第十五話 賢者が騙るは
「……っ」
意識が覚醒すると同時、目に重い痛みを感じて僕は顔を顰めた。力の入らない腕を上げて右目に触れると、包帯らしき布が巻かれているのが分かる。布越しに傷に触れてしまったのか、再び激痛が走った。
僕はゆっくりと息を吐き、再びそっと包帯に触れて天井を見上げた。見慣れた装飾。どうやら、王城の僕の部屋のようだ。城で怪我をしたのだから、運ばれるのはここか治癒の塔のどちらかに絞られるけれど。
たった今まで見ていた夢に対する感情は、恐ろしいほどに薄かった。『ジル』として生まれてからの十七年、殆ど毎日見続けてきたものなのだ。最期だけはっきりと、というのは比較的珍しいけれど、それだって全く無かったわけではない。何回も、何十回も、何百回も何千回も、夢の中で死を迎えた。今更それが一回増えたところで、何を思えというのか。
……ただ。真澄に――ハーロルト様にそれを思い出させてしまったのは、完璧に失態だった。今まで僕がこの国にいられたのは、クレア様の傍にいることに耐えてこられたのは、彼女が何も覚えていなかったからに他ならない。ハーロルト様が現れてからも、彼が僕のことを忘れている限り、僕は前世と今世を切り離して過ごしていられたのだ。彼女は咲月ではないと、彼は真澄ではないのだと、そう自分に言い聞かせて。
全てを思い出したのなら、彼は恐らく僕を『慎』として扱うだろう。かつて在った、あの雨の日に失った関係を取り戻そうと、当時のように接してくるだろう。
そうなったとき、僕は……それでもなお、『ジル』でいられるだろうか。
「……さて」
一息つき、僕は半ば無理やり体を起こした。あちこちにある傷が、刺すように痛む。右目の鈍痛も未だ健在なわけで、あちこちに包帯の巻かれたこの状態を軽傷と呼ぶのは無理があるだろう。
けど、歩くことは出来る。
意識が無い間に着替えさせられたらしい服を脱ぎ、適当に取り出した服に着替える。基本的に城でしか過ごさないからと普段着と仕事着を兼ねているため、この格好で国王陛下にお会いしても何も問題はない。
重い腕に悩まされながら何とか着替えを終えると、僕は立ち上がった。血を流しすぎたのか、それとも片目が使えないためか、僅かに霞んでいてはっきりしない視界。ふらつく足を無理やり動かして、部屋を出る。
鐘がいくつ鳴ったのかは分からないため正確な時間もまた分からないが、窓の外が暗かったためもう夜だろうか。時折すれ違う、見慣れた城の使用人たちが、包帯だらけの僕を驚いたように見つめてくる。それでも声をかけてこないのは、僕の表情に圧されたせいか。
謁見の予定が入っていなければ、陛下は執務室にいることが多い。現に今も室内には人がいるようで、目の前の扉からは何事か言い争うような声が聴こえてきた。
僕は覚悟を決め、その扉を叩く。
「開いている、入れ」
「……失礼します」
「先生っ!」
頭を下げ、中に入る。それと同時、悲痛さすら窺わせる声色で王女が叫んだ。こちらに駆け寄りかねない彼女の腕を、シリル様が掴んで引き留めている。その彼もまた、心配そうな、そしてどこか不安そうな表情で僕を見つめていた。
「立ち歩いて大丈夫なのか、ジル。出血が多かったと聞くが」
「見た目ほど大した怪我ではありませんので。確かに少し貧血気味ではありますが……お話しなければならないことも、色々とございますし」
僕の言葉に、ほう、と目を細める陛下。僕はそこで一度言葉を切り、室内を見渡した。
狭くはないものの、広いともいえない執務室。その中にいる人間もそう多くはなく、陛下と僕、シリル様とクレア様、ハーロルト様、そして父様の六人だけだった。僕が入室してもちらりと視線を向けるだけで何の反応も示さなかった父は、険しい顔でやり取りを眺めている。
「クレアとハーロルト殿から話は聴いている。事実か?」
「どこまでお聴きに?」
僕の問いに、陛下は僅かに顔を顰める。
「ハーロルト殿が突然お前に襲い掛かり、殺そうとしたのだと……信じがたいが、ハーロルト殿も否定はしておらん」
「……そう、ですか」
その言葉に僕は嘆息し、二人を見る。ハーロルト様は僕と目が合った瞬間辛そうな顔で俯き、クレア様はそんな彼を睨んで、不安そうな目を僕に向けた。
そんな二人に、僕は微笑む。その途端右目に走った、引き攣るような痛みに顔を顰め、僕は陛下に視線を戻した。
そして再び微笑み、その言葉を放つ。
「いいえ、違います。恐らく、お二人とも混乱しているのでしょう」
「なっ――」
「先生っ!?」
絶句するハーロルト様と、叫ぶクレア様。対照的な二人には目もくれず、陛下はじっと僕を見る。
「どういうことだ? 説明してくれるな、ジル」
「ええ、もちろん」
僕は首肯。あの場所には、全く人がいなかった。僕たちが騒いでも、しばらくは誰も来なかったほどに。そういう場所を、ハーロルト様は選んだ。それを利用する。
「どこから入り込んだのかは分かりませんが、賊らしき人間が現れてクレア様に攻撃を仕掛けてきたのです。もちろん僕も応戦しましたが、予想以上の強さに苦戦してしまって」
「その傷はそのせいだ、と?」
「はい。ですが危ないところでハーロルト様が駆けつけてくださって、そのおかげでクレア様は無事だったのです。ハーロルト様はそのまま賊を捕らえようとしたのですが、僕が足手まといになってしまって、取り逃がしました」
「ほう」
陛下の目が細まる。恐らく、これが嘘だということくらい分かっていらっしゃるのだろう。けれどそれを口にしているのが僕――『風の国の賢者』である以上、深く追及するわけにもいかないといったところか。賢者のなすことには必ず何か意味がある、この国の人間はみんなそう思ってくれているのだから。それが正しいとは、限らないけれど。
「では、非はお前一人にあるというのだな、ジル。ハーロルト殿ではなく」
「お父様!?」
悲痛な声を上げてもがくクレア様を、シリル様が必死に抑えつけている。そちらに少しだけ視線を向け、僕は首肯した。
「はい。全て、僕の弱さが招いたこと。ハーロルト様は、クレア様を守っただけです。クレア様は非常に動転しておられましたから、記憶が朧気なのではないかと」
視界の端、ハーロルト様が目を見開くのが分かる。けれど、彼はクレア様のようにこちらに駆け寄ってこようとはしなかった。それが『真澄』としての罪悪感から来るものか、それともグラキエスの王子としての立場から来るものなのかは、判断しかねるけれど。いや、その両方だろうか。
陛下は少しの間目を閉じて考え込むと、顔を上げて再び僕を見据えた。
「お前の話は信じよう。だが、罪には問わん。結果的にクレアは助かったのだからな、今後このようなことが無いように気を付けるならば許そう」
「……それは」
「不服か?」
思わず言い返しかけた僕の言葉を遮るように、彼は僕を見る。頷きたいのを堪え、どう答えたものかと一瞬だけ迷った。
「お言葉ですが、陛下」
その静寂を破ったのは、今まで黙っていた父だった。驚いたのは僕だけではなかったのか、陛下が驚いたように父様の方を見る。
「何だ、ドミニク」
「ジルの処遇に関しては、私に任せて頂きたい」
「罪には問わない、とたった今言ったであろう。余の言葉に逆らうか、公爵」
「ジルとて公爵家の人間です。王女殿下を危険な目に遭わせておきながら何の処罰も無いのでは、他の貴族も納得は致しますまい」
「ジルは『賢者』だ。それでは不十分か?」
「不十分です。その程度では言い訳にはなりません」
いつの間にか僕を放って言い争っている二人を眺める。……これで若い頃からの親友だというのだから、この二人の関係もよく分からない。
やがて、陛下は諦めたように嘆息し、僕の方に向き直った。
「分かった、この件についてはお前に一任しよう。だが、どんな罰を与えるにせよ、せめてジルの傷が癒えるまで待ってやれ。本来ならここに立っているのも辛いのではないか?」
「いえ、そんなことは……」
否定しようとした矢先、再び貧血が僕を襲う。ふらつきながらも何とか踏みとどまる僕を見て、陛下は呆れるような表情を浮かべた。
「あまり無理をするな、ジル。完治するまでとは流石に言わぬが、せめて普通に出歩けるようになるまでは休んでいるがよい。部屋に戻れ」
「……はい」
彼の言葉に、僕は素直に退室し、自室へと引き返した。
少し歩いたところで、早足でついてくる足音に気づく。立ち止まって振り返ると、父が僕の後を追いかけてきていた。
「父様。どうなさったのですか」
「息子の心配くらいさせてくれ、ジル。お前は自分が死にかけたことを自覚すべきだ」
苦笑する父様。……死にかけた、か。かつての死の記憶があるせいかあまり実感は湧かなかったが、よく考えてみれば確かに一大事である。父様が普段と同じように振る舞っているのが不思議なくらいだ。
「すみません、父様」
「謝ることではないといつも言っているだろうに」
父は再び苦笑し、その表情を引き締めて僕を見る。
「それで、何故あんなことを言った?」
「……やはり、信じてはくれませんでしたか」
今度は僕が苦笑。騙せるとも思っていなかったけれど、それでも少しは疑ってくれるとありがたかったのだが。
「誰だって分かるだろう。クレア様やハーロルト様の、お前がお二人の言葉を否定した時の顔を見れば、な。確かに事件直後のお二人は混乱なさっていたが、今は正常だ。第一、あんな城の奥深くに、どうやって賊が入り込む」
「それは……僕も思いましたけれど、その程度なら問い詰められても論破できそうでしたし」
「無駄なところで才能を使うな」
呆れ顔で僕を見る父に微笑を返し、自室の扉を開ける。中に、そして廊下にも誰もいないことを確認して、僕は父を部屋に招き入れた。次いで、扉に小さく指で魔法陣を描く。アネモス語で小さく呟いた言葉に反応し、魔法陣は一度光った後で空気に溶け込むように消えた。
一連の流れを見て、父が目を丸くする。
「それは……魔法か? いつの間に覚えた?」
「つい最近、です。具体的にはハーロルト様が来てからですね」
魔法。理論上は誰にでも使えるとされる異能力。
アネモスやグラキエスのように古い国には、かつて使われていた『古語』と呼ばれる言葉がある。それらは国ごとに違う属性を帯びていて、魔法陣とその言葉を共に使うことで人は魔法を使うことが出来るのだ。古アネモス語であれば風の力、グラキエス語ならば氷の力というように。
「今のは消音のようなものですね。この部屋の外に声が漏れないよう」
「ほう。では、何故嘘を騙ったのか、話してくれるというのだな? お前のことだから私相手にも隠し通すだろうと思っていたのだが」
「ええ、そう思っていたのですが……ついさっき、状況が変わりまして」
この件が父様に一任されてしまった以上、彼の協力なくして僕の目的は成し遂げられないから。
全てを――生まれたときから隠してきた全てを、話さなければいけない。僕にとって都合の良い部分だけを話して肝心なところを隠すのは、いつも僕を心配してくれている、先ほど僕の異変に気づいて助け船を出してくれた父への裏切りに他ならないから。
訝しげな表情を向けてくる父に向かって、僕は微笑んだ。
「どうぞ、座ってください。長くなりますから」
こんばんは、高良です。待っていてくださった皆さま、お待たせしました。少し間が空いてしまいましたが、それでも予定より早く更新再開できました。
目覚めた彼は、躊躇うことなく事実を捻じ曲げました。当事者である他の二人の言葉をまるで無視して。理由を知らずとも彼に加勢した父に、ジルは今度は何を語るのでしょうか。
では、また次回。




