第三話 彼と出会った日のこと
「それじゃ、慎があの『風の国の賢者』なのね」
彼に関することなら大抵のことじゃ驚かない自信はあったけど、それでも流石にその言葉は予想外だった。だって、アネモスの賢者と言えば物凄く有名な人間だ。たとえ平民でも、その噂を聴いたことの無い人間はいないだろう。それに加えて、半年くらい前にアネモスを出た、というのも一部の人間の間では話題の種になっていたわけで。
驚きと好奇心の入り混じった感情を向けると、慎は苦笑する。右目を覆う眼帯のせいで少しだけ表情が分かりにくいけど、それでも彼の感情を読み違える気はしなかった。彼が死ぬまで、ずっと見ていたのだから。
「そんな大層なものでもないんだけどな」
「あー、最近じゃ隻眼の賢者っていうのもあったわね。魔法の腕も有名になってきたか。なるほどね、困っている人間を無節操に助ける辺りは変わってないわ」
まあ、納得できない話ではない。あたしも詳しいわけじゃないけど、この世界での『魔力』と言うのはどうやら知識量や精神力にも比例するらしいのだ。もちろん生まれつき持っている量や才能もあるし練習次第で伸びもするけど、精神面もだいぶ大きく影響すると聴いた。なら、賢者と呼ばれる彼が魔法の才に秀でているのは道理だろう。
「そんなことをした覚えは――」
「無いとは言わせないわよお人好し」
かつてあたしに声をかけたことも含めて。そういう代わりに軽く睨むと、込めた意味を読み取ったのか慎は何も言わず、苦笑する。そんな彼にあたしは嘆息し、話題を切り替えた。
「で、その賢者様がどうしてこんなところにいるわけ? アネモスを出た、って噂は聴いてたけど」
「……君のことについては、後でじっくり聴くとして。そうだな、どう説明したらいいんだろう」
あたしの問いに、彼は困ったような笑みを浮かべる。少しして、ぽつりと呟いた。
「元々、いつか出なければいけない、とは思っていたんだ。あの国は僕の故郷ではあるけれど、僕の居場所では無かったから。僕はあれ以上、あの場所にいちゃいけなかった。だから、あれで良かったんだ」
「どういうことよ」
大事な部分が欠けた彼の言葉に、あたしは思わず眉を顰める。そんなあたしの表情を見て、慎は寂しそうに笑った。
「君も、感じたことはない? この世界に生まれてから。自分だけが特別なんだっていう、言いようのない孤独」
「……あるわ」
慎の問いに、あたしは正直に頷いた。
無いわけがない。前世の記憶を持っている人間など、自分以外にはいなかった。賢すぎる子供だと気味悪がられたこともある。それでも両親はあたしを愛してくれたから、こうして今ここにいるのだろうけど。
そう、両親。宝城柚希だった頃には無かったもの。だから、あたしは彼らの存在を受け入れて、彼らを親と慕うことが出来たのだろう。けれど、慎はどうだろうか。
加波慎には、ちゃんと父親も母親もいた。それを、あたしは知っている。もしかしたら、彼以上に知っている。慎があの世界から消えてしまった後も、あたしは彼の両親と親しいままだったのだから。だから、慎がとても両親想いだったことも、逆に彼らもたった一人の息子をとても愛していたことも、全て知っている。
……だけど、今の彼には、今の両親がいるのだろう。かつての両親との記憶を持ったまま、見知らぬ大人を親と思うのは、どれほど辛いことなのだろうか。あたしには、どうやったって分からないけど。
「それに、僕の傍には咲月と真澄がいたから。ハーロルトさまはともかく、クレア様は何も覚えていないんだ。僕が傍にいたら、前世の記憶を取り戻してしまうかもしれないだろ? それは出来ることなら避けるべきだと、君なら分かるはずだ」
「そりゃ、分かるけど」
彼の言葉に、あたしは眉を顰めた。言いたいことは分かる、この世界で別な人生を歩んでいる奴らにあたしたちが関わるのは避けた方が良い。けど。それを当然のように話す彼の態度は、少しだけ引っかかった。
おかしい。慎の言葉には、何かが足りない。その『足りないもの』が何なのか、少し考えて気づく。
「咲月……クレア、だっけ? 話を聴いてる限り、その王女様は今の慎のこと好きなのよね。何でそのままくっつかなかったわけ? あんただって、今もまだ咲月のこと好きなんでしょ」
「みんな、同じことを言うんだね」
あたしの問いに、彼は微笑を浮かべた。切なそうな、どこか痛々しくすら笑顔。だけど、その表情は見覚えがあった。彼が慎だった頃、よく浮かべていた笑顔。
「ハーロルト様にも言われたよ、彼が、真澄だった頃の記憶を取り戻したときに。だけど……真澄を裏切ることだけは、出来なかったから」
「っ、この」
微笑んだまま答える彼に、あたしはそっと拳を握りしめる。
「馬鹿、お人好し! 本っ当に変わってないのねあんた、そうやって周りの、あいつらの幸せばっかり……自分のことを大事にしないのは、あんたの欠点だわ」
「知っているよ」
あたしの言葉に、慎は苦笑。それを知りながら直さないのもまた欠点だと思うけど、口にはしない。言っても無駄なのは、よく分かっているのだ。柚希だった頃に、嫌というほど思い知った。そもそも彼がそんな性格じゃなければ、加波慎が命を落とすことは無かっただろうし。
「言っておくけど、あたしはあんたほどの人生は送っちゃいないわよ。小さい頃は商人だった父さんについて旅して暮らしてたんだけど、両親が死んでからはここに住んでるってだけ。柚希だった頃の記憶は最初からあったわ。おかげでこの年で商売出来るから、生活には困らなくて助かってるけど」
「そう」
あたしの言葉に、彼は穏やかな笑みを浮かべる。何か含むようなその表情に、あたしは思わず眉を顰めた。
「何よ」
「いや、何でも無いよ」
首を振る彼を睨むと、慎はどこか懐かしそうに目を細める。
「君は変わったね、柚希。口調も表情も、昔より柔らかくなった」
「……何で分かるのよ、そんなこと」
「分かるに決まっているだろう? そうしなさい、ってずっと君に言っていたのは、僕だ」
ああそういえばそうだった、とあたしは嘆息する。ちょっと口調が荒くなるたび、彼に窘められたんだっけ。女の子なんだから、と。もう、二十年以上前のこと。
「まあいいわ、そんなことより頼みがあるの」
「頼み?」
首を傾げる彼に、首肯。
「あんた、旅してるんでしょ。連れていって」
「え?」
言い放った言葉に、慎は目を瞬かせる。彼にしては珍しいその表情に僅かに笑みを浮かべ、あたしは言葉を続けた。
「元々この国に留まる気は無かったんだけど、流石にこの年で一人旅は危険でしょ? だから我慢してたの。保護者がいれば安心かな、って」
「保護者って」
「金と情報稼ぎくらいなら出来るわよ? まぁ、『賢者様』にはどっちも必要ないか。でも、話し相手くらいにはなれる」
浮かべていた笑みを強め、あたしは上目遣いに彼を見上げる。
「本当は誰よりも寂しがり屋なあんたに、一人旅なんか出来るわけないでしょ?」
「それは、ずるいんじゃないかな」
困ったように笑いながら、慎は否定しなかった。そう、だって今の言葉は、かつて彼自身に聴いたもの。だから嫌われるのが怖いのだ、と自嘲気味に告げてきた言葉なのだから。
考え込むように少しだけ黙り込み、やがて彼は僅かに微笑む。
「そういえば、名前を訊いてなかったね」
そんな言葉に、あたしは笑みを浮かべた。
ああ何だ、彼も同じか。前世は前世、今世は今世。かつてのあたしと今のあたしは別なのだと、そう思ってくれるのか。
「リザよ。リザ=アーレンス。あんたは――」
「ジル=エヴラール。半年くらい前までは別の名を名乗っていたけど、今はもう関係のないことだから」
寂しげに苦笑し、彼……ジルは真っ直ぐにあたしを見る。
「一緒に、来てくれる? リザ」
「ジルが許してくれるなら、ね」
差し出された手を、あたしは握り返した。
……かつて失ったものを、今度こそ手に入れられるかもしれない。そんな想いに、僅かに胸を高鳴らせながら。
こんにちは、高良です。
ジルリザの出会い、リザ視点。柚希だった頃に慎に惹かれた彼女の想いも、まだ続いています。ジルがクレアを想うように。ですが、彼女は良い方向に変わった様子。一人称の変化も実はそういうこと。
ついでにジルの今の名前も初公開。トゥルヌミールの名を名乗ることが許されなくなったのですから、ね。上の名前も縮めたのは気分
ストックが尽きているので更新できるか怪しいですが、次回辺り前世での出来事も書けると良いなぁ。
では、また次回。




