第十四話 失われた居場所
ベッドの上に横たわり、僕はぼんやりと天井を眺める。シリル様が他の二人を連れて部屋を出て行ってからずっと……貧血気味で僅かに朦朧とした意識の中に、もやもやと渦巻く何かがあった。
クレア様が咲月だった頃の記憶を取り戻した、というハーロルト様の言葉が、事実であると……当たってほしくなかった予想が見事に当たってしまったのだと、ついさっき思い知ったばかりだった。彼女は、僕を『慎』と呼んだのだから。
薄れてきたはずの、幼い頃からの想い。加波慎が抱いていた、ある感情。それが蘇ってくるから、僕は慎ではなく、ジルでいなければいけなかったのに。そうでなければ狂いかねないほどに自分が弱いことは、よく知っているのに。
その時、不意に響いたノックの音で、僕は現実に引き戻された。
「どうぞ」
反射的に答えると、僅かに間を置いて扉が開く。そこから現れたのは、どこか気まずそうな表情を浮かべた紅髪の少女だった。
「リザ?」
「え、っと」
ベッドの上に起き上がり、僕は思わず目を丸くする。彼女は戸惑うように眉を顰め、結局黙って僕の傍まで歩いてきた。そしてリザは黙って片手を持ち上げ、そっと僕の頬に触れる。
「後悔はしてないし、正しいのはあたしだと思うけど。……悪かったとは、思ってるわ」
「え? ああ……さっきの」
そういえば叩かれたんだっけ、と苦笑。クレア様の……咲月のことがショックで、その前に起きた出来事は意識の片隅に追いやっていた自分に。もう頬の痛みは引いていたけれど、熱を伴ったあの痛みを思い出して、僅かに笑みを浮かべる。
「君にまで見捨てられたのかと思ったよ」
「……見捨てるわけないでしょ、今更」
呆れたように嘆息し、彼女は椅子をベッドの脇に引き寄せて腰をかけた。
「大体、あんたを見捨てる人間なんて滅多にいないでしょうに」
「そうだと良いけど」
そんな彼女に僕は苦笑気味に肩を竦め、次いで微笑を向ける。
「そういえば、傷を治してくれたのはリザだって聴いたよ。ありがとう」
「それは本心から?」
どこか険しい彼女の表情。投げかけられた問いに、僕は思わず目を瞬いた。
「どういうこと?」
「本当に、心からそう思ってるわけ? 助かって良かったって」
「……それは」
リザの言葉に、僕は少しだけ黙り込む。けれど、あまり長く沈黙を保つわけにもいかない。すぐに微笑を浮かべ、僕は首を傾げた。
「もちろん、そう思っているよ。どうしてそんなこと――」
「嘘ね」
僕の言葉を遮るように、被せられた鋭い否定の言葉。どこか責めるようなその視線に、息が止まった。
「クレアが記憶を取り戻してしまったんだもの、あんたの『その感情』は前より大きいでしょうね。あの子の傍にいたくなかったんでしょ、前世も今世も。あの子を護って死ねるならそれでいいって、そう思ってたんじゃないの? あたしが何も考えずにあんたを引っ叩いたとでも思った?」
痛いほどに反響する彼女の言葉に、返す言葉を見つけられず沈黙を保つ。そんな僕に構わず、目を逸らすことすら許してくれずに、リザは淡々と言葉を紡いだ。
「あんたがあたしを責めるなら、それはあたしにはどうしようもないわ。周りの意見はともかく、あたしがジルの本当の願いを知りながら、それを叶えなかったのは事実だもの。だから、恨みたければ恨めばいい。あたしには、止められないわ」
「う、……恨む、なんて」
僕を本当の意味で理解してくれる数少ない人間を突き放すなんて、そんなこと、出来るわけがない。思わず表情を歪めるものの、涙は出なかった。……物心ついてから一度も流したことが無いものに、期待なんてしてはいなかったけれど。
「そういうと思ったわ」
首を振り、絞り出した呟きに、リザは呆れるように苦笑する。
「それじゃあたしはまだ、あんたと一緒にいて良いのかしら?」
「……君は知っているはずだよ、リザ」
彼女の問いかけに、僕は力なく微笑んだ。……ああ、加波慎であった頃は、どんな孤独にも耐えられたのに。いつから僕は、こんなに弱くなったのか。
ちょうどその時、再び響くノックの音。ぴくりと僅かに肩を震わせるリザに思わず笑みを零しながら、僕は扉に視線を向けた。
「どうぞ」
「調子はどうだ、ジル」
「兄様? ……マリルーシャさんまで」
見慣れた兄の姿、そしてその背後に立つ亜麻色の髪の女性に、僕は思わず目を瞬かせた。兄様はベッドの傍らに座るリザに気付き、笑みを浮かべる。
「来ていたのか」
「ええ、お邪魔してますリオ様」
微笑を返すリザに頷き、兄様は僕に視線を向けた。
「顔色が悪いように見えるが、まだ体調は戻らないか?」
「確かにまだ少し貧血気味ではありますが、顔色が悪いのは別な理由ですよ」
思わず苦笑した僕の横で、リザがどこか気まずそうに視線を逸らす。それを見て、マリルーシャさんが首を傾げた。
「まぁ珍しい、喧嘩でも致しましたか?」
「……何で、あたしに訊くんですか」
「ジルが自分から喧嘩なんて売るわけありませんもの、原因はリザ様の方かと思って。ですが、恐らく悪いのはジルの方なのでしょうね?」
完璧とも言える彼女の微笑に、リザは僅かに首肯。面白そうにくすくすと肩を揺らすマリルーシャさんに、僕は苦笑交じりに嘆息した。
「それで、二人揃って一体どうしたんですか? 兄様」
「ああ……俺だけでも良かったのだが、マリルーシャがどうしてもと言うのでな」
「あら、お二人に会いたいのはリオ様だけではないのですよ」
悪戯っぽく笑うマリルーシャさん。兄様は「それもそうか」と呟き、少しだけ真剣な表情を浮かべて僕を見た。
「お前を刺した……クレア様を害そうとした犯人だが、うちの屋敷内やこの城の中にまだ仲間がいたらしくてな。シリル様が洗い出そうとしているが、このままでは逃げられかねない」
「ええ、そうだと思いました。あの方はまだ詰めが甘いですからね」
昔に比べればだいぶ王位を継ぐ人間としての自覚が出てきたとはいえ、根は優しい少年のまま。対し、クレア様に接触したときの様子を聞いても分かるけれど、ウィクトリアの人間は人の心をかき乱して利用することを好むのだ。シリル様にはまだ、少しだけ分が悪いだろう。
「でしたら、それについては僕が引き受けましょう。城の中を歩き回る程度なら、今からでも大丈夫でしょうから。一日……では流石に厳しいですね、三日ほど頂けますか?」
「三日で出来ると断言するお前が恐ろしいが……任せた」
一瞬だけ乾いた笑みを浮かべ、けれど兄様はすぐに表情を引き締める。
「問題はその後だ。ウィクトリアの人間を全員捕らえれば、恐らく父上のことについてもはっきりするだろう。それについて、ウィクトリア帝国を問い詰めなければいけない」
「……知らんぷり、って選択肢は無いんですか?」
眉を顰め、呟くように問いかけてきたのはリザだった。それに僕は首を横に振り、苦笑を返す。
「それで穏便に事を済ませたければ、捕まえた人たちも逃がす必要があるんだ。かの国の人間がこちらにいると分かれば、向こうから何か仕掛けてくる可能性もあるからね」
「その前に、こちらが先手を打つ必要がある。……睨み合い、程度で済めば良いのだが」
「ですから、その前にジルとリザ様にはアネモスを離れて頂きたいのですわ」
マリルーシャさんの言葉に、僕は思わず目を見開く。
「どういうことですか?」
「分からないか? お前たちまで巻き込まれる必要は無い、と言っている」
笑みを伴う兄様の言葉は、けれど僅かに冷たい響きを伴って聴こえた。
「お前はもう公爵家の人間では無い。お前たちまで、アネモスに縛られる必要は無い。お前がこの国を離れたところで、誰が責められる?」
「それは……」
言い返そうとした僕の袖を、リザがそっと引く。縋るように彼女を見るものの、リザもまたどこか険しい表情で首を横に振った。
「悪いけど、あたしもリオ様に賛成だわ。これ以上、ジルが苦しむ必要はない。あんたにとって、今のこの城は昔以上に辛い場所のはずよ」
「……だけど」
「いい加減にしろ、ジル。この国にいたくないと、父上にそう願ったのはお前だろう」
「っ」
そう言われてしまえば、反論は出来なかった。
分かっている。嘘を吐いてまでこの国を捨てた僕が、今更この国を守りたいなど、我侭以外の何物でもないと。……それ以前に、兄のこの言葉は僕のことを心配して言ってくれているものだと、分かってはいるのだ。
「陛下のお話では、ウィクトリアが何か仕掛けてくるのは早くても夏に入ってからだろう、とのことでしたわ。ですから、恐らくこちらはその前に、何らかの行動を起こさなければいけないでしょうね」
「ジル、だからお前は夏が終わる前にこの国を出ろ。……ああ、母上に顔くらいは見せて行くべきだな」
反論の隙も与えずに二人は話を終え、部屋を出て行こうとする。引き留めようとするものの、僅かに掠れた息が漏れるばかり。
扉に手をかけ、部屋から一歩外に出たところで、兄様が振り返った。
「良いか、絶対に無理はするなよ」
ばたん、と閉まる扉。それをどこか呆然と見つめる僕に、リザが躊躇いがちに声をかけてくる。
「ジル」
「……どこで、間違ったんだろうね」
力なく、僕は微笑した。
「僕は、耐えていれば良かったのかな。あの時、この国から逃げずに、『真澄』から逃げずに、ずっとここで耐えていれば良かった? そうすれば今、アネモスを護れたのかな」
「っ、あんたは、またそうやって」
「ごめん」
無理やり気持ちを切り替えて、普段通りの苦笑を浮かべる。
「兄様に頼まれた仕事が終わったら、すぐにアネモスを発とうと思う。ああ、その前にトゥルヌミールの屋敷にもいかないと、母様に怒られそうだけど。……その後のことは、国を出てから決めようか」
何か言いたげに僕を見る彼女は、けれど何も言わなかった。
こんばんは、高良です。ぎ、ギリギリセーフ!
さて、今回はひたすら味方によるジル苛め回(精神的に)……どうしてこうなったかは私にも分からないです。予定ではもうちょっと穏便に終わる予定だったのですが、何故。
慎だったときには、耐えられた状況。幼馴染たちが傍にいること。ですが、ジルとして、二人のいない環境を知ってしまった彼には、それはもう難しくなってしまいました。それを分かっているからこそ、リザやリオネルは離れるべきだというのですが、自分を殺してでも他を救おうとするジルにとって、アネモスを見捨てるという選択もまた苦痛に満ちたものだったのです。
さて、恐らく次で第二部は完結となります。段々と雲行きが怪しくなってまいりましたが、第三部では……
では、また次回!




