第三話 鎖の音
「ぅ……」
目を開けるのも億劫になるようなだるさに、あたしは顔を顰めた。いつの間に眠ってしまったのか、ジルと領主の会話も途中までしか覚えていない。ゆっくりと瞼を持ち上げ、体を起こそうと手を動かしたところで、じゃら、と嫌な音が耳に届いた。
「っ!」
あたしが――よりによってあたしが、間違えるはずもない。鎖の音と、重み。恐る恐る手首を見れば予想通り金属の輪に繋がれていて、思わず乾いた笑いが浮かんだ。
「何で、また……こういうのばっかり」
足にもあるその鎖の先は寝台の四隅に伸びていて、長さに余裕があるから動く分にはそれほど問題はないものの、あたしをこの部屋から出さないようにしていることは明白だった。動けるだけ柚希の時よりましよね、と自分に言い聞かせて、無理やり震えを抑え込む。恐怖を認めれば、そこで折れてしまいそうだった。宝城柚希は、リザ=アーレンスは、強くなければいけないのだ。彼は弱くてもいいと言うけれど、頼ってほしいと言っていたけれど、強くなければジルの傍にはいられない。前世のあたしが弱かったらきっと、慎はあたしに対してもあれ以上の壁を作っていただろう。
何だ、と自嘲気味に息を吐く。その一点において、あたしはどうやらまだジルを信じ切れていないらしい。信じられる、と言っておいて……信じてほしいと、彼に告げておいて。自分勝手にも程がある。
「何だ、目が覚めたのか」
不意に聞こえたその声に、あたしはびくりと肩を震わせた。顔を上げればいつの間にか扉は開いていて、横柄な笑みを浮かべた領主が立っている。彼はあたしと目が合うとにやりと笑みを深め、ゆっくりとこっちに歩いてきた。……怖くない、怖がっちゃいけない。無意識のうちに手が痛くなるほど強くシーツを握りしめていることに気付いて、けれどそれを離すことは出来なかった。恐怖を悟られないように、キッと男を睨みつける。
「どういうこと?」
「丸一日眠れば薬も抜けたか。威勢のいいことだ」
「……どういうことかって、訊いてんのよ!」
ジルじゃあるまいし、流石にこの状況で落ち着いていることは出来なかった。早口で短い呪文を唱え、小さく魔法陣を描く。あたしは攻撃的な魔法は苦手だけど、相手が魔法を使えないのなら、脅かすくらいは出来るだろう。ところが指先に集めた魔力は、魔法として形を成す前に霧散した。
「なっ……」
信じられない、と目を見開く。もう一度試してみても結果は同じで、ただ無駄に魔力を減らしただけだった。そんなあたしを見下ろして、領主は満足気に目を細める。
「賢者と歌姫を捕らえるのに、何の対策もしていないわけがないだろう」
「っ、……ジル、は」
「安心しろ、お前が生きている限り殺しはしない。あんな男が一瞬でも生き長らえるのは腹立たしいが、あの方がそれを望んだからな。お前の亡骸を見た時の奴の顔が楽しみだ」
その言葉に、反射的に体が動く。寝台から転がり落ちてでも男から離れようとして、けれどそれは手足の鎖に阻まれた。それでもなおもがくあたしを嘲笑うように、奴はあたしを寝台の中央に引き戻し、そのまま押し倒してくる。視界に映る表情は、かつて柚希が一か月見続けたものとどこか似ていた。
「ぃ、あ」
怖い。一瞬でも思ってしまったそれに、頭の中が押し潰されそうになる。
嫌だ、嫌、怖い、痛い、慎どうして、怖い、違う、怖くなんてない、ここは前世じゃないのに、何で、あたしは何もしてないのに、何で――!
顎にかけられていた手がすっと首を滑り、服の上から胸をなぞる。漏れそうになる悲鳴をどうにか抑えて、けれど嫌悪からくる鳥肌まではどうしようも出来なくて、ぞくりと背筋に嫌なものが走った。狂気に満ちた嫌な笑みを見ていられなくて、思わず目を逸らす。
ジル、と心の中で叫んだ瞬間、男の手を弾くように薄青の火花が散った。
「ぐっ」
「……え?」
見覚えのある光に、あたしは目を見開く。
あれは半年ほど前だったか、アネモスでウィクトリアの狂王女と再会してしまったときに、ジルが放ったのと同じだった。魔力によって創られた障壁が物を弾くときの、あの光だ。一拍遅れてその魔力の正体に気付いたのか、領主は忌々しげに舌打ちした。
「悪足掻きのつもりか……小賢しい真似を」
「でも、これであんたは何も出来なくなったわ」
なおも怖がっている心を無理やり奮い立たせて小さく笑みを浮かべ、男を見上げる。それが気に障ったのか、返ってきた声ははっきりと分かるほどの苛立ちを含んでいた。
「今だけの話だ。いくら賢者といえど、魔法を封じられた状況で魔力を送り続けることなど出来まい。お前を守るその盾は、万能ではない」
そんなことは分かっている。けれどそう返すのは負けを認めることと同義で、沈黙する他になかった。あたしの魔法を封じてジルを放置するなんて、この領主はそんな馬鹿なことをしでかす男には思えない。だからきっと今頃ジルも魔法が使えない状況にいて、恐らく彼がこの魔法をかけたのは、あたしが連れ去られる直前のことなのだろう。魔法が効いたということは、あらかじめかけてあった魔法まで打ち消す術は持っていないようだけど、盾や結界の類の魔法は魔力を送り続けなければ維持することは出来ないのだ。ジルのことだ、いくらか長くもつように魔法を作ってあるのだろうけど、それでも魔力の供給がなければいずれ消えてしまう。
「あるいは、魔法を封じられた状況でも、こちらに魔力を送るだけならば可能かもしれんが……それをしたところで、賢者の消耗が増えるだけだ。奴が弱まれば魔法も消えるだろう」
「……それまでに、逃げてみせるわよ」
「たった今犯されかけた子供がよく言う」
馬鹿にするように笑う領主を、キッと睨みつける。
大丈夫。柚希のときとは違う。同じ世界に彼が生きている限り、最期の瞬間まで諦めて堪るものか。そう、何度も自分に言い聞かせた。
◆◇◆
「あー……」
一年ほど前にもこういうことがあったなぁ、と。目覚めてすぐに現状を把握した僕は、目の前の鉄格子を見て嘆息した。後ろ手に拘束されたまま、何とか体を起こして壁に寄り掛かる。殺風景とはいえ普通の部屋で、物理的な拘束は無いに等しかった一年前の方がまだましだったのかもしれない。
わざわざ確認しなくとも、魔法を封じられているのは少し意識すればすぐ感じ取れた。この鎖か、と僕は腕を僅かに持ち上げる。人の魔力を見れば相手が魔法を使えるかどうか何となく知ることが出来ると気付いたのは、しばらく前のことだった。だから、怪しいと思いながらも油断してしまったのだろう。魔法が使えずとも魔法道具は扱える、そんな当たり前の事実すら失念していた。カタリナにかけられていた魔法とは全く違う、僕の体への負担は少ないけれど、完璧に魔法を封じるようなもの。……体への負担が少ないというのはあくまでも「普通なら」の話で、今の僕に限って言えば話は別だった。
目を閉じて体内の魔力に意識を向ければ、さっき使った魔法に予想以上につぎ込んでいたようで、一度意識してしまうと魔力を使いすぎた時の脱力感や頭痛も襲ってくる。それでも、魔法をかけるのが間に合って良かった、と僕は息を吐いた。この鎖はあらかじめかけられていた魔法を打ち消す効果はないようだし、いつまでもつかは分からないけれど、時間稼ぎにはなるだろう。リザにかけた魔法は少し複雑なもので、盾が常時発動しているとか、そういう類のものではない。攻撃的な魔法と、リザが心から拒絶しようとしたものに対して防壁を張るもので、彼女がそういった危機に晒されなければ……あるいは使用者である僕が死んだりしなければ、半永久的に効果が続くものだ。
とはいえ、この状況で魔法が発動しないなんてことはないだろう。あの魔法が僕の魔力を使い切るまでに、どうにかここから脱出する方法を探さなければいけない。普段ならそれは難しくないことだし、カタリナの手の中にいたあの時でさえ可能だったけれど、魔法を一切使えない今の状況でそれはとても困難だった。僕とリザのどちらが目的なのかは知らないが、随分と手の込んだことをする。
「……いや、両方なのかな」
かつん、と響いた音に顔を上げる。牢の鍵を開けて入ってきた領主は、座り込んだ僕の目の前まで歩いてくると、僕が口を開く前ににやりと笑った。
「およそ一日か、予想以上の効き目だな。流石は我が主といったところか」
「……ネヴェイア公国は、アネモスと敵対するおつもりですか」
その言葉に一日近く意識を失っていたことを知るけれど、そんなことより確認しなければいけないことがある。彼が主と呼ぶ人間の正体については、気を失う前の会話を思い出せば大体想像はついた。けれど普通なら、貴族である彼が主と呼ぶような人間はその上に立つ国王くらいで、だとすればこれは立派な宣戦布告である。だからそう訊ねてみたのだけれど、案の定、彼は不快そうに眉を顰めた。
「まさかお前はあの平和ぼけした年寄りのことを言っているのではあるまいな。私が主と認める方は、太古の昔よりただ一人のみだ」
「太古の……昔?」
王でないのならやはり『彼』なのだろうと確信する。けれどその後の言葉が、妙に引っかかった。それ以上考えるなと警告するかのように、ずきん、と頭が痛む。幸いにも僕が僅かに眉を顰めたことには気付かなかったのか、領主は嘲笑うように口角を上げた。
「そんなことは今はどうでもいい。あの子供はまだ眠っているが、起きた時の反応が楽しみだな。明日をも知れぬ身で、賢者も役に立たないときた」
「……さて」
それはどうでしょう、と強がるように微笑んでみせると、彼は苛立ったように目を細める。そのまま何の予備動作もなしにすっと上げられた足が、昨日蹴られたのとほとんど同じところに勢いよくめり込んだ。
「っ、ぐ……」
幸か不幸か、背後に壁が存在したおかげて昨日のように吹き飛びはしなかったものの、代わりに背中を強打する。顔を歪める僕を見下ろし、領主は憎々しげに吐き捨てた。
「貴様のその傲慢な態度が気に食わないのだ、賢者よ! 忌々しい……あの方の命令さえなければ、すぐにでも八つ裂きにして魔物どもにくれてやるものを!」
「そこまで恨まれるようなことを、した覚えはないんですがね……」
嘆息交じりに呟いた言葉に対して返答はなく、彼は鼻を鳴らすとそのまま踵を返し、去っていく。引き留める気も起きず、僕は壁に背を預けて大きく息を吐いた。さっき打ち付けたところが痛むけれど、それについては無理やり意識の外に追いやる。
彼の言葉を素直に認めるのは悔しかったから強がりはしたものの、僕が役に立たないというのは、今のこの状況では事実だった。昨日使った魔法のせいで、残っている魔力はほとんど無いに等しい。ここで休んでいればそのうち回復するかもしれないが、魔力が戻ったところで魔法が使えなければどうしようもないのだ。そもそも、この環境では回復する量もそう多くはないだろう。リザにかけた魔法の効果が切れてしまえば、僕にできることは本当に何もなくなってしまう。
胸元に意識をやれば、彼女がくれた薄紅の石の重みは、まだ服の下に存在していた。拘束のせいで触れることは出来ないけれど、それが奪われてはいなかったことにひとまず安堵する。
「……一ヶ月、くらいかな」
リザを護るものが無くなるまで。領主は魔法の存在に気付けば、間違いなくそれを破ろうとしてくるだろう。そのたびに防壁が発動したとして、もって一ヶ月。その間に魔力を回復させて、そして見つけなければいけない。この牢を破る術、リザを助け出す術を。
守りたいと思った、そんな僕の心に、もう嘘を重ねないために。
こんばんは、高良です。
(また)捕まってしまった二人。領主の狙いはどうやらどちらかというとリザのようですが、その裏にいるのは……?
ところで第六部はリザいじめ回と言っておきながら三話目にしてジルが蹴られるの二回目です。何でや。
では、また次回。




