第八話 微笑むのは神か否か
そろそろ、秋の二の月に入っただろうか。僕がこの国に来てから一ヶ月……窓が無いから外の様子などは全く分からないけれど、日数は確実にそれくらい経っている。そこで考えるのを止めて、僕はそっと嘆息した。考えたところで、出られるわけではないのだから。
体が重いのは、食事に紛れた弱い毒のせいか。死に至るようなものでもなく、量も少なかったが、毎食それが入っていれば体内で蓄積する。そのことを知っていて、毒が食事に入っていることを見抜けても、拒むことは出来なかった。逆らえばきっとウィクトリアの王は、そして王女は、躊躇うことなく――それどころか、喜んで僕の大事な人たちを傷つけるのだろう。僕一人が耐えれば、それは避けられる。彼らが約束を守る保証なんてどこにも無かったけれど、それに縋るしかなかった。
「……僕一人が耐えれば、か」
懐かしいその言葉に、僕は苦い笑みを浮かべる。かつて、何度も何度も唱えて、痛みと共にこの心に刻み込んだ言葉。結果的に加波慎を殺したのはこの言葉なのだろう。それでも、今更捨てるわけにもいかなかった。かつての僕が死んでまで守ってきたものを壊してしまうのは、そうして自分自身すら否定するのは、とても恐ろしいことだったから。
――頭が、割れるように痛かった。本当に、この国の人間は人の心を折るのが上手い。死なない程度の毒、それは肉体的にも精神的にも僕を追い詰めて、捕らえて、決して離そうとしないのだ。寝台から起き上がる気力すら湧かず、ぼんやりと額に手の甲を当てる。
「あら、随分と遅いお目覚めですわね? 体調でも悪いのかしら」
「……いいえ」
唐突に響いた声に、僕はゆっくりと視線を向け、力なく微笑んだ。
「おはようございます、カタリナ」
「おはようジル。起き上がることは出来ますの?」
「……命じられれば、断ることは出来ませんが」
「では命令よ」
どこか歪んだ笑みと共に放たれた言葉に、僕は僅かに苦笑を浮かべ、半ば無理やりに体を起こす。王女は満足げに笑うと、不意に僕に抱き着き、唇を重ねてきた。……まるで、蛇のようだ。無表情でその口付けを受け入れながら、絡みついて離れない腕に、そして怪しい光を灯す瞳孔に、そんなことを思う。
やがて満足したのか体を離すと、王女は楽しそうな笑みを浮かべた。
「そうそう、ちょっと一緒に来てくださらない? ジルにしてほしいことがあるのですわ」
「ええ、もちろん」
賭けてもいい、彼女がさせたがっていることというのは、絶対に僕にとって良いことでは無いだろう。それでも、断るのを許してくれるわけがない。それを嫌というほど知っていたから、僕はにこりと微笑んだ。
王女について部屋を出る。一人のときは決して僕を出そうとしない扉は、けれど今は何事もなく僕を通した。当然だろう、この部屋にかけられている魔法のほとんどは、目の前を歩いている王女がかけたものなのだから。実際、部屋から出ても僕を縛る魔法は途切れず、余程こちらが無理をして魔法を使わない限り彼女の傍から離れることは出来ないようになっている。
……本当の心を殺して、偽りの微笑を浮かべて、王女の望み通り彼女の恋人として振る舞うことで、僕は仮初の自由を手に入れた。そうすることは半ば強制された形ではあったけれど、彼女の恋人としてなら、彼女と共にならば、あの部屋を出て城の中を歩き回ることも許された。とはいえ、毒の溜まったこの体で歩き回るのは日に日に辛くなるばかりで、部屋を出たところでアネモスを裏切るようなことを強いられるばかり。それが良いことかどうかは、判別しがたいけれど。
王女が立ち止まったのは、地下牢の入り口近く、幾重にも鎖で留められ、更に厳重に魔法のかけられた鉄製の扉の前だった。彼女が手慣れた動作で魔法を解くと、同時に鎖がどさりと地に落ちる。
「……カタリナ? 一体何を」
「入れば分かりますわ。さあ」
僕の言葉を遮り、彼女は扉を押し開けた。先に入れ、とばかりに促されて、僕は恐る恐る部屋に足を踏み入れる。
「け、賢者様!」
「っ」
思わず体を強張らせた。響いた声には、確かに聴き覚えがあった。膝をついた状態で拘束され、驚きに目を見開いた、傷だらけの男性。身に纏った服もところどころが破れていたけれど、胸元に刺繍されたアネモスの紋章ははっきりと分かる。
アネモスの城にいた頃に何度か出会い、言葉を交わした、騎士の一人だった。彼はショックを受けた様子で僕を見て、震えながら口を開く。
「そんな……では、噂は事実だったのですか。賢者様がアネモスを裏切り、ウィクトリアの側についたと……」
「それは」
違う、と言いかけたところで王女が目を細めるのが見えて、僕は慌てて口を噤んだ。僕の心は関係ない。どんなに否定したくても、僕がアネモスを裏切った、その事実は決して変わりはしないのだ。
そんな僕を見て、王女は満足げに微笑み、壁際に立てかけられた剣を取る。それをそっと僕の手に握らせると、彼女は耳元で楽しげに囁いてきた。
「これは罪人ですわ。国境近くで起こった争いで、何百人もの兵を切り殺した……私たちにとっては、憎むべき大罪人です」
「なっ……貴様がそれを!」
怒りに顔を歪める騎士の言葉など、耳には届いていないのだろう。優雅な笑みと共に、彼女は僕に告げる。
「殺しなさい、ジル」
「…………え?」
呆然と目を見開くと、王女は「あら、聴こえませんでしたか」とわざとらしく首を傾げた。
「殺せと言ったのですわ。ウィクトリアにとって、その騎士は罪人です。彼以外の騎士は逃げてしまいましたから、その分残酷な刑に処して差し上げようかと思っていたのですけれど……同じ国の出身でしょう? 貴方がその手で彼を楽にしてやりたいというのなら、それで勘弁して差し上げますわ」
その意味を理解して、握らされた剣が、急に重みを増す。どくどくと、急に早まった鼓動の音が響いた。
ふらつく足で一歩踏み出すと、騎士がびくっと肩を震わせ、見開いた目に怯えを浮かべて僕を見る。
「賢者様! そんな、お願いです、どうか! 嘘でしょう、貴方が、よりによって貴方がアネモスを裏切るだなんて!」
その言葉に僕は思わず足を止め、顔を歪めた。間髪を入れず、背後から鋭い声が飛んでくる。
「その騎士が嫌なら、王子や王女にしましょうか? いえ、それともあの紅髪の少女が良いかしら。すぐにでも連れて来られますわよ」
「っ!」
……本気だ。そう感じとって、僕は目を見開いた。僕が拒めば、彼女は本気でシリル様やクレア様を、そしてリザをここに連れてきて、同じ言葉を繰り返すのだろう。リザが無事に逃げ切れたかどうかすら、僕には分からないのだ。彼女の言う『すぐ』とはどういうことなのか、それすらも。
覚悟を決め、剣を握る手に少しだけ力を込めて、僕は顔を上げる。数歩歩き、騎士の目の前で足を止まると、絶望に満ちた表情の彼と目が合った。血の味が滲むほどに唇を噛み締め、剣を構えると、彼は憎々しげに僕を睨み、吐き捨てる。
「殺すなら殺せ、裏切り者の賢者め。お前などを信じた我々が愚かだった」
「ひっ」
……嫌だ、怖い。嫌われるのは怖い、必要とされないのは怖い。だからずっと耐えて、耐え続けて、誰にでも優しくして、誰にでも笑顔を向けて、そうして『良い子』で振る舞おうとしてきたのに、慎だった頃からずっとそうしようとしてきたのに、どうして。
向けられたのは、最も恐れていた視線だった。
「あ、あ……あああああああああ!」
それを振り払うように、両手で剣を握りしめて、勢いよく彼に切りつける。どさっという重い音、そして頬に飛んできた生暖かい何かに、僕ははっと我に返った。
「上出来ですわ、ジル。……これでもう、戻れないわね?」
弾むような王女の声。それを振り払うように、僕は耳を塞いで地面に蹲った。血だまりの中に倒れて動かない騎士が視界に入って、慌ててきつく目を瞑る。
本当に、ごめんなさい。貴方を犠牲にしてしまって、全てを守りきることが出来なくて。それだけの強さすら無くて、本当に――
がたがたと震える体を、必死で抑えつける。やはりというべきか、こんなときでも涙は流れず……ただ、さっきから頭にあった割れるような痛みだけが、その存在感を増していた。
◆◇◆
「そうですか……ジルが」
確かに彼のやりそうなことですが、と呟く母上に縋るように、僕は続けた。
「父上はきっと、先生を救いたくても何も出来ないのだと思うんです。私情なんて捨てて、国にとっての最善をなさなければいけないのが、王というものだから……でも母上、そんなこと、先生を見捨てるなんて、僕には」
「……とりあえず落ち着いてくださいね、シリル」
「あっ」
慌てて言葉を止め、僕は母上を見つめる。
「すみません母上、体に障りましたか」
「いいえ、平気ですよ。ですがそう焦っては、見えるものも見えなくなるでしょう」
「……はい」
少しだけ肩を落とし、僕は素直に頷いた。それを見て、母は優しく微笑む。
先生がアネモスにいた頃、母上……アネモス王妃は何かと彼を気にかけていた。その理由について、城の人間たちの間では色々と憶測が飛び交っていたけれど、先生曰く僕やクレアの様子を聴きたかっただけらしい。病弱な母の体に負担をかけるわけにはいかないから、と僕とクレアはなかなか会わせてもらえなかったけれど、その反動だろうか。先生がアネモスを去って以来は耐え切れなくなったのか父上や周りの人間を説得してくれて、以前に比べて頻繁に会えるようになった。
「クレアが何やら不機嫌そうでしたが、何かあったのですか?」
「……リザさんと、色々あったみたいで。前世のこととか、そういう事情は僕には分かりませんけど」
「ああ、なるほど。喧嘩中ですか」
「母上、そんな単純な問題じゃ」
「冗談です」
おかしそうに微笑み、母上はふと首を傾げる。
「リザさん、というのは、ジルと共に旅をしているというあの子ですか。一度会ってみたいけれど、流石に厳しいでしょうね……」
……いや、どうだろう。確かに、家族である僕たちですら簡単には会えない母上に、この国の人間ですら無い彼女が会えるとは思えない。けれど、今のリザさんは治癒の塔に所属していて、それもかなり信頼を集める治癒魔法の使い手だ。もしかしたら。
答えることはせず、僕は嘆息した。それに気づき、母が心配そうに僕を見る。
「シリル? どうかしたのですか」
「……母上は、どう思いますか? 父上が正しいのは、分かっているんです。けど、だからって恩師を見捨てることは、僕には……僕に、先生が救えるでしょうか」
「貴方は一人ではないのでしょう、シリル」
「でも」
笑みを崩さない母を見上げ、僕は僅かに顔を歪める。……弱音を吐けるのなんて、母が相手のときくらいだった。昔はそれが先生だけだったけれど、今は違うのだ。先生がアネモスを離れていられるように、それでも大丈夫だと思えるように、僕が頑張ると誓ったから。
僕の表情に気づいたのか、母が苦笑する。その白く細い手が、そっと僕の頬に触れた。
「ウィクトリアの行いを、神が許されるはずがありませんよ。心から祈れば、叶えてくださります。だから、大丈夫ですよ」
「……母上らしいです」
神国クローウィン……神に愛された国。母上の故郷を思い出して、僕は思わず苦笑を浮かべる。アネモスで生まれ育った僕は、母上ほど信心深くは無い。けれど、母の手の温もりは、確かに僕を勇気づけてくれた。
こんばんは、高良です。〆切ラッシュ継続中です。
前半はウィクトリアにて。相変わらず精神的にじわじわやられているジル。慎であったときのように、どころかそれ以上に自己犠牲の塊のような彼に、王女カタリナは次々と酷なことを迫ります。
後半は初登場のアネモス王妃。彼女の故郷クローウィンについては、詳しくは第四部~第五部で語らせて頂きますので、今は名前だけ覚えておいてくださいませ。
次こそ! ちゃんと! 更新を!
では、また次回。




