番外編・一 彼女に別れを
「リザ」
透き通った声で呼ばれたのが自分の名だと、気付くまでにはだいぶ時間がかかった。
けれどアタシが迷っている間にもこの体は勝手に動き、声の主にしがみつく。彼女は柔らかく微笑むと、愛おしげにアタシを抱き上げた。肩より少し長い程度の、鮮やかな赤い髪がふわりと揺れる。空色の瞳に映るのは、彼女と同じ髪色の赤ん坊だった。記憶にある自分の姿とは似ても似つかないけれど、愛想の欠片もないむすっとした表情は確かにかつてよく浮かべていたもので、もう少し子供らしく無邪気に振る舞えないものかと内心苦笑する。けれど、そんな宝城柚希としての思考が表に出ることは決してなかった。
最初は夢だと思っていた。元いた世界とはまるで違う硝子の向こうの光景は、目の前で繰り広げられる幸せな親子のやり取りは、全て死の間際の幻影に違いないと。苦痛と孤独に耐え切れなくなった自分が、なおも手に入れられなかったものに焦がれ続けているだけなのだろうと。この体が眠りにつくたびに見る、あの夢こそが現実なのだと、そう思い込んでいた。……きっとそうではないのだろうと、今は分かっている。アタシを抱き締める温かい腕は、確かにここにある。柚希はあの場所で死んだのだ。そうしてかつて羨んだものを、両親の愛を得た。恐らく、元いたのとはまるで違う世界で。転生とか生まれ変わりとか、そういう類のものなのだろう。
あの凄惨な死の記憶を抱きながらも狂わずにいられたのは、今のアタシが完全に傍観者だからだった。リザと呼ばれるこの体は無意識のうちに赤ん坊として振る舞っていて、アタシの意思では指一本動かせない。この世界に生まれてからずっと、両親に愛される幼子の姿を、その内側からどこか冷静に眺めていた。
思えば、安心しきっていたのだ。その壁の存在に。彼らに触れられないことに。いつかリザが成長すれば、柚希としてのアタシは薄れ消えていくのだろうと、心のどこかで信じていた。
だから、だろう。
目を覚まして体を起こして、それを自分の意思で行ったことに気付いて、真っ先に覚えたのは恐怖だった。
いつものような目覚め、とはいかない。勢いよく跳ね起きて、夢の中の痛みがまだ続いているような錯覚に、そっと自分の体を抱く。もう何百回も繰り返したその光景にも、死の痛みにも、未だ慣れない。そこでようやく異常に気付いて、アタシは小さく息を呑んだ。
「……何、で」
ありえない、と恐る恐る手を持ち上げれば、まるでそれが当然のように体はついてくる。口から零れた小さな言葉は、そのまま耳に届いた。見つめた手は小さく震えている。きゅっと空を握りしめて辺りを見回しても、見えるものは昨日までと何一つ変わらない。それが余計に恐ろしかった。
かたん、と音がして、今のアタシにとっての母親が部屋に入ってくる。咄嗟にベッドから飛び降りて、「起きていたのね、リザ」と顔を綻ばせる彼女の横を駆け抜けた。背中に届く声も聞こえないふりをして、逃げるように家を飛び出す。……いや、実際、逃げたのだ。
「何でよ……どうして、今更!」
自分がどこを走っているのかも分からないまま、それでもよく知っている道を、混乱した頭で駆ける。自分の意思で体を動かすのは何年ぶりだろうか。だってこっちの世界に生まれてからの三年間、こんなことは一度もなかったのだ。
「三、年……」
頭に浮かんだその数字を、小さく繰り返す。今日でちょうど三年だ。この世界では個人の誕生日はあまり重要視されないが、それでも祝いの言葉くらいはかけるから、自分の生まれた日は知っていた。三年も経てば薄れるだろうと思っていた嫌な記憶は、今も全て鮮明に思い出せる。毎晩柚希の人生を夢に見るのだから当然と言えば当然か。きっと、だからアタシは、こうなることを恐れていたのだ。
立ち止まって、息を切らしながら顔を上げる。朝市にでも向かっているのだろう、目の前の大通りは、早朝にも関わらずたくさんの人で賑わっていた。
思わず小さく息を呑み、一歩だけ後ずさる。今のアタシにとって、他人の手は自分を傷つけるものでしかなかった。相手にそのつもりが無くとも――実の両親にすら、そう感じるのだ。今まではその感情はアタシの内側で渦巻くだけだったけれど、この体が思い通りに動くようになってしまえば、もう隠してはおけない。今度こそ普通の子供として生きられたら、という仄かな希望は、最早叶いはしないのだろう。原因は、考えるまでもなかった。柚希の最期は、人に怯えるきっかけとしては十分すぎる。反射的に来た道を引き返し、けれど両親のいる今の家に戻ることも躊躇われて、気付けば町の外れに向かっていた。
慎、と無意識のうちに口から零れるのは、もう声もよく思い出せない、何よりも大切だった人の名前。彼の分まで生きようと、彼に誇れるくらいに強くなろうと誓った。ようやく変われたと、それなりに人と接することが出来るようになったと、そう思っていた。けれど数年かけて築いたものはたった一ヶ月で、もっと言ってしまえば死の間際の僅か一時間程度で、呆気なく崩れてしまうものだったのだ。……なら、アタシはどうすればいいのだろう。どうすればかつての強さを取り戻せるのか。あの手は、どうすれば怖くなくなる? 毎晩見るあの夢に、一体いつまで縛られるの?
「リザ!」
不意に耳に届いた声で、現実に引き戻された。振り返ると息を切らせた一人の男が、深い紫の瞳に安堵の色を浮かべてアタシを見ている。
「こんなところにいたのか。心配したんだぞ、起きるなり走って出ていったっていうから」
「父さん……」
この体――リザにとっての父親。前世で死んだときのアタシとそう変わらない年齢だから最初は戸惑ったものの、彼がとても愛妻家で、娘であるアタシのことも大事にしてくれているのは十分に知っていた。柚希とは違って恵まれている、と考えかけたところで、あることに気付いてハッと目を見開く。
「ねえ、今アタシのこと、何て呼んだ?」
「ん? リザはリザだろう、それがどうかしたのか?」
その言葉には何も返さず、反射的に傍を流れる川に駆け寄る。屈んで覗き込めば、流れの穏やかな水面に映るのは、紅髪の幼い子供だった。ああそういえば瞳の色は父譲りだったのだと、ぼんやり思い出すアタシに、背後から父が戸惑うように問いかける。
「何かあったのか、リザ」
「……何でもないわ」
そこに映る姿に、柚希の面影は微塵もない。当然だろう、宝城柚希はとっくの昔に死んだのだ。あの悪夢は紛れもなく現実にあったことだと、アタシ自身が一番よく分かっている。一度終わったものは続きはしない。今のアタシは柚希じゃないし、彼女のことを知る人間はこの世界にはいない。宝城柚希がかつて持っていて最期に失ったものを、取り戻す必要なんてないのだ。リザとして、新しく手に入れればいい。同じじゃなくても構わない。前世は前世で、今とは関係ないのだから。夢の中の自分なんて、そのまま夢に置いてきてしまおう。
そうすれば、アタシは――あたしは、まだ、ここから生きていける。
「怖い、夢を見たの。それで、ちょっと混乱しちゃって……でも、もう大丈夫」
「そうか」
年に見合わない言動は元からだけど、いつも以上に様子がおかしいことは父にも分かってしまっただろう。それでも、頷いてそれ以上は踏み込まずにいてくれることが嬉しかった。……なれる、だろうか。あたしが普通と違うことを察して、それでも愛してくれる両親の、本当の娘に。今すぐには無理だけれど、いつかそうなりたいと願った。前世と決別して、現世の自分を受け入れて……そうしたら自分はこの人たちの子供なのだと、胸を張って言えるようになるだろうか。
「なら帰ろうか、母さんも心配してるぞ。朝ご飯だってまだだろう? ……ああ、そうだ」
「何?」
思い出したように振り返ると、父さんは首を傾げるあたしに目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「旅に出ないか? リザ。父さんと母さんと一緒に」
「……旅?」
予想外の問いに、思わず目を瞬かせる。父は「ああ」と微笑んだ。
「リザが生まれるまでそうしていたのは、何度か話しただろう? 一つの国に留まって商売するのは、実を言うとあまり得意じゃなくてね。リザをどうするかは、二人で何度も話し合ったんだが……大きくなるまで一人でこの国に残るのは、多分嫌だろう?」
「行くわ」
迷う理由などなかった。人の多い場所にずっと留まっているのはまだ怖いし、両親以外の人間と深く関わろうと思うことも、今はまだ出来ない。色々な国を転々とする方が、ずっと気が楽だ。徒歩の旅なら幼子の体力では足手まといになりそうだから躊躇していただろうけど、母さんと二人で旅をしていた頃は基本的に馬車を使っていたと聞いているし、父の仕事を考えれば移動方法を変えるとは考えにくい。……馬車も道が悪ければ疲れると聞くが、それくらいは我慢出来る。
「そうか、良かった。母さんも喜ぶよ」
あたしが即答したことに驚いていた父はすぐに我に返り、そう言って嬉しそうに笑った。
……けれど結局、それは僅か数年で、不幸な終わりを迎えたのだ。
こんばんは、高良です。
今年は頑張るといった矢先にこのザマです。
というわけで、番外編は各々の幼少期編。全三話の予定です。
今回はリザの話、と見せかけて半分くらい柚希の話。トラウマを抱えたままこの世界で目覚めた彼女が、なおも生きるために必要だった、柚希との決別のお話です。ちょっと第三部の某話と関係あります。
では、また次回。




