第九話 それはまだ、誰も知らない
「っ、…………あー」
寝返りを打つと体の節々が鈍く痛んで、思わず小さく呻く。ふわふわと漂うようではっきりしていなかった意識は、一気に覚醒した。タイミング良く開いた扉の方を睨み、「ジル」と低い声を上げる。
「起きられないんだけど」
「ああ、やっぱり? 今日は部屋で休みますって言ってきたんだけど、正解だったね」
「あんたはもうちょっと悪びれるとかしなさいよ……それか、少しは手加減するとか」
「僕を焚き付けた君がそんなことを言う」
ジルは穏やかにすっと目を細め、あたしの文句を受け流した。その反応も気に食わなかったけど、彼の言葉は間違ってはいないのだ。焚き付けた覚えはないものの、最初に言い出したという意味では。反論の言葉も浮かばず、ジルから目を逸らすように枕に顔を埋める。
ジルとちゃんと恋人同士になりたいと彼に言ったのは、あれから数日経って、ネヴェイアからアネモスに移動してきたその日の夜のことだった。……そう、あたしがジルに言ったのだ。彼はもう数年は手を出さずに待つつもりだったらしい。最初はあたしが抱えるトラウマのこととか、中学生に手を出したら犯罪だとか言って逃げていた。けどこっちだって、それを分かった上で言っている。
だって、柚希は好きでもない男に滅茶苦茶にされたのだ。今回だって、ジルがあと少し遅かったら、また奪われていた。だったら早くジルに、……好きな人に初めてをあげたいと、そう思って何が悪いのか。そもそも向こうじゃ犯罪でも、こっちじゃあたしくらいの年齢で自分の父親より年上の男に嫁ぐようなこともあるんだから、ジルが気にする必要はない。中身は同い年なんだし。
最終的にジルは折れてくれたけど、問題はその後だった。体力というか持続力というか、相手するこっちからすればそんなところまで完璧じゃなくてもいいだろうと訴えたくなる。それでも最初は手加減してくれていたのだが、昨日は何故かそれが無かったのだ。朝方まで体を重ねてれば動けなくなるに決まってる。むしろ平気そうなジルがおかしい。そう自分に言い聞かせて顔を上げれば、彼はあたしが寝ている寝台に腰かけた。
「無理させてごめんね。大丈夫?」
「あちこち痛いけど、これくらいならすぐ治るわ。こうなるって分かってて拒まなかったのはあたしだし。でも、何で突然こんなことしたわけ?」
「……それを話す前に、こっちの説明をしておこうか」
困ったような笑顔で、ジルは片手を持ち上げる。そこに、ばちっと一度だけ金の火花が纏いついた。あの日彼が使っていた、見たことのない力。呪文も魔法陣も必要としていないようだけど、それが本当ならこの世界の魔法の概念を根本から覆すことになる。アネモスに帰ってきてからも、ジルは自分が得たその力のことを誰にも話していないようだった。
「やっと話す気になったの? このまま隠し通すつもりなんじゃないかと思ってたわ」
「後で話す、って言ったでしょう」
「だってジルよ?」
信用出来ない、という言葉の代わりに見上げて首を傾げれば、言いたいことは伝わったのだろう、彼は「ごめんって」と苦笑する。その目が、ふっと遠くを見るように細められた。
「リザは、創世神話と原初記についてどれくらい知ってる?」
「神話? ……小さい頃に両親が聞かせてくれたのと、あとは劇とか詩人の歌とかでちょっと聞いたくらいだわ。大体みんなそんなものじゃないの? あ、ジルに聞いたのもあるから、普通よりはちょっと詳しいのかしら」
この世界に伝わる二つの神話を、知らない人間はいないだろう。とはいえ創世神話の方は本当に短いしそのまま原初記に繋がっていくから、国によってはまとめて一つの神話として扱っているらしいけど。子供の寝物語にしては教育に悪い結末だが神殿でも教えているらしいし、学校の類に行けばもっと詳しく読み解くと聞いた。
「昔々、神様は世界を作って、そこに三人の人間を生み出しました、ってやつでしょ?」
「うん、それとその三人から続く人間の……原初、と呼ばれる時代に存在した小さな国のことだね。賢者の裏切によって、その楽園が亡びるまで」
ジルの言葉に、あたしは僅かに眉を顰める。そう、だからあの話は嫌いなのだ。あたしだけじゃない、ジルを慕う人の多いアネモスには、あの神話をあまり好かない人間も多い。それだけじゃない、あの話には『歌姫』と『騎士』も出てくるから。悲しい死を迎える存在に例えられるのは、それが称賛の意味で使われているのだと分かっていても、何となく喜べなかった。神話の結末までちゃんと知っている人間は多くはないらしいから、仕方ないのかもしれないけど。あたしの表情を見てだろう、ジルは僅かに苦笑するものの、それに触れることはなく言葉を続けた。
「あの時代は、生活習慣も言語も魔法形態も、魔力の質すらも今とは違っていた。それは、ニナに説明したときに君もいたから知っているよね」
「聞いてたけど、それは全部失われたんじゃなかった? 今はもう魔法どころか当時使われていた言語すら解読されてないって、ジルが言ったんでしょ」
原初の国が亡びた後、混乱した人々は住む場所や指導者を求めて長い間争いを続けていたという。その中で原初の文化のほとんどが姿を消した。僅かに残った文献から現在とは違う言葉や魔法が存在したらしいというのは分かっても、それがどんなものであったかは誰にも分からないというのだから、もうそれは失われたと言っていいだろう。あたしの反応を予想していたのか、静かな首肯が返ってくる。
「魔法については、一番当時のものに近いのは神子の力じゃないかと言われているよ。用いる言語は違うけれど、魔力の使い方とか、そういうところは古い時代の神子のやり方がそのまま伝わったんじゃないか、って」
「じゃあ、ニナが聖地で居心地良さそうだったのはそのせいかしら。で、それがどう関係あるの?」
「原初の魔法……学者の間では古代魔法と呼ばれているけれど、それは今に比べてとても便利な魔法だったんだ。発動には魔法陣も呪文も必要なくて、少ない魔力で威力の強い魔法を使える」
そこまで言われて分からないほど馬鹿じゃない。思わず止めてしまっていた息をゆっくりと吐いて、あたしはジルを見上げた。彼は変わらず、穏やかに微笑んでいる。
「ジルがあのとき使ったのも、そうなのね」
「断言は出来ないけれど、ね。牢から逃げるとき、知らないはずの言葉や知識が頭の中に流れ込んできたから……これがかつて使われていた言語なのだとしたら」
「……何で、そんなのがジルに?」
当然のように浮かんだ疑問が、無意識のうちに口から零れ落ちた。ジルは確かに多くのことを知っているけど、存在しない物は知ることは不可能なはず。……何故か凄く嫌な予感がして、思わず彼の袖を掴む。けれどジルはあたしの言葉を聞いて、困ったように苦笑した。
「分からない。ただ、一つだけ予想していることがあって……僕はそれを確かめて、この力をちゃんと使えるようになりたい。だから、リザをアネモスに連れてきたんだ」
「どういう、……あたしをここに置いて行く気ね」
反射的に訊き返そうとするも、少し考えれば彼の言葉の裏くらい読み取れる。睨むように見上げれば、ジルは心苦しそうに目を細めて、けれどはっきり頷いた。「なんで」と呟いた声は自分でも分かるくらいに震えていて、ああやっぱり弱くなった、と内心で自嘲する。
「守るって言ったくせに、そうやって、また一人にするの?」
「一人にはしないよ。アネモスなら信頼出来る人がたくさんいる」
「そういう問題じゃないでしょう!」
思わず上げた手を、しかしそのまま振り下ろすことは出来なかった。寸前で自分を抑えて、ゆっくりと手を下ろす。その動きを目で追って、ジルは僅かに微笑んだ。
「また叩かれるのかと思ったよ」
「前叩いたときとは、状況が違うもの。……で?」
言い訳するならしろ、とばかりに彼を見上げる。ジルの手がそっと頬に触れて、いつの間にか一筋だけ流れていたらしい涙を拭い取った。
「ただ危険なだけだったら、守ると約束したんだから、君を連れて行ったと思う。だけど予想が正しければ、人の力ではどうにも出来ないことが起きるかもしれない。……怪我をしたり死んだりするようなことじゃないよ。ただ僕は、それに君を巻き込みたくない」
「……本当に、危険じゃないのね」
そう、怖いのはそこだった。あたしがこの城に残るのは、実を言うと構わないのだ。ジルの言った通り、信頼出来る人はたくさんいる。万が一何かあっても、今のジルはきっとすぐに助けに来てくれる。この間だって、来てくれた。ジルを信じているから、あたし自身の心配はしていない、けど。
「ちゃんと帰ってくる? 本当に、あたしの知らないところで、勝手にいなくなったりしない?」
慎みたいに、という言葉は呑み込んでも、何を言おうとしたのかは分かったのだろう。ジルは柔らかく微笑むと、そっとあたしを抱き締めた。大丈夫、と耳元で優しい声が囁く。
「もう、君を遺してどこかに行ったりしないよ。ちゃんと帰ってくる。それに、ここは僕の生まれ育った国だから、何かあったらすぐに駆けつけられる」
言いながら、ジルはあたしの手に何かを握らせた。彼の腕の中でそれを見て、あたしは思わず「これ」と声を上げる。藍色の中に金粒の散った、小さな石。見慣れた瞳と同じ色のそれが何であるか、分からないはずがない。見上げれば彼は悪戯っぽく笑って、自分の胸元に視線を下ろす。
「お返しだよ。……リザがくれた御守はちゃんと持っているから、僕は大丈夫。この石にはそういう力は無いけれど」
「……一つだけ、良い?」
顔を上げて訊ねれば、ジルは「何?」と首を傾げた。石を握る手にそっと力を込めて、あたしは言葉を続ける。
「もしあの力が無かったら、どうやって助けに来るつもりだったわけ? ジルのことだもの、何も考えてなかったわけじゃないんでしょ」
「禁術だよ」
事もなげに彼が答えたのは、よく考えればとんでもない内容だった。禁術というのは確か、各国で使うことを禁じられている魔法の総称だったはず。ぎょっとして見上げると、ジルからは苦笑が返ってくる。
「ああいう状況を無理やり突破する魔法も、一応知ってはいたからね。ただ、禁術は威力が強い代わりに使用者の命を削るから禁術なんだ。ソフィアを生み出した魔法はその中では一番負担が少ないけれど、それでも僕があの子を呼んだのは三度だけだっただろう?」
「命を……って、そんなのを三回も使って良かったの?」
「うん。魔力は回復するものだし、元々持っている魔力が普通よりずっと多いからね」
そうでなければ禁術なんて使わないよ、という言葉に、それもそうかと納得する。人間離れした魔力を持っているから、普通なら命を削るような魔法を使ってもあの程度で済んだのだろう。
「けど、魔法の使えない牢から無理やり逃げ出すとなれば、その程度じゃ済まない。……僕が君を喪いたくないのと同じように、リザの気持ちを考えたら、僕が死ぬようなことも出来れば避けるべきかなって」
選択肢として考えていた時点で失格だ、と言いたい。それでも自分のことなんて何とも思っていなかった頃に比べれば、それは確かに進歩と呼べるもので……だからあたしは一度だけ嘆息して、小さく微笑んでみせた。
「良いわ。信じて、大人しく待っててあげる。帰ってきたら、全部説明してくれるんでしょ?」
「もちろん。……本当に良いの?」
意外そうに目を瞬くジルに、黙って頷く。
彼を信じると決めたのはあたしだ。そうしてジルは既に、信じたあたしを助けてくれた。もし二度目があったとしても、絶対に助けに来てくれる。あたしはもう、それを知っている。だから信じるのは前よりずっと簡単なことだと、ただ、そう思ったのだ。
こんばんは、高良です。
くっつきました(物理)
と思いきやまた何かやらかしそうな主人公。良いのそれ? フラグじゃない? 大丈夫? ちなみに私はフラグだと思います。
ちなみに初期プロットでは第六部はこの辺りで終わりだったんですが、それじゃ短すぎるのでもうちょっと続きますよ。
では、また次回。




