第二十三話 強がり
「思ったよりも平気そうですわね、ジル?」
「……ええ、まあ」
夢で慣れていますからね、などと言えるはずもない。そんなことより心配なのは、蹲り俯いたまま動かないリザだった。数か月前、初めてウィクトリアに来たあの時も、同じような状況だったのだから。……ああ、今思えばあれも、カタリナの策略だったのだろう。
リザを背に庇いつつ、僕は微笑を浮かべて王女を見る。
「精神干渉がお好きなのは知っていましたが、記憶にまで干渉出来るとは思いませんでしたよ」
「あら、流石ジルね。これだけで気付くとは思いませんでしたわ。安心なさい、この魔法、私自身が記憶を読めるわけではありませんの。ただ引き出して、そして見せて差し上げるだけですわ。貴方がたにとって一番辛い、痛みを伴う記憶を」
道理で、と僕は苦笑する。精神的にも肉体的にも辛い記憶、それは確かに効果的なのだろう。たとえ目の前にトラウマが映し出されても動じないような強い心の持ち主であっても、その時覚えた痛みも共に感じれば、隙が出来ないはずがない。
「……本当、悪趣味な魔法ばっか使うわね」
けれどそれは、普通なら、の話。背後から聞こえた声に振り返れば、リザが頭を抑えたまま、不快そうに顔を顰めて王女を見据えていた。その顔に、数か月前に見たような、怯えるような表情は微塵もない。
「平気? リザ」
「平気。……いくら慣れてても、あの痛みで無反応貫くのはちょっと厳しいわ」
僕の問いにリザは肩を竦め、立ち上がる。そんな僕たちの目の前で、カタリナは訝しげに首を傾げた。
「驚いた。そこまで平然としていられるなんて、随分と軽い人生ですのね?」
「逆よ、逆。重すぎて反復しちゃったせいで別に特別な光景でもなかった、ってだけ。一番辛い記憶、じゃなくて良かったわ。痛みなら、耐えられるもの」
ジルが傍にいればね、と彼女は迷いなく言い切る。……彼女にとっての一番辛い記憶というのは、間違いなく僕が死んだときのことだろう。彼女の様子を見ただけで壮絶だったことが分かる死の瞬間よりも辛いなんて、そんなこと、今でも信じられないけれど。
「あら、やはり子供ね。どうして痛みを伴わなければいけないのか、分かりませんの?」
嘲笑を隠そうともしない王女に、僕は眉を顰めた。
「まだ分からないのならもう一度、ですわね」
笑顔のまま紡がれる言葉。一拍遅れて、その意味を理解する。リザに警告する暇もなく、王女の手はまた魔法陣を描いた。呪文と共に放たれた黒い光は、今度は吸い込まれるようにリザだけをめがけて飛んでくる。僕が庇おうとするより先、リザが押し殺すような短い呻き声を上げて再び蹲った。
「リザっ」
「っ、く……平、気」
青ざめた顔で呟き、再び立ち上がろうとするリザに、また黒い光が当たる。今度は耐え切れなかったのか、短い悲鳴を上げて頽れる彼女を見て、カタリナは楽しそうに声を上げた。
「あはっ、痛い? 痛いでしょうねぇ! そうやって大人しくしていれば、まだ可愛げもありますのに!」
「……だ、れが」
リザは呻くように王女を睨み返すものの、その声に力はない。そんな彼女に、そして僕に、カタリナは満足げに微笑む。……この国に来てから何度も見た、毒蛇のような、毒蜘蛛のような、絡みついて離さない笑顔。反射的に覚えた恐怖は、けれど必死に抑えつけた。……リザの前で、もうこれ以上、そんな弱いところは見せられない。少なくとも、今は。
「これだけやればお分かりかしら? ねえ、どんなに辛いものでも、記憶だけなら繰り返せばいずれ慣れてしまうものでしょう? けれど痛みは違いますわ。何度繰り返しても、同じ痛みを与えられる。貴女の頭がおかしくならない限り、ね。……もっともその様子だと、もう既に少しおかしいようですけれど」
「うるさいわね、……あんたよりマシだわ」
不機嫌そうに吐き捨てると、リザは縋るように僕の手を掴む。その手を引いて彼女を立ち上がらせると、僕は囁くように少女に問いかけた。
「大丈夫?」
「平気。それよりね、ジル」
まだかなり顔色が悪いものの、それでもリザは僅かに笑みを浮かべ、そっと僕を見上げる。……これでも、一応前世からの付き合いなのだ。その物言いたげな瞳を見れば、彼女が何を言いたいのか、何をしたいのかは伝わってきた。
けれど、それに賛成するかどうかはまた別の話。
「いいの?」
「平気だって言ってるでしょ? こっちは生まれたときから毎晩この痛みを味わってるのよ、今更数回増えたところでどうってことないわ」
「それは……そうだけど」
だけど眠っている間に見るのと目覚めている間に味わうのとでは、違うだろう。さっき僕も一度あの痛みを受けて、嫌というほど感じたのだから。躊躇う僕に、リザは少しだけ笑みの種類を変える。
「それにね、そう何十回も味わわなきゃいけないわけでもないと思うわよ」
「え?」
「――内緒話はそろそろおしまいにしていただけません? つまらないわ」
それはどういう、と問おうとした僕を遮るように、カタリナの声が響いた。ゆっくりと彼女を見上げ、僕は静かに嘆息する。まだ僅かに力の入っていないリザの手をそっと握り返して、僕は彼女に囁いた。
「本当に、大丈夫なんだね?」
「さっきからそう言ってるでしょ。大体、この状況で大丈夫じゃないのはあんたの方だわ」
「それもそうか」
言われてみれば、と苦笑する。僕がやろうとしていることに気付いたのか、それとも普段の言動のせいか、どこか心配そうに見上げてくる彼女を安心させるように、微笑を返した。
「大丈夫。無理も無茶も、もうしないから。……自分の限界は、よく知っているよ」
「……嘘、吐いたら殴るわよ」
不安そうな表情は消えない。けれど彼女はゆっくりと手を離すと、その手で優しく僕の背を押した。信じたと、信じていると、その手の温もりが伝えてくる。今まで重荷でしかなかったその感情が、初めてどこか心地良かった。
だから……すぐに変わることは、出来なくても。せめて今だけは、迷わない。
「少し、賭けをしましょうか。カタリナ」
「賭け、ですの?」
魔法陣を描きながら、彼女に視線を向ける。続きは察しているのだろう、彼女もゆっくりと手を動かしながら、不機嫌そうに訊ね返してきた。
「ええ。押し負けた時点で負けが決まる、……単純な賭けです」
「死にかけの賢者に、私が負けるとでも?」
勝利を確信したような笑顔を浮かべる王女に、にこりと無言で微笑み返す。
呪文を唱えたのは、殆ど同時だった。
◆◇◆
「っ……」
魔法同士がぶつかった、その余波に思わずあたしは顔を顰める。普通の魔法使いなら、恐らくここまでじゃないだろう。だけどジルは風の国の賢者と呼ばれ畏れられるほどの魔力の持ち主で、王女も恐らく同じくらいの実力者だ。あたしどころか、むしろこの部屋が原型を保っているのが不思議なほどだった。恐らくどちらかの魔法があと少しでもずれれば、漏れた魔法が部屋を壊してしまうだろう。それくらい危うい、ギリギリのところで保たれた均衡。それを崩してしまうのが怖くて、思わず息を呑んで眺める。
だけど、何故かジルの表情は穏やかで、微笑んですらいた。
「死にかけだと、誰が言いましたか?」
「……っ」
驚いたことに、押され気味なのは王女の方。険しい表情で手に力を込める彼女に一瞬だけ視線をやり、しかしあたしはすぐにまたジルを見た。
「ジル、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、リザ。嘘は吐かない」
その声すらも怖いほどに落ち着いていて、けれどどこか辛そうな色が見える。痛みに耐えているような、そんな見慣れた表情。……でも、どうして。その理由は、すぐに分かった。
「何故……何故そんな魔法が使えるの? 魔力が尽きかけているのは見れば分かるのに、命と引き換えにでもするつもりかしら!」
「いいえ、まさか。貴女を誘き出すために僕が何をしたのか、気付かなかったわけではないでしょう? カタリナ。今貴女の周りに漂う魔力が、誰のものであるか……リザを苛めるのに忙しくて、そんなことは忘れてしまいましたか? 貴女らしいとは言えませんね」
「ジル、もしかして――」
「……そう。そういうことですの」
ジルの言葉に、王女は表情を消したまま、その目だけをすっと細めた。放たれる雰囲気はまるで氷のように冷たくて、僅かに恐怖すら覚える。その瞳に灯るのは、最早狂気の光だけだった。
ジルが言っているのはあたしが来る前の、魔力を部屋中に放出していたときのことだろう。無理やり止めさせはしたけど、それでも今、この部屋はジルの魔力で満ちているのだ。彼の中には殆ど無くても、周りにあればそれを使うことは出来ると、そう言いたいのだろう。
「だけどジル、それは貴方の首をも絞めているのではないかしら?」
王女の問いに頷く代わり、あたしもジルを見上げた。……治癒以外の魔法は殆ど使えないあたしだって知っている、魔法を使う人間が知らないわけがない事実。魔力が尽きることの危険性と共に、必ず知らなければならないこと。そうやって一度体外に出した魔法を再び取り込んで使うのは、確か物凄く苦痛を伴う行為だったはずだ。そんなあたしの不安を肯定するように、ジルは微笑んだまま頷いた。
「ええ、とても痛いですよ。……いや、噂では体中に針が刺されているようだと聴いたけれど、それほどではないかな」
「随分と強がりますのね?」
言葉と共に、王女の放つ魔法が僅かに威力を増す。ジルはにこりと微笑むと、視線だけをアタシの方に向けた。
「リザ、もうすぐだ。準備して」
「え? ……あ、そうね」
部屋の外、遠くの方から近づいてくる気配。それに気付き、あたしはこっそりと、王女に見つからないように魔法陣を描き出す。やがて、ばたばたという足音に気付いたのだろう、王女が眉を顰めた。
「騒がしいですわね。何が、――っ!」
「気づきましたか?」
ジルの言葉に応えるように、扉の向こうに現れる人影。それをキッと睨み付け、王女は憎々しげに吐き捨てる。
「叔父様の……そう、そういうことですの。だから私をここに……ええ、それで下は貴方たちが優勢になることでしょうね。けれど、私までどうにか出来るとお思いかしら?」
「…………隙、見っけ」
負け惜しみを繰り返す彼女の意識が、ほんの一瞬、あたしから逸れた。あたしは僅かに笑みを浮かべると、魔法陣を投げるように王女にぶつける。
治癒魔法を少し応用しただけの、簡単な魔法。自分の痛みを相手に流し込む、ただそれだけ。けれどあたしがやれば、それは物凄く威力のある攻撃と化す。それはそうだろう、あんな痛み、こっちの世界で過ごしていでもそうそう味わえるものじゃない。……それに、ほら。嗜虐心が強い人間って、大体痛みに弱いものでしょ?
「っぐ……あああああああああああああああああああ!」
「予想以上の効き目だね……」
王女が叫び声を上げ、魔法を打ち切って蹲る。自分も魔法を消し、呆れたように苦笑すると、ジルもまたその場に倒れ込んだ。
慌てて駆け寄るとどうやら意識を失っただけらしく、その事実にほっとしつつ隣に座り込む。視界の端ではなだれ込んできたアネモスの騎士たちが、そして王弟側の人間らしき兵士たちが王女を捕らえているところだったが、まぁあたしたちがするべきことはちゃんとしたのだから、これくらいは良いだろう。どうせあたし一人じゃジルは運べないんだし、ある程度落ち着いたら誰か来るはず。
「無理も無茶もしないんじゃなかったの、まったく」
叱るように呟いたところで、答えは無い。……無くても良い。彼の隣にいられる、そんな数カ月ぶりの小さな幸せ。
アネモスが落ち着いて、また旅を始めたら、話したいことがたくさんある。本当の愛を、その感情は決して貴方を苦しめるばかりじゃないのだと、きっと伝えるから。もう、前世のような後悔はしないから。
そっと握った手を、握り返してくるような感触が、確かに伝わってきた。
こんばんは、高良です。……更新戻すよ! とか言った矢先にまた五日空いてしまってすみません。熱出して倒れてました。実を言うとまだ咳が、……何でもありません。
さて、ちょっと主人公らしさを見せたジル。最近某所でヒロイン説が浮上していますが、一応主人公なのですやるときはやります。一応ね! と思ったらリザに全部持って行かれた感。読んでくださった方にはこれで大体伝わることでしょう。
ある意味一番の強敵である王女は撃破しましたので、ウィクトリアでの戦いはこれで終結。次回から舞台はアネモスに戻ります。……ええ、まだ色々と、残っていましたものね?
では、また次回。




