第十話 認める理由、行く理由
「じゃあ、本当にお兄ちゃんを一人で行かせる気なの?」
思わず声を上げると、私の目の前に座るお姉ちゃんは黙ってティーカップに口を付けた。だけど今まで彼女が話していたことにはどうしても賛成出来なくて、思わず責めるような口調になってしまう。
「あのお兄ちゃんだよ? あっ、ううん、私にとっては何でも出来て頼りになる自慢のお兄ちゃんだけど……それだけじゃない、って教えてくれたのはお姉ちゃんでしょ? そもそもお兄ちゃんもお兄ちゃんだよ、そんなことがあった直後にお姉ちゃんを一人にするなんて!」
お兄ちゃんはどうしても知りたいことがあるけれど、その答えのある場所にお姉ちゃんと連れて行くことは出来ない。だから、お姉ちゃんはアネモスに残る。そうお姉ちゃんが告げたのは、二人で公爵家の屋敷に遊びに来て、マリルーシャさんと三人でのんびりしていたときのことだった。入れ違いのようにリオネルさんは城に行っているし、エル君は別の部屋で乳母の人が面倒を見ている。アドリエンヌさんも今は用事で出かけていて、この部屋にいるのは私とマリルーシャさん、そしてお姉ちゃんだけだった。だから彼女は、それを私たちに打ち明けたのだろう。
カタリナについては、この話も姿を消して聞いているのだろうけれど、絶対に出てこないようにと来る前に頼んでおいた。私としてはお兄ちゃんやお姉ちゃんとも仲良くしてほしいものの、だからといって緊急事態でもないのに無理やり会って話せなんて言えるわけがない。お兄ちゃんとお姉ちゃんがカタリナに対して抱いている感情がどういうものかは私には分からないけれど、推測するのは決して難しいことではないのだから。
それよりも、今はお姉ちゃんが話したその内容の方が問題だ。憤慨する私の隣で、マリルーシャさんが穏やかに微笑む。
「仰る通りだと思いますけれど、少し言い過ぎですわ、ニナ様。ジルが可哀想です」
「でも、どこに行くかも分からないんですよ? もし何かあったら……」
「何であんたが泣きそうなのよ」
ようやく私を見たかと思えば、お姉ちゃんは呆れるように苦笑した。そんな彼女に、私は「だって」と続ける。
「二人とも、やっと両想いになれたんだもん、もっと一緒にいるべきだよ」
義姉は、柚希お姉ちゃんは、それが出来なかったことをずっと後悔していた。それを私は、本人から聞いて嫌というほどよく知っている。かつての二人が迎えた哀しい結末を知っているから、そんな二人がようやく結ばれたのが嬉しくて、だから離れてほしくないと、そう思ってしまうのだ。
「お兄ちゃんにも何か事情があって、だからお姉ちゃんも許したんだろうって、私だってちゃんと分かってるよ。でも……」
思わず俯くと、お姉ちゃんは苦い声色で「そうね」と呟く。続く言葉は、ある意味では私が欲しかった答えだった。
「あたしだって心配だし、行かせたくないわよ。置いて行かれるのだって嫌」
「だったら!」
どうしてお兄ちゃんにそれを言わないのか。抗議しようと顔を上げれば、私と目が合ったお姉ちゃんは諦めたように嘆息する。
「信じろって、言っちゃったのよ。あたし」
それが今の話と、どう関係するのか。思わず隣を窺えば、マリルーシャさんも同じように首を傾げていた。視線を戻せば、お姉ちゃんはそっと目を細める。
「あたしを信じてくれ、って言っておいて……そのあたしが、ジルを信じないわけにはいかないじゃない。ようやく声が届くようになった今のジルに、嘘は吐けないわ」
一拍遅れてその意味を理解すると、私は思わずふふ、と笑みを漏らした。訝しげに見てくるお姉ちゃんに、そのまま笑顔を向ける。
「何だかんだで律儀だよねぇ、お姉ちゃん」
「ええ、本当に。わたくし、リザ様のそういうところが好きですわ」
「あ、ずるいマリルーシャさんだけ。私だってお姉ちゃんのこと大好きです!」
前世からずっとね、と付け加える。お姉ちゃんが居心地悪そうに目を逸らすのを見て、マリルーシャさんと二人、悪戯が成功した子供のように笑みを交わした。治癒の塔の魔法使いにも一目置かれるような治癒魔法の使い手で、ウィクトリアとの戦争のときにたくさんの騎士を癒したというお姉ちゃんのことを嫌う人なんて、この城にはいない。それなのにこの人は、まだ人から好意を向けられることに慣れないようだった。だから私は、お姉ちゃんを慕う気持ちだけは、絶対に隠さないと決めているのだ。
「……あんたね、シリルがいるくせに、そういうこと言って良いわけ?」
「やだなぁお姉ちゃん、シリルのこと好きな気持ちとお姉ちゃんを好きな気持ちとは別だよ。シリルだって私たちと一緒に来ないで、今頃は城でお兄ちゃんやリオネルさんと話してるわけでしょ?」
リオネルさんは敵に対しては厳しいけど家族に対しては物凄く甘い人だし、シリルはシリルでお兄ちゃんが心配なのだろう。私たちは尊敬する二人のために、お互い出来ることをしようと決めているから、今日別行動を取っているのも必然だった。
「でもまぁ、お兄ちゃんがまた無理しようとしてるんじゃなくて、お姉ちゃんもそれを認めてるなら、私たちがどうこう言うことじゃないよね。お兄ちゃんが帰ってくるまで、お姉ちゃんといっぱいいちゃつくことにする!」
「その言い方もどうなのよ」
経緯はどうあれ、お兄ちゃんがわざわざアネモスにお姉ちゃんを連れてきたということは、私たちは信頼されているということだろう。お姉ちゃんから目を離さないというのはその信頼に答えるためであって、私がお姉ちゃんに構ってほしいとか、そういう子供っぽい理由ではないのだ。……それも割と、いやだいぶあるけど。だって旅をしているお姉ちゃんと長期間一緒にいられる機会なんてそうそうないだろうし、仕方ないよね?
そんな私の考えにも気付いているのだろう、お姉ちゃんははっきりと分かるほどに呆れの色を濃く浮かべて、だけど優しく微笑んだ。
◆◇◆
隣を見れば灰藍の髪の青年は何とも形容したがい表情で、疲れたように深く息を吐いていた。……気持ちはとてもよく分かるものの、君にそれをやられるとこっちも反応に困るんだけどなぁ。とはいえ、このまま全員が黙っているのも居心地が悪い。僕は渋々視線を戻すと、恐らくリオネルと同じような表情で目の前に座る師を見遣った。
「何というか……どこに行っても何かに巻き込まれていますよね」
「そんなことはありませんよ、シリル様」
「今更お前のその笑顔に騙されるほど浅い付き合いではないだろう」
リオネルの言葉に、彼は困ったような微笑を浮かべて黙り込む。その反応から、先生も見た目ほど冷静ではないようだと悟った。だって普段の彼なら、見抜かれても上手く取り繕っているはずだ。リオネルだってそれに気付いていないわけではないだろうに、容赦なく言葉を続ける。
「今回に関しては、巻き込まれたというよりお前たちが狙われたのだから、その主張も正しいかもしれないな。だが、だからこそ、リザをアネモスに置いて行くというのには賛成出来ない」
「僕もそう思います、先生。危険ではないと言っていましたよね。だったらなおさら、リザさんを連れて行くべきです」
だって先生もリザさんも、誰か止める人がいないと限界まで無理をして倒れてしまうような人なのだ。一年以上前――アネモスとウィクトリアが戦争をしていたとき、先生はリザさん曰く「割と本気で死にかけた」らしいし、そのリザさんも色々と抱え込みすぎて一度倒れたとキースさんから聞いている。彼女に関しては周りに僕たちがいてもそうだったのだから、やはり二人とも、互いが抑止力にならなければ駄目なのだ。
けれど僕とリオネルの言葉に、先生は僅かに目を細めて、「お二人とも」と静かに返した。
「愛する人が自分の知る彼女ではなくなってしまう可能性が少しでもある場所に、その人を連れて行けますか?」
「……え?」
「何?」
思わずリオネルと顔を見合わせ、眉を顰める。嘘や冗談を言っているようには見えなかった。そもそも、この流れでそういうことを言う人ではない。……彼の言う現象に、何も心当たりが無いわけではなかった。出来れば当たってほしくはない嫌な予感。
「危険なだけであれば、僕は恐らくリザを連れて行ったでしょう。今のあの子を一人にはしたくない。ですが……」
「……記憶、ですね。先生」
絞り出した僕の言葉を、彼は僅かに微笑むことで肯定する。思い出すのは、クレアが彼らの言う前世の記憶を取り戻したときのこと。あのときの彼女は生まれたときから一緒にいて知っているはずの妹ではなかった。今のクレアは、前世の記憶については割り切ったと言うけれど、それは決して昔の彼女に戻ったわけではない。ずっと誰よりも近くに感じていた、守らなければいけないと思っていた妹はもうどこにもいないのだと、それが僕の出した結論だった。けれど、彼の言葉にはおかしいところがある。当然リオネルもそれに気付いたのだろう、不可解そうに眉を寄せた。
「だが、お前もリザも生まれたときから前世の記憶を持っているだろう。今更何を……そもそも、ジルにはその危険はないのか?」
「僕は……ある程度予想した上で答え合わせに行くようなものですから、兄様の危惧なさっているようなことにはならないでしょうね。それでもあまり気は進まないのですが……恐らくこの力が無ければ、僕はルフィノに対抗出来ませんから」
ぱちっ、と先生の手の上で一瞬だけ金色の光が弾ける。そう、元はその力を使いこなすために行くのだという話だった。それが何なのか、先生は既に答えを見つけているようだけれど、リザさんにすら伝えていないそれを僕たちに教えはしないだろう。……ただ、彼に教えを受けた僕がそこに辿り着くのは、決して不可能ではない。
「どこに行くつもりなのか、訊いてもいいですか?」
「恐らく、シリル様の思っていらっしゃる通りですよ」
その答えを聞いて、僕はああやはり、と息を吐く。ぼかしたその言い方から、リオネルに教えるつもりは……少なくともここで彼から話す気はないのだと知った。僕に対して肯定した時点で、隠そうとは思っていないのだろう。
先生にはもう既にあるはずの前世の記憶。見たことのない魔法。……先生とリザさん、そしてルフィノ=ウルティアについて回る、神話を想起させる呼び名の数々。昔、聖地の謎について教えてくれたのは先生自身だった。あの地には、封印されていて人の立ち入れない空間があると。なら、きっと彼は。
そこまで聞き出しておいて、引き留めるなんて出来るわけがない。だから僕は顔を上げて、「分かりました」と笑ってみせた。
「じゃあ先生が戻るまで、リザさんのことは任せてください!」
「いいえ、シリル様はご自分の身を守ることだけを考えてください」
意気込めば、苦笑交じりにそんな言葉が返ってくる。一瞬だけ首を傾げるもすぐに失言に気付いて、僕は恐る恐るリオネルの方を振り返った。彼もまた苦笑してはいるものの、飛んでくる言葉は先生よりずっと容赦ない。
「そうですね、その辺りは俺やマリルーシャに任せて頂かないと。シリル様自ら危険に飛び込まれると面倒です」
「……今のは確かに僕が悪かったけど、君は本当にドミニクそっくりだよね」
父上も苦労していたんだろうなぁ、と今ならよく分かる。けれど彼ら公爵家の存在が無ければ、きっと風の国はここまで大きくはならなかったのだろう。長いアネモスの歴史の、その最初から王の傍らに立つ一族。
……それより更に前の、原初と呼ばれた時代のことを、深く考えたことはない。けれどそれも確かに歴史の中に実在したのだと、思い知らされた気分だった。
こんばんは、高良です。
大丈夫だと言っても周りに信用されないのがジルリザクオリティ。
久々にシリニナ視点書いたら明るくて戸惑いました。というかシリル君が主人公より主人公っぽくて流石この子第四部主役張っただけありますね。
さくっとあと数話で第六部終わらせて第七部に持っていきたいところです。
では、また次回。




