気付く。じんわり熱と痛みを訴えてくる頬もそのままに呆然と見上げると、男は僅かに唇を歪めた。
「あまり手間をかけさせるな、女」
わたしの前に膝をつくと、彼は私を抱き締めるように抑えると、背に何かを描く。くすぐったいようなその感覚から逃げる勇気も無く、硬直するわたしの耳元で、男は聴き慣れない言葉を囁いた。途端、一気に体から力が抜ける。
「……え?」
「こちらの方が運びやすい、か。騒ぐなよ」
その言葉に、混乱のあまり漏れかけていた悲鳴や鳴き声を慌てて押し殺す。黙って泣き出したわたしを冷たい目で一瞥すると、男はまるで荷物でも抱えるかのように持ち上げてきた。体が浮くようなその感覚に、思わず足をばたつかせる。嫌だ、怖い。
「やっ、なに、どこ、にっ」
「黙れと言っている」
低い声で呟くと、彼は片腕で私の両足を抑え込んだ。……痛い。だけどそれを訴えたらもっと痛い目に遭うような気がして、代わりにぼろぼろと涙を零す。男がわたしを抱えたまま歩き始めたことで、恐怖は一気に膨れ上がった。
だって、初対面の女の子、それも中学生に剣を突きつけて、いきなり全力で引っ叩くような男だ。どこに連れて行かれるかも分からないけれど、わたしにとって良いことであるはずがない。そもそも、ここが日本である確証すらないのだ。わたしを抱えているこの男は黒髪ではあったが、その顔立ちを見ると日本人とは思えなかった。来ている服も、日本では間違いなく見られない、まるで映画やお芝居の中のような。
どれくらい歩いただろうか。恐らく三十分も経っていないけれど、わたしにとっては永い永い、地獄のような時間。唐突に、男はその足を止めた。無理やり体を捻ると、彼の前には小さな、けれどとても澄んだ泉がある。周りには、荘厳な装飾。
……ま、さか。
胸をよぎるその嫌な予感を、振り払う暇もない。ふわりと体が宙を舞ったかと思うと、次の瞬間、どぼんとくぐもった音が耳元で響いた。その衝撃に、反射的に息を吸い込もうとする。しかし小さく開けた口から勢いよく入ってきたのは、空気ではなく水だった。
必死で浮こうとしても、全く力の入らない手足では水を掻くことも出来やしない。悲鳴の代わりにごぼごぼと空気が漏れて、瞬く間に意識は遠のいた。もう駄目かな、と諦めかけた途端、視界が白い光に包まれる。続いて、ぐいと引っ張られるように体が浮いた。水から飛び出したその勢いのまま、思いっきり地面に叩きつけられる。
「っ、かは」
一瞬、息が止まった。そのまま咳き込み始めた私に、頭上から冷たい声が降る。
「神に感謝するのだな。『闇』であればこのまま泉の底に沈めて立ち去っていたところだ」
「ぅ、……っは、あ、っく」
男は屈みこむと、私の顎を掴むように持ち上げ、無理やり顔を上げさせる。涙目で見上げたわたしに、彼は唐突に口付けしてきた。
「……っ!」
思わず息を呑むが、嫌というほど植えつけられてしまった恐怖が、彼を突き飛ばすというその行為を拒んだ。黙って身を振るわれていると、彼はやがて体を離す。おぞましいほどに綺麗な嘲笑を浮かべて、男は言い放った。
「ウィクトリア帝国へようこそ、神子よ」
「………………み、こ?」
そうだ、確か彼はさっきも同じようなことを言っていた。けれど、その言葉の意味を訊ね返す暇もない。張り詰めていた精神がそこで限界を迎えたのか、まるでスイッチが切れたように、ふっと意識が闇に沈んだ。
◆◇◆
ふっ、と視界が明るくなる。これは夢だ、と思った。
「どうかしたのか、ちぃ? 朝からぼーっとして。まだ眠い? 夜更かしでもしたのか? いくら夏だからって――」
「へ、平気っ! ちゃんと早く寝たもんっ! あと季節は関係ないと思う!」
いつも通りの兄の言葉に、慌てて首を振る。彼はまだ不審そうに首を傾げているものの、それ以上追及はしてこなかった。手元を見れば食べかけの朝食があって……そうだ、これが夢だなんて、そんなことあるはずがないじゃないか。何でそんな馬鹿なこと考えたんだろう、お兄ちゃんの言う通りまだ寝惚けてるのかな。
時計を見ればもうすぐ家を出る時間で、慌てて食事を再開するわたしに、兄は呆れたように言い放った。
「よく噛んで食べないと大きくなれないぞ」
「ふぁ、ふぁんへるもん」
「口の中に物入れたまま喋っちゃいけません」
食べながら、いつものように兄と言葉を交わす。三つ年上の兄は県内でも有数の進学校に通っていて、当然ながら頭も良い。学年でもそれなりに上の方らしく、同じ学校を志望しているわたしもよく分からないところを教わっていた。……それなりに顔も良いのに学校じゃ全くモテないというのだから、世界は残酷だ。
「あっそうだ、お前今日帰り早いの?」
「ふへ? 普通だけど、何で?」
唐突な問いに首を傾げると、兄は何かを含んだような目でわたしを見る。
「ほら、修学旅行の実行委員の話したじゃん」
「くじ引きしたらお兄ちゃんと加波先輩が引き当てちゃった話?」
「そーそー。明日までに提出のプリントあってさ、今日うちで終わらせようって」
「えっ?」
思わずがたん、と立ち上がる。頬が紅潮しているのは自分でも分かったけれど、そんなことはどうでも良かった。
「加波先輩来るの?」
「来るってさー。……別に初めてじゃないだろ、あいつがうち来るの」
「違うけど! でもー! 何で早く教えてくれないのお兄ちゃんの馬鹿!」
「昨日メールで決めたのにどうやって教えるのさ。今教えてやったんだから感謝しろよ」
呆れ顔の兄に、物凄い勢いで頷く。
「する! ありがとうお兄ちゃん大好き! ねえわたし帰ってきたら飲み物とか出すからね待っててよ?」
「それは別に良いけど……どれくらい好き?」
「加波先輩の次くらい!」
「……あっそ、分かりやすくて大変結構」
不機嫌そうな表情で呟く兄に、わたしは苦笑した。
◆◇◆
「……っく……ひっく」
少しでも身動きすれば、足の間がじくじくと痛む。牢屋に閉じ込められている、というまるで悪夢のような状況は、今でもとても信じられなかった。けれど残酷なことにこの痛みは現実なのだ。男がいなくなったことすら、もっと悪いことが怒る前触れにしか思えない。
目覚めたわたしに対して彼が最初にしたことは、泣き出したわたしを無理やり犯すことだった。……中学生にもなれば、そういうことも少しは知っている。もちろん逃げようとしたけれど、やめてと叫んでも、痛いと喚いても、男が勢いを緩めることは無かった。こっちを労わることはまるでなく、その冷たい表情も動かさずに淡々と。
お前はもう女なのか、と訊かれた。生理のことを言っているのは分かったけれど、あまりの痛みに答えるどころではなくて沈黙を返した。そうしたら、彼は――
「っう、ぅ、うううう」
その時のことを思い出せば、涸れたと思った涙はまた溢れてきた。後ろ手に縛られ、全裸で床に転がされた姿はきっと、他人が見れば酷く滑稽に映ることだろう。いや、もしかしたら男性は、そんな状況にも興奮するのかもしれない。一度、兄の部屋でそういう本を見たことがあるから。
「……お兄、ちゃん」
ああ、でも、兄はわたしにはとても優しかった。物静かで目立たないけれど、それでもわたしにとっては自慢のお兄ちゃんなのだ。……彼は、どうしているだろうか。きゅうにわたしがいなくなって、きっと心配してる。
「助けて……帰りたい、よぉ。……お父さん、お母さん」
「それは出来ない相談だな」
「っ!」
響いた声に、わたしはびくりと肩を震わせた。何とか視線だけを上に動かすと、最早見慣れてしまった冷たい笑みが映る。
「っあ、ぅ」
「ほう、思ったより丈夫なのだな。純潔を奪われた程度で壊れなかったことは褒めてやろう」
それではつまらぬからな、と呟きながら、男は牢の中に入ってきた。その手に握られた、細い鉄の棒。男が持っているのと逆の先端は厚く広がっていて、……例えるなら、少し持つ部分の長いスタンプだろうか。
「そ、れは……」
わたしの問いには答えず、彼はもう片方の手で棒に何かを描くような仕草をした。同時に何事かを呟くと、棒の先が突然勢いよく炎を上げる。
「っ」
「お前にはこの国の王妃になってもらう」
「……おう、ひ?」
手品、というよりはまるで魔法のような現象。驚くわたしに、男はそんな言葉を放ってきた。
「ああ、『病弱で、滅多に民の前に姿を見せない』王妃だ。そのためにも、お前が私に逆らうと色々と厄介なのでな。……私のものだとその身に刻み付ければ、脱走も叶いはしまい」
そろそろか、という呟きと共に、燃え盛っていた炎が消える。後に残った棒は真っ赤に焼けて光っていて――瞬間、理解した。彼が、何をするつもりなのか。何のために、この棒を持ってきたのか。
「あ……や、やだ、やめ……」
「どうでもいいところまで火傷したくなければ、動くなよ」
力が入らないことも忘れ、必死に体を捻って逃れようとする。けれどそれもむなしく、男は片手でわたしの前髪を掴み、そのまま抑えつけてきた。剥き出しになった額に、ゆらゆらと揺らめく熱気がゆっくりと近づいてきて、そして――
「っ、……ひ、ぎゃあああああああああああああああああああ!」
何かが強く押し付けられるような感覚は、一瞬にして熱さを伴う激痛へと変わる。痛い痛い痛い、熱い、嫌だ、怖い怖い怖い怖い、助けて、誰か、お願いだから――
……そこで、記憶は途切れた。
こんばんは、高良です。久しぶりにストックある状態復活です気持ちいね!
というわけで番外編開始。王弟編、と銘打っていますがアドニスさん出ていないね!
封印されたウィクトリアの王女、カタリナの暇潰しに辿られる記憶。青年と少女の出会い。ちなみにこれ、本編より二十年以上前の出来事です。じわじわと本編の時系列に近づいて行きますので、しばらくは見守っていてくださいませ。
では、また次回。




