第二十四話 薄紅の約束
「起きたら怒るわよ」
目を開いた瞬間、ここがどこか認識するよりも先に、少女の声が降ってきた。僕は苦笑交じりに起き上がると、ゆっくりと部屋を見回す。リザは寝台から少し離れたところで、壁にもたれかかって、手の中にある何かを見ているようだった。
彼女は僕に気付くと呆れ顔で歩いてきて、寝台の横に置かれた椅子に座る。それを目で追っていると、ぽすっ、と軽く叩かれた。
「怒るって言ったでしょ」
「リザが言ったのは、起きて動き回ったら、ってことだろう? これくらいだったら許してくれると思ったんだけど」
「……本音を言えば、起き上がるのも止めた方が良いと思うんだけど。それ以上動かないなら特別ね」
再び嘆息するリザに微笑を返し、さっきから気になっていたことを訊ねる。
「目が覚めたの、よく分かったね? こっちを見てもいなかったのに」
「予想は出来てたもの。何となく、そろそろ起きるかなって」
「よく当たる直感だね……」
「ジル限定でね」
思わず呟くと、リザはようやく笑みを零した。……ああ、やっぱり安心する。この笑顔が、決して裏切らないと伝えてくる。
「それで、僕はどれくらい眠っていたの?」
「丸一日。流石にあたしには運べなかったけど、城にかかってた魔法が解けたからアネモスに転移してきて、あとは暇そうな騎士捕まえて頼んだの」
それはそうだろう、むしろリザに運ばれるなんて状況は、出来れば勘弁願いたい。
「そう……状況は?」
「あの時、ちょうど同じ頃に国王も捕まえたらしくて。一応戦争はアネモスの勝ちで終わったことになってるわ。今は後始末っていうか、ぶっちゃけ残党狩りね。頭おかしい奴ばっかりだから手間取ってるみたいだけど、まぁジルさえこっちに戻ってくれば、賢者のいなくなったウィクトリアに負けるほどアネモスは弱くないわ。それはジルだって知ってるわね」
「それは……まあ」
曖昧に頷き、僕はそっと目を伏せた。……ああ、そうか。僕は、アネモスに戻ってきたのだ。いや、戻ってきてしまった、の方が正しいかもしれない。それは、つまり――
「大丈夫って言ったでしょ、ジル」
僕の考えていることを悟ったのだろう。リザが呆れたような笑みを浮かべる。それでも、リザを信じると決めた今でも、恐怖は拭いきれなかった。
「でも……」
「あんたが戻ってきたときは、みんなほっとしたみたいに笑ってたわよ」
「それは、……そうかも、しれないけど」
だけど、その上に立つ人たちは。僕が迷惑をかけてしまったであろう人たちは、僕が親しかったあの人たちはどうか、分からないのに。僕を責めさせないと、そうリザは言ったけれど、それでもやはり恐ろしかった。
「……実はね、今日一日だけでジルに会わせてくれって何度頼まれたか分からないわ。あんたに親しい奴は大体みんな来たはずね。追い払ったけど」
「どうやって?」
「これでも治癒魔法の使い手よ、あたし」
訊ね返すと、少女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。そっと自らの胸に手を当てて、少しだけ誇らしげに彼女は答えた。
「ドクターストップかかったのに強行突破する人間なんて、滅多にいないでしょ? つまりそういうことよ。ジルが落ち着くまでは会わせられない、ってあたしが言ったら、内心はどうあれ逆らえないわけ。ねえジル、あたしだって何もしないで数か月過ごしてたわけじゃないのよ?」
「……そう、みたいだね」
「誰に会って誰に会わないかは、あんたに任せるわ。相談にも乗るけど、最後に決めるのはジルよ。ジルが必要以上に苦しむのはもう見たくないけど、悩むなとは言えないもの。考えるのは、大事なことだから」
「うん」
リザの言葉に、僕はそっと頷き、そのまま黙り込む。……迷いも躊躇いも、まだ残っていた。けれど今伝えなければ、恐らくずっと変わらないままだろう。それは嫌だ。応えたい。ようやく崩れたあの壁が、再び僕を覆うその前に。
「ジル?」
「頼みがあるんだ、リザ。……いや、頼みとは違うかな。僕のことを好きだと、君はそう言ったね」
「ええ」
頷くリザに少しだけ微笑み、僕はゆっくりと目を逸らした。もう慣れてしまった狭い視界で、窓の外を見る。城下街とは反対方向に向いたこの部屋では灯りが見えることも無く、ただ外は昏く染まっていた。それをぼんやりと眺めたまま、呟く。
「僕は咲月が好きなんだと、そう思い込みたかったんだ。大事に想っていたのは事実だよ。あの子は大切な友人で、幼馴染で、家族同然に想っていた。けど、……それは決して、恋でも愛でもなかったんだ」
大好きだ、愛している、そう言われたことはたくさんあった。色々な人から、数えきれないほどに言われた。けれど、僕にはどうしてもその感情が分からなかったのだ。分からないと認めるのは恐ろしくて、自分が異端だと周囲に露呈してしまうのが恐ろしくて――すぐ傍に咲月がいることに、気付いてしまった。
「あの子の存在はね、とても都合が良かったんだよ。小さい頃からずっと一緒の幼馴染に恋をしました、よくある話だろ? だから、家族愛に近い感情とほんの少しの依存を無理やり愛だと思おうとして、僕はあの子を異性として好きなんだと自分に言い聞かせて……いつかそれが真実になることを、願ったんだ」
そうして自分の首を絞めた。あの頃には、それがどう足掻いても叶わない夢であることも察していたのに。
それでも、そうやって歪んだ想いを愛だと思い込んで苦しんでいる間は、自分が普通であるような、そんな幻想に浸っていられたから。
「だから、だろうね。クレア様を見たときに、あの暗く濁った執着が、僕が愛だと思いたかったものが蘇って、また僕を縛り付けようとした。……愛じゃないから、性質が悪いんだ」
いくらもがいても、断ち切れないから。
「……そう、思っていたんだけどね」
「え?」
悪戯っぽく微笑むと、リザは驚いたように目を見開いた。そんな彼女に向き直って、僕は微笑んだまま続ける。
「僕だって変わりたいんだよ、リザ。君が愛してくれるなら、僕だっていつか君を愛したい。あの歪んだ感情じゃなくて、本当の愛を、君に返したいんだ。……だから、待っていてほしい」
この想いを捨てて、本当の意味でリザを愛せるその日まで。リザの言葉に今頷いてしまうことは簡単だけど、それではいけないことくらい、僕もよく分かっている。
僕はリザの手を持ち上げると、その甲にそっと口付けた。
「今は、……これで」
呆然とそれを見ていたリザに微笑むと、彼女はどこか苦笑にも似た笑みを浮かべる。
「やっと、ね」
「リザ?」
「何でもないわよ。やっとここまで来たな、って思って。良いわ、何年だって待ってあげる。今までだって、そうしてきたもの。……そうだ、これ」
リザは不意に思い出したように何かを取り出すと、僕の手に乗せた。見るとそれは薄紅色の小さな石で、編んだ紐に包まれて首にかけられるようになっている。……リザの色だ、と一目で分かった。彼女の髪は燃えるような紅色だけれど、その魔力はまさにこんな、リザらしい優しい色をしていたはずだ。
「これは……」
「証、っていうか……御守、かしら。ジルが今の言葉を忘れないようにね。お察しの通りあたしの魔力だから、傷が治るのがちょっと早くなったりもするかも」
「忘れないよ」
苦笑しつつ、石をそっと握りしめる。……魔力をほんの少しだけ体外に出して、物質として世界に定着させる、そんな方法で作られた石。確かに、御守と呼ぶには相応しいかもしれない。
「……ありがとう、リザ」
ぽつりと呟くと、彼女は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。しかしそれはすぐに笑みに代わり、ぽんと腕を軽く叩かれる。
「とりあえず、今はゆっくり休みなさい。一歩間違えれば死ぬところだったのよ? 魔力は尽きかけてるし、毒だって完全に抜けるには時間かかるし、それについてはあたし、これでも怒ってるんだから」
「……うん、ごめん」
「そういう顔が出来るようになったなら、今回だけは許してあげるわ」
満足気なリザの笑顔に、僕は苦笑を返す。こういう会話が辛かったのは僕が自分を疎かにしていたからで、それなのに心配されているという事実に罪悪感さえ抱いていたから。そうと分かった今では、止めようと決めた今は、今までのように胸が痛むことは無かった。
その時、不意に部屋の扉が開いた。思わず硬直する僕とは逆に、リザは驚いた様子も無く、呆れたような目を向ける。
「珍しく空気を読んだことについては評価してあげるけど、あんたはノックって行為を覚えるべきだわ」
「……しなきゃ、いけないときは、するけど」
悪びれた様子も見せず、彼――キースはほんの僅かに首を傾げた。最後に見たときとまるで変わらないぼんやりしたような無表情が、僕と目が合うと少しだけ緩む。
「ジル、……平気?」
「……うん。久しぶりだね、キース。君がここにいるとは思わなかった」
彼が住むのはここから離れた智の国グリモワールで、魔眼師という仕事だってあるはず。来よう、と思ってすぐに来られる距離ではないだろう。
「呼ばれた、から。義肢、作ってくれ、って」
「義肢?」
「うん」
それ以上言葉を続けることはせず、キースは軽く頷くと、こっちに歩いてきて、椅子を寝台の傍に引き寄せた。リザから少し離れたところに座ると、彼は僕を見て口を開く。
「色々……ジルに会えないから、伝えてほしい、って。リザが、締め出したから」
「あんただって同じことするでしょうに」
「……否定は、しないけど」
リザの言葉に肩を竦めると、キースは考え込むように一瞬だけ、宙に視線をやった。
「戦争が、終わったのは……リザから聴いたと思う、けど。その後のこと。向こうの国王とか、王女とか、上にいた人間は大体捕まって……今は、魔法とか、使えないようになってる。治癒魔法以外の魔法使いは、殆どそれに集中してる、みたいだけど」
「そうだろうね」
彼らも戦いでいくらかは消耗しているだろうけれど、それでもあの王女とその父親だ。普通の魔法使いが抑え込もうとすれば、数十人がかりで魔法を使う必要があるだろう。
「それと、誰だっけ……リザに、手紙、寄越した人。王弟……」
「アドニス様?」
「多分、そう」
僕の言葉に頷くと、彼は僅かに目を細めた。
「その人が……ウィクトリアの王城の、地下の部屋で死んでた、って」
「……え?」
予想外の一言に、思わず目を見開く。それはリザも同じで、驚く僕らにキースは表情一つ変えずに続けた。
「殺された、とかじゃなくて……自殺だ、って。白骨化した女の人を抱き締めてた、って、聴いた」
「……そうか、だから」
そういうことか、と息を吐く。だから似ていると、同じだと、そう感じたのか。だから彼はあんな、諦めきった目を。僕と違って彼の希望は、僕と出会うずっと前に、人が骨になってしまうくらいの遠い昔に、尽きていたのだ。
「何か知ってるの、ジル?」
「何も。キース、その女の人については、何か分かったの?」
リザの問いにそっと首を振り、訊ねる。分かるはずがないと思っていたけれど、意外なことに彼は躊躇い気味に頷いた。
「うん。……調べても、何も分からなかったし、誰かも分からないまま、だったけど。王女が、色々話したから」
「待ちなさい。あんたあいつと会ったの?」
キースの言葉に被せるように、リザが険しい表情を浮かべる。彼は再び頷くと、そっと首を傾げた。
「さっき、会って……ちょっとだけ、話してきた。話は、通じたよ。処刑が決まった、って教えても、落ち着いてた」
「……ぶっ壊れてる同士、気でも合うんじゃないの」
「王女にも、言われた」
まるで気にしていないような顔でリザの言葉を受け流すと、キースは続ける。
「それで、ここからは、王女に聞いた話。骨は、多分王女の母親のだ、って」
「……随分前に亡くなったウィクトリア王妃、だね」
ウィクトリア帝国がまだ小さな国だった、僕が子供の頃の話だ。それなら確かに辻褄が合うけれど、ならばどうしてアドニス様が。
「王弟は……王女の話だと、王妃の愛人だった、らしくて」
「そういうことか……だったら彼が権力を失ったのは、国王にそのことを知られてしまったから、だろうね」
それで全て納得した。彼がウィクトリアを裏切ろうとしたのは、彼自身の我侭だ。アネモスのためでも、彼の側についた人間のためでもなく、あの騒ぎに乗じて王妃の後を追う、そのためだけに国王への反逆を仕組んだのだろう。……僕には、責めることは出来ない。そのおかげでアネモスが勝利したことも、事実だ。
「他に聴いたことは?」
「それだけ。それ以上は、王女も知らない、みたい。……あ、あと、伝言。王女の処刑のとき、ジルの魔力が回復してたら、いた方が良い、って。理由は、知らないけど」
「……罠じゃないの」
「この後に及んでそんな……いや、あの人ならあり得るかな」
キースの言葉に、リザを二人、顔を見合わせる。魔力が回復していたら、というその条件も気になった。まさか、まだ何かを起こす気なのか。いや、でもキースの話を聴いている限り、そうとも思えない。
「言われたのは、それだけ。……そんなことより」
キースは一旦休むように息を吐くと、そっと包帯越しに僕の右目に触れた。僅かに薄紫の目を細め、彼は呟く。
「取られたの、こっちで良かった。多分、今治すって言っても、ジルは嫌がるだろうけど。……怖がる、の方が、正しい?」
「……そう、だね。ごめん、キース」
蘇るのは元の広い視界ではなく、目を抉り取られた時の、あの耐え難い激痛。永遠に、とは言わないけれど、すぐに忘れることは出来そうにない。
「ジルが臆病なのは、知ってるから。……じゃ、目は、しばらく保留」
珍しく微笑むキースに、僕は苦笑した。ああ、彼のことも、どうして信じようとしなかったのか。加波慎の最初の理解者を、彼が僕を気にかけてくれる言葉を、心のどこかで疑ったまま、信じようとしないまま、諦めてしまっていた。
「それであんた、どっちが本題だったのよ」
「こっち」
呆れ気味に訊ねたリザに、キースは即答する。彼らしい答えに苦笑すると、僕はずっと気になっていたことを訊ねた。
「二人とも、喧嘩しなくなったね」
グリモワールで会ったときも、ここまで穏やかに話してはいなかったはず。二人は同時に硬直すると、形容し難い表情で嘆息する。
「……そうね、色々あったから」
「うん。喧嘩、してる暇……なかった」
「何でそこで悔しそうな顔すんのよあんたは」
懐かしいやりとりを始める二人に、僕は再び苦笑した。あんな事件の後だというのに、不意に安心感に近い感覚が訪れる。……ああ、ようやく気づいた。僕は決して、孤独ではなかった。前世からずっと、彼らがいたのだ。その事実に、僕はやっと、本当の意味で気づいた。
こんばんは、高良です。……すーべーりーこーみー。サボり癖を早いところ矯正します頑張ります。
さて、アネモスに戻ってきた二人。ジルもここからようやく、進むことを決意しました。
そんな彼らに意外な知らせをもたらしたホモ、じゃなかったキース。王弟の死の真相は番外編で、王女の言葉の意味は次かその次の話で明かされます。多分。
さておき、そろそろ影の薄かった彼らにも出てきてもらわなければいけませんね……?
さて、それではまた次回。




