第二十二話 対峙
「歩ける?」
リザがそう訊ねてきたのは、僕がある程度落ち着いてからのことだった。対し、僕は苦笑混じりに首を振る。
「いや。正直、こうして座っているのもかなり辛いかな」
「でしょうね。毒が入ってたのは食事? ジルにそれが分からなかったわけないでしょ、知ってて食べたのね」
「……うん」
さっきのやり取りの後では、正直に理由を言えるはずもない。それでも僕が目を逸らしたことで大体は察してしまったのか、リザは呆れたように嘆息した。
「そんなことだろうと思ったわ」
呟くと、リザは僕の耳元でそっと何事かを囁く。……いや、これは、歌? たった一言だったが、ふっと体が軽くなったのが分かった。まるで、たった今まで体を蝕んでいた毒が全て取り除かれたような、数カ月ぶりの感覚。
「……その力、使って良かったの?」
彼女に手を引かれ、立ち上がりながら訊ねる。
リザが母親から受け継いだという、歌守の力。リザ自身は純粋な歌守ではないものの、アネモスで身に着けた知識や魔法と合わせればそれと同等以上の力を使える、と聴いたのは随分前のことだった。歌守という種族自体が珍しいから、嫌でも注目を集めてしまうから出来るだけ隠していたいのだと、そう言っていたはずなのに。
僕の言葉にリザは苦笑し、軽く頷く。
「もう後悔したくない、って言ったはずよ。使えるものは何だって使うわ。あたしも流石にあそこまで目立つとは思ってなかったけど」
「その言い方だと、今初めて使ったわけじゃなさそうだね」
「アネモスの人間には知れ渡ってるわ。……ジルなら分かってると思うけど、今の、解毒したわけじゃないわよ。ちょっと一時的に打ち消しただけだから無理は禁物だし、アネモスに帰ったら絶対安静」
「…………帰、れるのかな」
思わず俯き、そっと呟く。……だって僕が犯した罪は、アネモスに対してしてしまった色々なことは、決して消えないだろうに。味方だったはずのたくさんの人の命を奪ってしまった、その罪は。リザはそれも含めて許してくれたけれど、他の人たちは、彼らは、きっと。
「帰れるわ」
しかしそんな僕の言葉に、リザは普段通りの強気な笑みを浮かべ、頷いた。
「あいつら、あんたのこと恨みもしてなければ怒ってもいないもの。リオ様とかシリルとか、そういうジルと親しかった人間だけじゃなくて、少なくともあの城で過ごす人間は全員ね。多分、本当はもっといるはずよ。ジルがそうせざるを得なかったことも、そうしなければアネモスの犠牲者はもっと増えていたことも、みんな知ってる。むしろ、帰らない方が恨まれるわ」
「でも……」
「もしそうじゃなかったとしてもねジル、あたしがさっき言ったこと、もう忘れたの? これだけアネモスに尽くしたあんたを、よりによってアネモスが責めるだなんて、そんなことあたしがさせない。だから、大丈夫よ」
そんなことが、果たして出来るのだろうか。それだけの地位を、彼女は得たのだろうか。それでもリザが浮かべた微笑はとても懐かしくて、そっと笑みを返す。
「魔法が破られたから駆けつけてみれば……随分楽しそうですわね?」
部屋の入り口から声が聞こえたのは、そのときだった。
「……カタリナ……」
「出たわね」
考えてみれば、当たり前だろう。元はと言えば僕は、彼女をおびき寄せようとしていたのだから。それでも思わず目を見開いた僕とは対照的に、リザは強気な笑みを浮かべたまま、その目をそっと細めた。
「久しぶりね、会いたかったわ」
「あら、前に会ったときはジルの後ろで怯えていたおちびさんが、随分と強がりますのね?」
「誰がちびよ、このキチガイ」
薄い笑みと共に紡がれた言葉に、リザは笑みを引き攣らせる。しかしその答えを聞くと、カタリナもまた不快そうに目を細め、僕に視線を移した。
「約束を破るつもりですの? ジル。アネモスやこの娘がどうなってもよろしいのかしら」
「……貴女こそ。あまり悪足掻きを続けるのは、みっともないと思いますよ」
「あら、少し鼠が忍び込んだ程度で、私たちが動じるとお思い? 駆除するだけですわ」
彼女の言葉に、まだ王弟殿下は目的を果たしていないことを悟る。まだウィクトリアの『異端者』たちは脱獄してはおらず、ゆえに彼女もまだ、アネモスの騎士が数人忍び込んだだけだと思っているのだろう。殿下が目的を達成するまで、そしてその隙をついてアネモスの援軍が突入してくるまで、僕たちはここでカタリナを引きとめておく必要があった。
「そっちじゃないわよ、今の状況分かってる? 二体一よ」
「そうね、何故か毒の効果は消えているみたいですけれど……魔力が尽きかけた魔法使いと子供一人、合わせたところで何になるのかしら」
リザの言葉に王女はにっこりと微笑み、そっと何事かを呟いた。同時に描かれた魔法陣が、瞬時に光を放つ。
「っ!」
咄嗟にリザの腕を引き、抱きかかえるように地面に蹲る。殆ど同時に、頭上を何かが物凄い勢いで通り過ぎたのが分かった。恐る恐る振り返ると、すぐ後ろの壁が黒く、まるで腐敗したように崩れる。リザが目を見開き、どこか信じられないように呟いた。
「嘘、でしょ……」
「本当ですわ。ふふっ、世間知らずのお子様は、こんな魔法は見たことがないかしら?」
「自作の魔法に世間知らずも何も関係ないでしょ、大体世間知らずはあんたの方だわっ!」
噛みつくように叫ぶと、リザは投げつけるように簡単な魔法陣を描く。唱えられた呪文と同時に、魔法陣から王女に向けて炎が走った。しかしそれは彼女の目の前で霧散し、カタリナはどこか嘲笑うように僕たちを見る。
「イグニスの魔法ね? けれどそんな子供でも使えるような魔法で、一体何をするつもりだったんですの? ……いえ、子供ですものね。それしか使えなかったのかしら」
「……さっきから、子供子供って」
王女の言葉に、リザは拳を握りしめ、キッと顔を上げてカタリナを睨みつけた。気持ちは、分からなくもない。僕も似たような経験があるから分かる。中身だけを見れば、リザは僕と同い年で、僕もリザもカタリナよりずっと年上なのだ。その彼女に……それも敵対している相手に馬鹿にされるのは、精神的にくるものがあるのだろう。
「あんただって偉そうなこと言えた立場じゃないはずよ、趣味悪い魔法はさっきので打ち止め? 簡単にかわされるような魔法なら、ただの魔力の無駄遣いじゃない!」
「……あら、手加減して差し上げましたのに」
不意に、王女がそっと目を細める。その瞳に灯る、怪しい光。……背筋に走った寒気は、この数カ月で何度も感じたものだった。
「ジル?」
思わず彼女の腕を引くと、彼女は訝しげに僕を見上げる。それと同時に、部屋の外からばたばたと、複数の足音が聴こえた。魔力を辿ればそれはアネモスにいた頃に何度か顔を合わせた騎士たちのもので、僕は思わず凍りつく。反対に、王女はにこりと、絡みつくような笑みを浮かべた。
「ちょうど良いわ。まずは向こうからに致しましょうか」
来てはいけない、と叫ぶ暇もない。開け放たれた扉から姿を見せた騎士たちに、王女は間髪入れず魔法を放つ。魔法陣から走った黒い光が彼らに到達するや否や、彼らは一人残らず悲鳴を上げ、頭を押さえて蹲った。
「うわああああああああ!」
「な、やめ、やめろ、……っぐああああ!」
「……何よ、これ」
「知りたいかしら? 大丈夫、すぐに教えて差し上げますわ」
呆然と呟いたリザに、王女は微笑む。……僕もまた思わず動きを止めていたのが、一番の失敗だろう。再び紡がれた魔法は、彼女の狙った通りに僕たちに飛んでくる。
「っ……!」
光に触れた瞬間、息を呑んだのは果たしてどちらだったか。
――加波慎が感じていた孤独。抑え込んでいた痛み。信じていた全てを守るため、持っていた全てを捨てて、濁流に身を投じたあの時の記憶。かつての僕が生きた十七年の中で、一番辛くて、けれどどこか安堵してしまった、何度も夢で見た死の光景が、目の前に広がった。水の中でわけも分からないまま感じたたくさんの激痛も、そのままに。視界の端、何とか頭を抑えふらつくだけで済んだ僕の隣で、リザが倒れるように蹲ったのが辛うじて分かる。
……王女が好む精神干渉の一つだと、理解するまでに時間はかからなかった。
こんばんは、高良です。昨日は演劇の大会疲れで帰宅後すぐに泥のように眠っておりまして、更新できなくてすみません。
さて、当初の目的通り、カタリナをおびき出すことに成功したジル。しかしそのためにほとんどの魔力を使ってしまった今、彼に王女を撃退する術はなく、リザのあの話の後では自分を犠牲にすることも出来ません。
そんな彼らに容赦なく放たれた魔法。ジルですらこれですから、もっと心配なのは……
演劇部の方がそろそろ引退ですので、次かその次辺りからじわじわ三日置き更新に戻していきたいな、と思います。遅くとも第四部からは確実に。
それでは、また次回。




