第十七話 後悔と憎悪
父から僕に下された罰が城内に知れ渡ったのは、それから一週間ほど経った頃……まだ傷が癒えたわけではないものの、貧血は消えたこと、それに痛みに対する慣れもあって、もう日常生活は普通に送れるようになっていた。
同時に流れた、賢者がアネモスを去るという噂。それを確かめようとやってきた人間は数知れないけれど、その中にあの事件の当事者は一人もいない。
いや、いなかったのだ。たった今、ノックの音が響くまでは。
「どうぞ」
ベッドに腰掛け、アネモス語で書かれた本のページを捲りながらその音に答える。まだ全快してはいないところに、傍から見れば勘当に等しい父上の言葉。そのため、王子と王女の教育係という仕事も解任されていた。正しくは父がそう陛下を説き伏せてくれたのだけれど、さておき。
いつまで経っても入ってこないどころか返事すらない扉の向こうを、僕は僅かに眉を顰めて見つめる。少しして静かに扉は開き、一人の少年が躊躇いがちに顔を覗かせた。
姿は見せたものの入ってこようとはしない金髪の少年に、僕は目を見開く。
「ハーロルト様」
「っ」
僕の言葉に、彼は顔を上げ、辛そうに目を見開く。理由は察しがつくけれど、僕はそれには気付かないふりをして苦笑した。
「そんなところに立っていないで、中にお入りになられては? どうぞ、座ってください」
僕の言葉に彼は俯き、黙って扉を閉める。僕の目の前、少し離れた位置にある椅子に腰を掛けたハーロルト様は、口を開き何かを言いかけては俯くという動作を繰り返す。待っていると、やがて彼は俯いたまま、絞り出すように訊ねてきた。
「……慎、なんだよな」
「うん」
予想していた問いに、僕は頷く。そして、嘆息交じりに苦笑。
「やっぱり思い出してしまったんだね、真澄。出来ることなら、思い出してほしくは――」
「何でっ!」
僕の言葉を遮るように、彼は叫ぶ。見るとハーロルト様――真澄は怒るような、僕を責めようとして責めきれないような辛そうな表情で、僕を見ていた。
「何で、言わなかったんだよ」
「前世のこと?」
「違う!」
問いかけるけれど、返ってきた言葉は否定。思わず首を傾げると、彼は再び僕を睨んだ。
「慎も咲月のこと好きだって、何で言わなかった」
「……ああ、そのこと」
思いがけない返答に、僕は僅かに目を見開く。
「いつから気付いていたの?」
「慎が、……あの、ときから」
死んだとき、と言おうとしたのか。言いかけた言葉を切り、彼は表情を歪めて答えた。
「お前さ、あのとき笑ってたじゃん。それ見たら何か、何となくだけど、ああこいつも俺と同じだったんだって」
「そう」
それだけで分かってしまったのは、幼馴染だからだろうか。微笑んで頷くと、彼は僕を睨んだまま言葉を続ける。
「何で言ってくれなかったんだよ、知ってたら俺だって咲月とのこと慎に相談なんかしなかったし、それに――」
「それに、もしかしたら咲月のことを諦めていた?」
静かに訊ねた僕の言葉に、真澄は言葉を詰まらせる。僕は笑みを浮かべたまま、どこか自虐的に続けた。
「君の咲月に対する想いがその程度だったら、多分打ち明けていただろうね。もしかしたら打ち明けもせずに、黙って咲月を奪っていたかもしれない。だけど、そうじゃないことは知っていたから、言えなかった。言ってしまったら、真澄は絶対僕に遠慮するだろ?」
右目の傷に障らないよう、そっともう片方の目を閉じる。瞼の裏に移るのは、前世の記憶。喧嘩ばかりの二人を、苦笑交じりに眺める『慎』の姿。
「三人一緒にいられるだけで、僕は幸せだったから。あの関係を壊すなんて、僕には出来なかった」
「じゃあ、今はどうなんだよ」
強張った声と表情でそう問いかけてくる真澄に、僕は訊ね返した。
「今?」
「転生してからずっと、咲月と一緒にいたのはお前の方だろ!? お互い好き同士だったくせに、どうして受け入れなかったんだよ!」
そこで彼は途端に勢いを失い、辛そうな顔で俯く。
「そうすれば、俺はここには来なかったのに……慎を、殺そうとすることも無かったのに」
その言葉に、僕はハッとする。
何故思い至らなかったのか。全てを取り戻してしまった彼が、自分が前世での親友を殺そうとしたという事実に対して、何も考えないとでも思ったのか。
「……ごめん」
「何でお前が謝るんだよ!」
思わず出た言葉を打ち消すように、真澄は叫んだ。
「謝らなきゃいけないのは俺の方だろ!? 慎の気持ちも知らずに咲月とのこと相談しまくって、そのくせ喧嘩ばっかりして、あのときだって咲月を助けたのは慎の方で、俺は何も出来なかったのに! それなのに都合よくそれだけ忘れて、今度は慎のこと――」
「真澄」
彼の言葉を、静かに遮る。びくっと肩を震わせて僕を見る彼に、僕は笑顔で首を横に振った。
「僕は、気にしていないよ」
「っ」
「言っただろ? 君たちと一緒にいられるだけで、十分楽しかった。君たちが幸せでいてくれれば、それで良かったんだ」
「……そんなの」
「おかしい、と思う?」
訊ねると、真澄は黙って僕を見る。その瞳に浮かぶ肯定の色に、僕は苦笑した。
「そうだね。僕は、おかしいのかもしれない。それでも、想いが実ることが無くても、加波慎は幸せだった。それは今だって変わらないんだよ、真澄」
「だから抵抗しなかった、とか言うつもりかよ」
「うん。それで君の――ハーロルト様の気が済むのなら、それがずっと君を裏切り続けたことへの贖罪になるなら受け入れようと思っていた」
そこで僕は僅かに表情を歪め、自嘲気味に笑う。
「結局、それは君を苦しめることになってしまったけれど」
「それでも、慎は悪くないだろ」
僕の言葉を否定するように、彼は首を横に振る。
「お前は昔っからそうだ、そうやって他人の幸せばかり考えて、自分のことは後回しどころか考えすらしなくて」
そこで真澄は、僕の右目に視線を向けた。
「それ……治らないんだよな」
「一応、傷自体は塞がるみたいだけど。でも、もうこっちは何も見えないだろうね。この世界じゃ義眼を作る技術は希少だし、しばらくは眼帯かな」
右目に巻かれた包帯に触れる。その下にあるべきものは、今は存在していない。それを見て、彼はまた表情を歪めた。
「ごめんな慎、本当にごめん。俺、前世も今世も自分のことばっかりで、慎が辛い思いしてるのに気付けなかった。許してほしいなんて言えないけど、ごめん」
「……珍しいなぁ、真澄が謝るなんて」
その懐かしさとおかしさに、僕は思わず笑みを浮かべる。不思議そうに顔を上げる彼に、僕は笑ったまま返した。
「昔から、喧嘩しても君が謝ることなんて滅多に無かったのに。咲月との喧嘩で、明らかに君が悪い時でも意地張って。僕がどれだけ苦労したと思う?」
「う」
ばつが悪そうに視線を逸らす真澄。僕は再び笑みを漏らすと、少しだけ表情を引き締めて彼に向き直った。
「一つだけ、約束してほしい」
「……俺に、出来ることなら」
「咲月……クレア様と、幸せになって」
静かに告げた言葉に、彼は目を見開く。
「でも、俺は」
「この間のことについては、無かったことになっただろう? だから、今度は喧嘩なんてしないで、ちゃんと二人で仲良くしてほしい。『慎』は間違っていなかったんだって、そう思いたいから」
「待った、俺今すっげぇクレアに敵視されてる気が」
「頑張れ」
「来たよ無茶ぶり!」
まるでかつての日常が戻ってきたかのようなやり取りに、僕は思わず笑みを浮かべる。釣られるように笑い、彼は真面目な表情に戻って僕を見た。
「慎は、それでいいのか?」
「うん。……実は、近いうちにアネモスを離れようと思っていて」
「は? ああ、そういやそんな噂も流れてたっけか……今回のことがあったから、か?」
「違うよ。ずっと前からそうしようって決めていたけれど、なかなかタイミングが掴めなかっただけ。だから大丈夫、君が僕に遠慮する必要は無い」
そこで僕は一度言葉を切り、悪戯っぽく笑って続けた。
「また喧嘩しても、今度は止められないからね」
「喧嘩どころじゃないけどな、今の関係。元の関係に戻るだけでも何年かかるか」
真澄は嘆息し、目を閉じる。そしてすぐに開いたその目を、彼は真っ直ぐ僕に向けてきた。
「分かった、約束する。慎が悔しがるくらいいちゃつく」
「前世から割と喧嘩の後はそうだったけどね。……だけど、ありがとう」
「だから何でそこでお前が……あー、もういいや」
呆れるような彼に僕は苦笑を返し、そこでふと訊ねる。
「そういえば、君の方はあれからどうだったの? その口調じゃ大変だったみたいだけど、でも城の大多数の人間は真実を知らないはずだろ」
「あー……クレアに会えば分かるんじゃないか、多分」
僕の問いに、彼は疲れたように目を逸らし、そう答えたのだった。
◆◇◆
「先生っ!」
「……部屋に入るときはノックをするものですよ」
少女がやってきたのは、真澄……ハーロルト様が部屋を立ち去ってからしばらく経ったあと、窓の外がうっすらと暗くなり始めた頃のことだった。
勢いよく飛び込んできた彼女に、僕は苦笑を向ける。
「お久しぶりです、クレア様」
「どうしてそんなに落ち着いていられるんですか! 先生、何もされませんでしたか? ハーロルト様、ここに来たんでしょう!」
叫ぶ彼女の言葉を聴いて、僕は呼称が変わっていることに気づいた。以前はハル様、と愛称で呼んでいたはずなのに。
恐らくそれこそが、彼女の中での線引きなのだろう。
「確かにいらっしゃいましたが……クレア様、ハーロルト様は何も」
「したじゃないですか、たくさん! 先生が今ここにこうしているのだって、全部全部ハーロルト様のせいじゃないですか!」
泣き叫ぶように反論してくる彼女に気づかれないよう、僕はこっそりと嘆息した。なるほど、彼が言っていたのはこれか。予想は出来たことではあるけれど。
ハーロルト様は、クレア様にとっては想い人である僕を殺しかけたのだ。その時点で恐らく、クレア様にとって彼は敵と呼ぶべき存在にすり替わってしまったのだろう。だけど僕が嘘をついて庇ったせいでまだ婚約者候補と言う彼の肩書きはそのままで、だからこそ公に敵意を叫ぶわけにもいかないから呼び方を変えた、そういうことか。
「彼に悪気が無かったのは、知っていますから」
「先生はもう少しで死んじゃうところだったのに? ハーロルト様がそう言ったんですか? 先生は、それを信じたんですか?」
「はい」
微笑んで頷くと、彼女は納得いかないとでも言いたげに眉を顰める。しかし僕にこれ以上この話を続ける気が無いことを悟ったのか、一旦息をついてキッと僕を睨んだ。
「それじゃ先生、この国を出ていくって本当ですか?」
「おや……よく、ご存知でしたね」
「当然です! もう一週間以上、城中その噂でもちきりなんですよ? 知らない方がおかしいわ」
「ああ、そうでしたね」
僕は苦笑し、彼女の問いに対して首肯。
「本当ですよ。そうですね、旅をしても大丈夫な程度に回復したら、すぐに発つつもりですが」
「どうして……この城にいても良いじゃないですか。公爵家の人間じゃなくなっても、みんな先生のこと大好きだもの。ここにいてほしいって、絶対そう思ってるはずです。賢者としてこの城にいても、誰も反対なんかしないわ。ううん、それ以前に公爵が先生を勘当するのだって、どう考えてもおかしいじゃない!」
「ありがとうございます、クレア様。ですが、もう決めたことですので」
微笑む僕に、クレア様は泣きそうな顔で首を振る。
「いつもそう……何でみんな、わたしには何も教えてくれないんですか。何でもわたしの知らないところで勝手に決まって、わたしの意志なんてお構いなしなんだもの」
黙って聴いていると、彼女は涙に濡れた目で僕を見上げ、袖を掴んできた。
「行かないで先生、行っちゃ嫌です。お願いだから、ずっとここにいて。だってわたしは、わたしが好きなのは、ハーロルト様じゃなくて」
「クレア様」
袖を掴む彼女の手に自分の手を添え、そっと剥がす。表情を歪める彼女に、僕は微笑を向けた。心の奥、湧きあがる感情を必死に押し殺して。
かつて、まだ僕が『慎』であった頃にその言葉を聴けたら、どんなに良かっただろうか。けれど、最早それは出来ないのだ。『ジル』がクレア様の想いを受け入れることは、絶対にないのだから。
「クレア様は、まだ十三年しか生きていらっしゃらないでしょう。これから、出会いも別れもたくさんあるはずです。決めてしまうのは、まだ早い」
「そんな……そんなの」
彼女の瞳から、止まることを知らないかのように溢れてくる雫。それに気づかないふりをして、僕は扉を指した。
「さぁ、クレア様。あまり長居してはいけませんよ、本来ならここに来てはいけないはずだったのでしょう? マリルーシャさんに怒られても知りませんよ」
事件の当事者である二人は、僕とは会わないように。二人に対する配慮か僕への配慮なのかは知らないけれど、どうやら陛下がそんな命令を出していたらしい。一週間以上、二人が僕の元へ来なかったのも頷ける。
動こうとしないクレア様を再度促すと、彼女はようやく立ち上がり、黙って扉へと歩み寄る。そしてそのまま扉に手をかけ、押し開けたところで振り返った。
「…………先生。それでも、わたしは」
扉の閉まる音に紛れて、彼女は一体何を呟いたのだろうか。それを知る術は、僕には無かった。
こんばんは、高良です。
前半は真澄としての記憶を取り戻してしまったハルの懺悔。随分あっさりじゃない? と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、ハルの後悔については第二部でもう少し語らせて頂きますので、第一部ではこれくらいで。
後半はそんなハルに怒りを覚えるクレア。こちらはまだ咲月としての記憶はありませんから、想い人であるジルを傷つけたハルを許すとは思えませんが……
次の話である第十八話で、第一部は完結となります。ちょっととあるカップルのお話を何話か挟んでから第二部を始めさせて頂きますので、どちらも楽しみにしていただけると嬉しいです。
では、また次回。




