第十四話 光差し、道を照らす
「……慎に対する、冒涜」
扉を見つめ、呆然と呟く私を見て、視界の端でシリルと真澄が顔を見合わせる。心配そうな真澄とは対照的に、シリルは私たちに向かって呆れ顔で言い放った。
「まぁ……色々と、ショックなのは分からなくもないけど、とにかくここを出ようか。話は終わったんだろ? あまり長く使ってると父上に怒られるし、僕もそろそろ戻らないと」
「ああ、悪いシリル。ありがとな」
「無理を言ってきたのは君じゃなくてクレアだけどね」
嘆息交じりに肩を竦めるシリルに、私はゆっくりと視線を向ける。少しして、シリルはそんな私に気づき、首を傾げた。
「クレア? どうかした?」
「……シリルは、どっちだと思ってる?」
私は『咲月』なのか、『クレア』なのか。その意味は一瞬で伝わり、シリルは不快そうに、僅かに眉を顰めた。……ああ、やっぱり違うんだ。慎とシリルはどこか似ていると、そう思っていたけど、三人でいるとまるでかつてのあの日々のようで、とても懐かしかったけど、だけど慎はこんな顔はしなかった。私はそんな当たり前のことにすら見て見ぬふりで、ずっと前世の面影だけを追いかけていた。……だから彼女は、怒ったのだろうか。
「前にも言ったはずだよ、クレア。僕にとってクレアはクレアだし、ハルはハルだ。僕は君たちの言う『前世』のことなんて、何も知らない」
「……うん。そうだね、聞いた」
予想通りのシリルの答えに、けれど私は俯き、肩を落とす。そんな私を見て少しだけ表情を和らげ、けれど彼がかけてきたのは厳しい言葉だった。
「リザさんが言っているのは、そういうことなんじゃないかな。前世で君たちが生きていたのは、ここよりずっと平和な世界だったって聞いたよ。前世の記憶に拘りすぎて、クレアとして……王女として護られて暮らしていられる今の居場所を無くしてしまったら、この世界で生きていくのは 難しいと思う」
「珍しいな、お前がそういう考え方するなんて」
驚いたように呟く真澄に、シリルは苦笑する。
「うん、あまり好きじゃないからね。だけど、君たちは――ハルもだよ。君たちは、知らなきゃいけないんだ。ここはもう、かつての君たちが生きていた、少しの我侭なら許されるような優しい世界じゃない。我慢しなきゃいけないことはたくさんあるし、助けたくない人を助けたり、救いたい人を救えなかったり、そういうことも受け入れなきゃいけない。それが、護られる側の人間の、上に立つ人間の義務だ。王族として、しなければいけないことだ」
とても十五歳の少年とは思えない表情と口調で、彼はきっぱりとそう言い放った。……前世で中三だった頃を思い出す。あの頃は真澄と喧嘩ばかりで、毎日のように慎に迷惑をかけていたっけ。きっと慎がいなければ、真澄と両想いになることなんて絶対に無かった。それなのに私は慎に何も出来ないまま死なせてしまって……そしてまた、彼を苦しめているのか。
じわりと滲む涙に気づいたのか、真澄が慌てるように私を見る。けれどシリルは、その涙の原因が自分の言葉ではないことも気付いているのだろう、再び苦笑を浮かべた。
「今のは多分、リザさんが言っていることとは関係ないんだけどね。クレアが迷ってるのは分かっているけど、それでも誰かが言わなきゃいけないことだったから」
肩を竦め、シリルは唐突に立ち上がる。そのまますたすたと扉の方まで歩いていくと、彼は笑顔でこっちを振り返った。
「僕も忙しいんだって言っただろ? ここ、落ち着くまで使ってて良いよ。僕は多分部屋にいるから、終わったら来て」
「良いのか? 陛下に怒られるって、さっき言ってただろ」
「うん、つまり父上にさえ知られなければ平気だから。それじゃ、また後でね」
真澄の言葉に軽く頷き、シリルは部屋を出ていく。真澄はそんな彼を少しだけ目で追うと、俯いたままの私に心配そうな視線を向けてきた。
「あー……大丈夫か、咲月?」
「……私、ね」
答えの代わりに、ぽつりと呟く。ぼろぼろと落ちる涙も、震える声もそのままで。
「最初は……慎に謝れればそれだけでいいって、そう思ってたの。でも慎や柚希と再会して、もっと、って。四人とも覚えているなら、また昔みたいに、って……」
「俺たちにとっては、死んだのなんて昨日のことみたいだもんな」
私の言葉に、真澄は僅かに苦笑を浮かべ、空を仰いだ。その顔が、不意に真剣なものになる。
「あいつ、言ってたよな。自分が死んだことを毎晩思い知らされる、って。……リオネルさんに聞いたか、シリルに聞いたかは忘れたんだけどさ。あいつらは毎晩、前世の夢を見るらしい」
「……前世の夢?」
「ああ。俺たちと過ごしてた頃だけじゃなくて、死ぬその瞬間まで、毎晩繰り返すって言ってた。又聞きだから、どこまで本当かは知らないけどな。それでも、何つーか……」
「前世は前世、って、言ってたね」
途切れた真澄の言葉に、被せるように呟く。……知らなかった、なんて、言い訳にもならない。知ろうとしなかったのは、私たちだ。何も聞かずにただ浮かれて、二人もまた私たちと同じだと信じ込んでいたのは私なのだ。
「一度終わったものが続くはず、ない……前世の続き、なんかじゃないのね」
二人にとっては、今世は今世なのだ。リザの言葉の意味が、ずしりとのしかかってくる。
「前世は前世、なのは俺も何となく分かってたな。……記憶を取り戻す前の、咲月じゃないクレアをずっと見てれば、な」
「……何それ。何も知らなかったの、私だけなんじゃない。どうして言わなかったの?」
「お前がそんなんだったからだろ。迷いもせずに咲月として振る舞ったりするから」
「それは責任転嫁!」
少しだけいつもの調子に戻って、叫ぶ。
――ねえ、いい加減、気付いたでしょう?
心の奥で囁くのは、『クレア』の声。……記憶を取り戻してからずっと、聴こえないふりをしていた声。
「向き合わなきゃ、いけないんだね」
きっと、すぐには出来ない。だって今の私にとってはまだ、真澄は真澄で、柚希は柚希で、慎は慎なのだ。すぐに変えることは、私には出来ない。
だけど、向き合って、受け入れて、そうして変えていかなきゃいけないのだ。それが出来ないなら二度と姿を見せるなと柚希は言ったけど、本当にその通り。だけどもう二度と会わないなんて、それは哀しすぎるから。
だからクレアとしての『わたし』を認めて、今世を生きる覚悟をして、リザとしてのあの子と、また――
「……とりあえずお前、アネモスが今割と笑えない状況なの自覚しとけって」
「あー真澄の馬鹿、折角思い出さないようにしてたのに!」
呆れ気味のそんな言葉に、私は大げさに耳を塞いでみせた。だ、だって怖いものは怖いじゃない戦争とか!
◆◇◆
予想通り少し眠っただけで体調は良くなり、夜になると頭痛は跡形もなく去っていた。
「……中途半端に寝るんじゃなかったわ」
代わりに、眠れないという別の症状を残して行ったが。
倒れる前の、クレアとの口論も関係しているのだろう。こっそり部屋を抜け出したあたしは、特に目的もなく人気の少なくなった城の中をうろついていた。人気が少ないとはいえ、全くいないわけではない。要人の部屋の前には護衛の騎士が立っているし、時折見回りの騎士ともすれ違った。散歩か何かだろう、あたしのようにふらふらと歩いている人間も、ごく少数だがいないわけではない。
「リザ様? どうしたんですか、こんな夜中に」
「……マリルーシャ?」
背後から聴こえた声に振り返ると、見慣れた女性が小走りで追いついてきた。その身に纏うのは侍女の服ではなく、この城に来る前、トゥルヌミール家の別邸で着ていたようなシンプルなドレスで、それにあたしは思わず苦笑した。
「その格好自体は見慣れても、この城で見るとちょっと驚くわね」
「まぁ、リザ様までそんなことを言うのですか? ここに来て知り合いに会うたびに同じことを言われるのですもの、流石に聞き飽きてしまいましたわ」
「それは悪かったわね。で、マリルーシャこそどうしたのよこんな夜中に。一昨日くらいから城にいることは知ってたけど」
リオ様が忙しくて屋敷に戻れないから、と呼び寄せたらしい。随分と仲のよろしいことで。
「まずはリザ様ですわ。倒れたと聞きましたけれど、寝ていなくて大丈夫ですの?」
「平気よ、疲れただけだったから。ちょっと寝たらすっかり元通り。というか、変に寝ちゃったせいで寝られなくて」
「それで夜の城を散歩ですか」
納得したように微笑むマリルーシャを見上げ、あたしは僅かに眉を顰める。
「マリルーシャこそ、休んだ方が良いんじゃないの? 顔色悪いわよ」
「え?」
アタシの言葉に、マリルーシャは驚いたように目を丸くすると、ゆっくりとその手を頬に当てた。
「分からないと、思っていたのですけれど……流石リザ様ですわね。実は、少し前から貧血気味で、疲れやすくて。治癒の塔に行くほどでもないと思うのですけれど、念のため厨房で体の温まるものを頂いてこようかと」
それを聴いて、あたしは再び眉を顰めた。……だってその症状って、あれじゃないの? マリルーシャは気付いてないみたいだけど。いや、いくらアネモスが医療に長けた国でも、治癒魔法の使い手でもない一般人がそういう知識を得るのは難しいのだろうか。
「今から貰ってくるところ、ってわけね」
「ええ。……リザ様? どうかなさいましたか?」
自分が凝視されていることに気づいたのか、マリルーシャが戸惑うように首を傾げる。構わず薄っすらと魔力を纏った状態で彼女を、特にお腹の辺りを見つめ、あたしは少しして嘆息した。
「……駄目ね、分からないわ。そっちは専門外」
首を横に振り、訝しげな表情のままのマリルーシャを笑顔で見る。
「ねえマリルーシャ、治癒の塔のアルマって知ってる?」
「治癒魔法使いの一人の、ですか? 話したことは何度かありますけれど、そこまで親しくはありませんわ。王女付きの侍女と治癒魔法使いなんて、主が病気にでもかからない限りあまり関わらないでしょう」
言われてみれば、とあたしは頷く。
「それもそうね。じゃ、明日辺り訊ねてみなさい。リオ様にも言っておくから、一緒に。いいわね、絶対二人で行くのよ? あたしに言われた、って伝えればアルマには分かるはずだから。それと今日はもう部屋に帰って寝ること」
「……分かりました」
反論されるかとも思ったのだが、マリルーシャは少しだけ考え込むと、すぐに微笑んで頷いた。
「随分あっさりね」
「ええ、リザ様の言うことなら信用出来ますもの。では、お礼と言っては何ですが、一つだけ」
どこか悪戯っぽい笑顔で、彼女はぴんと人差し指を立てる。そのまま少しだけ屈んであたしの瞳を覗き込むと、その笑顔は優しげなものに変わった。
「リザ様はお優しいですから、クレア様に仰ったこと、心のどこかで気にしているかもしれませんけれど。その必要は、ないのですよ? リザ様が正しいと思ったことをすれば良いのですわ。貴女は、貴女のやりたいように。それがいずれクレア様やハーロルト様のためにもなると信じたから、リザ様はそうしたのでしょう?」
「……何で、知ってるのよ」
倒れかけたことすら、口止めしまくったから親しい人間しか知らないだろうに。あの部屋で交わした会話まで知っているのは、あたしと――
「シリル様に聞いたのですわ。リザ様が休んでいらっしゃるときに、偶然遭遇しまして」
「遭遇、って」
仮にも一国の王子に対して凄い言い様である。……いやまぁ、あたしも人のことは言えないか。
呆れ顔のあたしに、マリルーシャは再び優しく微笑んだ。
「リザ様はこの頃無理をしすぎですわ。ジルが心配な気持ちは痛いほどよく分かりますもの、無理をするなとは言いません。ですが、あまり一人で抱え込まないでくださいね?」
「……分かってるわ」
そっと嘆息すると、あたしは彼女を見上げる。そうだ、前にも言われたはずなのに。あたしは一人じゃない、そんな簡単なことも、すぐに忘れてしまう。……どんなに強がっても、ジルがいないだけで、こんなにも。
「マリルーシャ。その……ありがとう」
「まあ」
僅かに顔を赤くして告げるあたしに、彼女は目を丸くすると、嬉しそうに笑った。それに少しだけ微笑を返して、あたしは普段通りの表情に戻る。
「ほら、部屋に戻れって言ったでしょ? 何なら送ってくわよ」
「いいえ、大丈夫ですわ。こちらこそありがとうございます。リザ様。おやすみなさい」
「ええ」
歩いていく彼女を見送り、あたしはそっと息を吐いた。……マリルーシャに紹介したアルマという女性は、妊娠やら出産やら、そういう系統の知識や魔法における第一人者だ。あたしはそっちの知識は無いから断言は出来なかったけど、多分『そう』なのだろう。
「あー……懐かしいわ」
柚希だった頃、慎の妹が生まれた時のことを思い出して苦笑する。気付けば、さっきまで抱えていたもやもやと渦巻く感情は消えていた。
クレアに偉そうなことを言っておきながら、あたしだってまだどこかで、前世に縛られている。そんなこと、とっくに気づいていた。前世は前世、そう自分に言い聞かせても、きっと本当に心からそう思える日が来るのはずっと先のことだろう。
それでも、あたしはリザだ。確かに今のクレアやハーロルトはあたしを見やしないけど、マリルーシャやリオ様やシリルが、この城で知り合った人たちが見ているのは、リザとしてのあたしだ。きっと、ジルも。そうあたしが信じられるなら、それで十分なのだ。やっと、分かった。
そっと窓に歩み寄り、開け放つ。遠くを見れば城下街が広がっているが、すぐ真下からしばらくは湖が続いている。それを見下ろすと、あたしはそっと首にかけていたペンダントを外した。
「……縋っていたのも、一緒ね」
掌に乗せたそれに、思わず苦笑を零す。前世で、咲月と出会ったきっかけ。慎がくれた、かつての柚希が一歩踏み出したきっかけ。何かに取り憑かれた様に、思い出に似せたこのペンダントを作ったのは、もう随分前のことだ。
だけどきっと、もうこれに縋る必要は無い。この世界に、たくさん見つけたから――だから、もう大丈夫。こんなところで立ち止まっている暇はないのだ。あたしはあたしの出来ることをして、ジルを助けて――今度こそ、伝えたいことがたくさんあるのだから。慎ではなく、ジルに。
思いっきり腕を振りかぶり、窓の外に向かってペンダントを投げる。綺麗に放物線を描いで飛んで行ったそれは、遥か遠く、ギリギリ視界に入るかどうかのところで湖に落ちた。音は聞こえなかったが、僅かに跳ねた水飛沫でそれを知る。
「さて……流石にそろそろ寝ないと、色々とまずいかしら。また倒れたら、今度こそ怒られそうだわ」
窓を閉め、部屋に向かって廊下を歩き出す。
……いい加減に、前に進もう。過去を忘れるんじゃなく、過去と向き合って。この程度のことじゃ揺るがなかった前世のことを、少しだけ思い出して。
こんばんは、高良です。夏休みもあと一日、課題に追われながら執筆してたらこっちも危ないところでした。
ようやくリザが抱えていた色々な思いを知った二人。けれど彼らだってかつての慎の幼馴染です。やればできる子なのです。
一方、倒れたとはいえ大事には至らなかったリザ。ハルとクレアに放った言葉は、彼女にもしっかり返ってきていました。そんなリザを元気づけるのは、事情を知る数少ない人物の一人。彼女は彼女で、少々変化があったようです。
事態は良い方向に転がり出している? いいえ、忘れてはいけません。まだまだ問題はたくさんありましたよね……?
では、また次回。




