番外編・二 逃れ得ぬ檻
「久しいな、ジル。秋に会って以来か」
「はい。お招きいただきありがとうございます、陛下」
神童などと呼ばれている以上、普段教わっている程度の作法は完璧にこなさなければならない。けれど一方で、一般的な十歳の子供に残るあどけなさも微笑の端に浮かべるよう意識して頭を下げれば、風の国という大国を統べる王は楽しそうに目を細めた。
「ドミニクとの話が長引いてな、随分待たせてしまっただろう。退屈ではなかったか?」
「長引かせたのは陛下ですが」
半眼で指摘する父を宥めるように、そっと首を振る。
「学者の方を呼んでくださったのは陛下でしょう。色々なことを教えていただきました」
「そうか、それは良かった。あの者は王立研究所の所長を務めているのだが、顔を合わせるたびにトゥルヌミールの神童に会わせろとしつこくてな。不快に感じなかったのであれば、また機会があったら相手をしてやるといい」
「研究所の?」
城下にある国一番の学問施設の名を出され、そんな凄い人物と対面させられていたのか、と目を瞬く。国王の援助の下で大勢の学者が活動しているというそこは、数代前の王の時代は治癒の塔と同じように、城の敷地内に存在したらしい。魔法に関する研究は昔も今も治癒の塔が担っているが、それ以外――前世で言うところの科学分野の研究者は、全てこちらに配属される。ゆえに元々与えられていた場所では手狭になり、城下に研究所として独立する運びになったという。……もっともさっきまで話していた相手によると、城で人と関わるのが煩わしいという学者たちの訴えも効いたようだけれど。
僕の隣で何かを察したらしい父は、不機嫌そうに眉をひそめる。
「勧誘のためにジルを呼びつけたのですか、陛下」
「人聞きの悪いことを言うな。どれだけ優秀でもジルは次男だ、今からああいった場所への繋がりを持っておくに越したことはあるまい。騎士を志さなかったということは、そちらの道に進む気はないのだろう?」
最後の言葉は僕に向けられていた。「はい」と頷き、曖昧に微笑んでみせる。
「きちんと考えたことはなかったのですが、陛下の仰る通り学者か……あるいは陛下がお許しくださるなら、文官として国政に携わらせていただくか、でしょうか」
「ほう、それは余にとっても嬉しい提案だな。お前ほどの逸材を拒む道理はない」
「政に興味があるのなら領地でリオネルの補佐をしても良いのだぞ、ジル。わざわざ王城に出仕せずとも」
「相変わらず家族に対しては過保護だな、お前は」
呆れた様子の王に対し、確かに、と僕は内心で同意した。もちろん僕や兄がトゥルヌミールの名に恥じることをしないよう、厳しくすべきところは厳しく教育されている。けれどそれ以外の私的な面においては、父は公爵としての彼しか知らない者が聞けば驚くほどに家族に甘かった。
「だからリオネルのこともあまり連れてこないのか? 余はあれにあまり興味が無いなどと思われているようだが……お前とアドリエンヌの子供を、気にかけないわけがなかろう」
「リオが仕えるべき主は陛下ではありません。シリル様がお望みであれば、例え本人が拒もうと連れて参りますが……」
「……今のあれでは、その可能性は低いだろうな」
苦い顔で呻く陛下に対し、口を挟むのはあまり褒められた行為ではないと理解しつつ、あえて僕は首を傾げてみせる。わざわざ僕の目の前でその話題を出したということは僕が知るべきことなのか、少なくとも聞いてはいけないことではないのだろう。
「王子殿下に、何か?」
何かあったのか。あるいは、何か問題があるのか。語尾を濁して問いかければ、予想通り隠すつもりはなかったのだろう、陛下は「ああ」と頷いた。
「余とシルヴィアの前では、普通の子供にしか見えぬのだがな。どうもあれは――」
彼の言葉を遮るように、扉を叩く音が部屋の中に響く。「父上」と続く幼い声に、陛下は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。
「シリルか。どうした?」
「クレアが母上の様子を聞きたいと言うので。でも、来客中なら……」
「いや、ちょうどいい。二人とも入りなさい」
躊躇いがちに入ってくる、声色に違わず幼い少年に、僕は無礼にならない程度に視線を移す。直接会うのは初めてだったが、彼がたった今まで話題に上っていたこの国の王子であることは間違いなかった。青みがかった銀髪は父親譲りなのだろう。深い青の瞳に浮かぶのは戸惑いと、……全てを諦めきったような、どこか冷めた色。
何故、という疑問は、しかし次の瞬間には、僕の中から消えてしまった。正しくは、彼のうしろについてきた少女の顔を見た、その瞬間に。
性別こそ違えど双子である兄王子によく似た顔立ち。それに重なるように浮かぶ、彼女とは似ても似つかないもう一つの顔。けれど僕はその顔を、嫌というほどよく知っている。それはかつて、僕が命と引き換えに救ったはずの、幼馴染の少女の顔だった。ここではない別の世界で。毎晩夢に見る、僕がジルではない誰かだった世界で。加波慎という名で生きていた……恐らく、僕の前世で。
何故彼女がここにいるのか。何故、僕には彼女の正体が分かってしまったのか。彼女にかつての幼馴染の……咲月としての記憶はあるのか。僕のことは分かるのか。かつて彼女に対し抱いていた複雑すぎる感情は、再会の喜びとはとても言い難いものになって、心の奥に渦巻いていた。それを表に出さないように、必死に抑え込む。だから、このとき聡明すぎる少年が僕の反応を見て眉をひそめていたことを、僕は随分後になって本人に打ち明けられるまで知らなかったのだ。
「公爵家の神童の噂は聞いたことがあるだろう。彼がトゥルヌミール公のところの次男、ジルベルトだ。ジル、お前ならば分かっているだろうが、この二人が――」
「……シリル=ネスタ・ラサ=アネモスです。初めまして」
「あ、く、クレアです! えっと、シリルとはふたごで、そのっ」
「ええ、存じておりますよ。ジルベルト=フラル=トゥルヌミールと申します。お会い出来て光栄です、シリル様、クレア様」
陛下の視線を受けて自己紹介してきた二人に対し、僕は膝をついて臣下の礼を取り、そう返す。嬉しそうに頬を染めたクレア様を見れば、彼女に前世の記憶が無いことはよく分かった。少女と対照的に、僕の言葉を聞いたシリル様はどこか居心地悪そうに表情を曇らせ、ふいとその顔を背ける。
「父上、やはり僕たちは部屋に戻っています。公爵とのお話の邪魔をしてはいけませんから。……クレア、行こう」
「えっ、あ、まってよシリル!」
反論の隙を与えずに静かな表情で一礼し、シリル様は振り返りもせずに部屋を出ていった。対し、クレア様は名残惜しそうにこちらを振り返りつつも、慌てて兄の後を追いかけていく。それを黙って見送り、足音が聞こえなくなったところで。僕は陛下の方を振り向いた。
「最初からこれが目的だったのですか? 陛下」
「今日いきなり対面することになろうとは思わなかったが、いずれお前とシリルを会わせようと考えていたことは事実だ。先程の話の続きだが……あれはどうも、賢すぎるらしい」
その言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。それはとても聞き覚えのある言葉で……かつての僕を追い詰めた、そして今も縛り続ける、呪縛のような言葉だった。体を強張らせる僕を宥めるかのように、父がそっと肩に手を置いてくる。僕の心まで読み取ったわけではないのだろうが、それでもその気遣いは温かくて、僅かに胸が痛んだ。矛盾した心情を悟られないように、僕は「賢すぎる、ですか?」と首を傾げてみせる。
「余とシルヴィアに対しては普通の子供のように振る舞うが、それ以外の者に対してはあの調子だ。二人の教育係としてつけた者たちに対してもな。だというのに、誰に教わるでもなくいつの間にか知識を増やしている。それに恐れをなして、ドミニクより前の教育係はみな辞職を申し出た」
「だから、父様に?」
「ドミニクならば、少なくとも賢すぎる子供を畏怖することはあるまい」
それは、暗に僕の存在を指しているのか。双子の教育係に選ばれたという話は聞いていたけれど、その経緯は初耳だった。振り返って父を仰ぎ見れば、僕の視線に気付いた彼は僅かに苦笑する。
「だが先程、シリル様は私の存在に気付いていながら、声をかけてもこなかっただろう。怖がらない程度のことでは、あの方に認められるには不十分らしい。あれでは、あと数日もすれば私も前任者と同じ道を辿ることになるだろうな。シリル様がどうしても嫌だと仰れば、一介の公爵が食い下がる余地などない」
「では、次は今度こそアドリエンヌに頼むか」
「……御冗談を、陛下」
す、と笑顔のまま目を細める父の、その周囲の温度が一気に下がったように感じた。それは僕だけではなかったのだろう、陛下は「冗談だ」と首を振る。
「お前のような奴が一介の公爵だなどとよく言う。トゥルヌミール以外の公爵がお前のように振る舞えば、彼らの方がただでは済まぬぞ。なあ、ジル」
「息子に余計なことを吹き込まないで頂きたい」
それは確かに、と頷きかけた僕の頭を、父様は撫でるような形で抑えつけた。余計なことも何も陛下の言葉は全てもっともなのだけれど、抗議するように見上げれば父は悪びれた様子もなく肩を竦める。そんな僕たちのやり取りを見て、陛下は疲れたように嘆息した。
「ジルを呼んだのは、お前ならばあれの話し相手になってくれるだろうと考えたからだ。『神童』の言葉であれば、シリルも他の者に言われるよりは素直に聞くのではないかと。今日のように城を訪れた際、もし顔を合わせることがあったら少し気にかけてやってはくれぬか。もちろん、強制はしないが……」
「断る理由などありません。公爵家に生まれた人間として、王族の方々のお役に立てるのはとても喜ばしいことですから」
前世の記憶を抱きつつも、ジルとしてこの世界に馴染みつつある心は、それを当たり前のこととして受け入れている。この国に……いずれその王となる方に傅き、彼に尽くして生きていくことを、疑問に思ったことはなかった。それは今も変わらない。例えその隣に立つ少女が纏うあの面影が、かつての苦しみを忘れることを許さずとも……彼女本人にその記憶が無いのなら、耐えられる。自分を騙して微笑み続けることは、きっと前世よりも楽なはずだ。
だから、陛下の言葉に、僕は笑って頷いてみせた。
こんばんは、高良です。
頑張るとは何だったのか。
さて、前回はリザの幼少期でしたが、今回はアネモス組の昔のお話。時系列的には前話と数か月しか違わないです。
この出会いはやがてジルにとっての不幸となり、シリル君にとっての幸運となっていくのでした。
たぶんもう一話だけ続きます。
では、また次回。




