番外編・四 そして青年は覚悟を決め
最近、シルヴィアの様子がおかしい。僕を避けている、というのは流石に被害妄想だろうが、会話をしている時もどこか落ち着かない様子で、すぐに切り上げて逃げるように立ち去ってしまうのだ。何かしただろうか、と思い返してみても、特に心当たりは無いから余計に不可解だった。もちろん、僕が気付いていないだけで、彼女の気に障るようなことをしてしまった可能性もあるが。
シルヴィアがアネモスに来てから、もう一年が過ぎた。彼女の心優しい人柄がそうさせたのだろう、少し心配していた貴族や使用人たちとの不和も無く、皆シルヴィアを好いている。アドリエンヌと仲が良いから、というのも大きいのかもしれない。あれもまたアネモスとは違う国の出身でありながら、瞬く間に城に溶け込んだのだから。半年前に城下に行ってから、たまにああして二人で出かけるようになったが、そのたびに彼女は楽しそうにそれを報告してきた。……その城下にも、ここ最近は行っていないのだが。
「……どうしたものか」
執務室に向かう廊下を歩きながら、苦い顔で嘆息する。そもそも、原因も何も分からない時点で僕にはどうしようもない。散々言われるだろうが、これは腹を括ってドミニク辺りに相談するしかないだろうか。そんなことを考えながらふと顔を上げたところで、対面から歩いてくる少女の姿に気付いた。
「シルヴィア?」
「えっ? ……あ、え、フェリクス様?」
目が合ったのはほんの一瞬のことで、シルヴィアはすぐに顔を逸らす。何故だかその様子がとても可愛らしく思えて、僕はそんな考えを悟られないように首を傾げた。
「執務室から出てきたようだが、余に何か用だったのか? すまん」
「いえ。その、……ドミニク様からいらっしゃらないと聞いて、ちょうど部屋に戻るところでした。お話しておきたいことがあって」
「話?」
聞き返すと、彼女は俯く。まるで話したくないとでも言いたげな、どこか泣きそうにも見える表情に、僕は思わず手を伸ばした。しかし手が触れる直前、シルヴィアはびくっと肩を震わせる。咄嗟に手を引っ込めると、少女は「あ」と声を漏らす。刺さるような心地の悪い沈黙を挟んで、彼女は唐突に身を翻した。
「シルヴィア――」
呼び止める声も聞かず走り去る影を、僕は呆然と目で追う。追いかけようとも思ったが、果たして彼女はそれを望んでいるのか。考え出すとどんどん悪い方向に行ってしまって、踏み出すことは出来なかった。代わりに深く嘆息すると、僕はすぐ近くの執務室に向かって歩き出す。扉を開けると、部屋に残って政務を片付けていたドミニクが顔を上げた。
「シルヴィア殿下が来たぞ」
「ああ、知っている……すぐそこで会った」
沈んだ顔で今しがた起こった出来事を話すと、彼は僅かに沈黙する。しかし次の瞬間、耳に届いたのは吹き出す声だった。顔を上げると、ドミニクは面白くて仕方がないとでも言いたげに肩を震わせている。笑いを堪えようとしている点は評価してやるが、それにしてもあまりに失礼な反応だ。
「おいドミニクっ、僕は真剣に――」
「動じたくらいで素を出すな、馬鹿」
「誰のせいだと思っている!」
そんなやり取りを経てようやく落ち着いたらしいドミニクは、「いや、すまん」と苦笑して僕に向き直る。
「では、殿下の話は聞いていないんだな?」
「ああ。聞こうとしたら逃げられたからな」
苦い顔で頷くと、彼は再び面白そうに目を細めた。
「年内に一度クローウィンに帰るらしい」
「は? ……シルヴィアが、か?」
「それ以外に誰がいる? そろそろアネモスにいらして一年だ。あちらの王も流石に愛娘が恋しくなったのだろう。最近は倒れることも少なくなったからな、彼女は何も言っていなかったが、場合によってはそのまま帰ってこない可能性も――」
がたん、と響いた音がドミニクの言葉を遮る。一拍遅れて、それが自分の椅子が立てた音であったことに気付いた。無意識のうちに立ち上がった僕を見て、彼はくくっと笑う。
「だから考えておけと言ったんだ。一年前も親切に訪ねてやっただろう、殿下に惚れたのかと」
「……何度も言っているだろう、シルヴィアは子供だぞ」
「もうすぐ十五になる方をいつまでも子供扱いしていては嫌われるぞ」
「お前だって十五の頃はまだアドリエンヌに対して喧嘩腰だっただろうに」
反撃のつもりで何気なく漏らした言葉に、ドミニクはぴくっと眉を寄せた。……しまった、失敗だったか。思わず身構えるも、彼は不機嫌そうに目を細め、意外にも首肯を返してくる。
「そうだな。義父に……当時はまだそうなるとは思わなかったが、彼に言われなければ認めようともしなかった」
「お前の女嫌いは凄まじかったからな」
当時を思い出して思わずにやりと笑うと、同じことを考えたのだろう、ドミニクは顔を顰めて黙り込んだ。言い返す言葉が見つからなかったのか、少しして彼は疲れたように嘆息する。
「私のことは今はどうでもいい。話を逸らすな。フェリクス、お前、自分が今そうしてくだらないことで悩めるのはシルヴィア殿下のおかげだと自覚しているのか」
「くだらな……いや、どういうことだ?」
確かにこの状況は、ドミニクから見ればそう見えるのかもしれない。反論をやめて訊ね返せば、どこか厳しい響きを伴う言葉が返ってきた。
「お前に妃をという声は、この一年で確実に大きくなっているんだ。娘を差し出そうとしている貴族も増えた。お前に直接言う者がいないのは、殿下が城にいて、お前と親しくしているからだ。お前があの方を王妃にと考えている可能性がある限り、奴らは手出しできない。王の機嫌を損ねては逆効果だからな。だが、シルヴィア殿下がクローウィンに帰還なされば――一時的な帰国ではなく、もうこちらに戻ってこないのだと分かれば、その可能性は薄くなる。無くなるわけではないが、その時お前はまだ殿下をそういう対象として見てはいないのだと示したことになるんだ。貴族たちが動くには十分だろう」
「……動く、とは、具体的には」
「下手をすれば後宮が復活するだろうな。四代ぶりか」
「っ」
噎せた。
手に持ったカップから茶が溢れるのをどうにか回避し、呼吸を落ち着かせる。抗議しようと顔を上げるが、彼の顔は真剣そのものだった。けれど流石に今の言葉は認めたくなくて、僕は乾いた笑いを浮かべる。
「本気か?」
「もちろん本気ですよ、陛下」
ふっ、と彼の纏う雰囲気が変わった。思わず息を呑む僕を、彼の夜空の瞳は真っ直ぐに見据えてくる。
「貴方はもう少しご自分の立場を自覚なさるべきです。迷いが許される時は、もうとっくに過ぎ去っている。真に風の国の王であろうとお思いならば、いい加減に覚悟をお決めください。愚鈍な王に我らは従いません。トゥルヌミールの傀儡となった王は、数こそ決して多くはありませんが、それでもアネモスの歴史の上に確かに存在するのです」
「……ああ、そうだな」
友人としてではなく、公爵として。底冷えするような声で告げられたそれは、紛れもなく忠告だった。刺すような視線に背筋が凍るが、ここで何も言葉を返せなければ、本当に僕は貴族としての彼に見限られるだろう。それは、何としてでも避けたかった。僕にも矜持というものはある。
「余とてそのような事態は避けたい。忠告感謝する、公爵」
「及第点だな」
何とか返した言葉に、ドミニクはにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「謝りでもしたら本気で見捨てているところだ。命拾いしたな、フェリクス」
「……お前、貴族たちに対してはいつもそうなのか? だとしたら同情するぞ」
「時と場合によりけりだな。それより、忠告を聞き入れたということは、決めたのか?」
彼は肩を竦めると、探るような目で僕を見る。「ああ」と頷くと、僕はすっと立ち上がった。ドミニクを見下ろし、誓うように宣言する。
「余はクローウィン王女シルヴィア=イースデイルを妃として迎える。異論はないな」
「もちろんです、フェリクス陛下。貴方が決断なさったことであれば」
彼は一瞬だけ面白そうに目を細めると、僕の眼前に片膝をつき、すっと頭を下げた。
「御意に」
囁くその様子まで絵になっているのが少々気に食わないが、これに文句を言うのは流石に理不尽というものだろう。整った容姿を持った人間は得である。顔を上げた友人に、僕は再び「感謝する」と笑った。
◆◇◆
やってしまった、と我に返ったのは部屋に戻り、勢いよく扉を閉めた直後のことだった。普段は滅多に走ったりしないせいだろう、部屋に控えていた侍女たちが驚いたように駆け寄ってくる。事情を説明しようにも息が上がってしまって、どうしたものかと慌てたところで彼女らを止める声が響いた。
「シルヴィア様、何かあったのですか?」
「アドリ、エンヌ……来て、いたのですね」
「はい。侍女の皆さんが、すぐに戻っていらっしゃるからと。……お茶をお願い出来ますか。何か、心の落ち着くようなものを」
灰藍の髪の公爵夫人はにこりと涼しげに微笑むと、そう言って侍女たちを下がらせる。部屋にわたくしと彼女しかいなくなったところで、アドリエンヌはどこか面白そうに覗き込んできた。
「フェリクス陛下と、何か? 例のことを話に行かれたのでしょう」
「……っ、その、それはそうなんです、けれど……逃げてきてしまって」
「逃げる? 陛下からですか」
その問いに、ふっと心の奥で何かが決壊する。説明しようとした声は言葉にならず、気付けばわたくしはアドリエンヌに縋りつくようにして泣きじゃくっていた。彼女は困った様子も見せず、「あらあら」と背中を擦ってくれる。どれだけそうしていただろうか、わたくしが落ち着いてきたところで、アドリエンヌは静かに訊ねてきた。
「少しはすっきりしましたか?」
「はい、……ごめんなさい、アドリエンヌ」
「いいえ。そうして頼って頂けるのは可愛い妹が出来たようでとても嬉しいのですが、あまり貴女を泣かせるとどこぞのお人好し陛下がうるさくて。……シルヴィア様、最近あの方を避けていらっしゃるようでしたね。今日に限らず」
「避けていた、というわけではないのですけど」
けれど、確かにそう見えても仕方ないのだろう。フェリクス様にも恐らく不審に思われていただろう、という自覚もあるのだ。それでも、自分ではどうしようもなくて。
「フェリクス様とお話するのは、とても楽しいのです。一緒にいると胸の奥が暖かくて、けれど落ち着かなくて、訳が分からなくなって逃げてしまって……アドリエンヌ?」
気付けば彼女はどこか驚いたような顔で、わたくしを凝視していた。滅多に見ないその表情に思わず首を傾げると、アドリエンヌは「ああ、いえ」と首を振る。
「私もドミニク様に想いを告げられるまで自覚しなかったものですから、あまり人のことは言えないのですが……シルヴィア様、それは恐らく、恋というものでは?」
「……え」
その言葉の意味を理解すると同時に、かあっと顔が熱くなるのが分かった。漏れた声は裏返っていて、どうにか平静を保とうとする。
「わ、わたくしが、フェリクス様に恋をしている、と?」
「ええ。その様子は、図星でしょうか」
そんなわたくしを見て、彼女はくすっと笑った。否定は出来なかったけれどそれをすんなり受け入れることも出来なくて、「で、でも」と声を上げる。
「フェリクス様は大人で、国王陛下で……わたくしは、まだ子供で」
「あら、陛下より年上の私とは友人ではないのですか?」
「そ、それは」
違う、と俯く。アドリエンヌはこの国で出来た、大切な友人だ。再び泣きそうになったところで、ふわり、と頭に優しく手を置かれた。そのまま頭を撫でると、彼女は椅子に座ったままのわたくしの目の前に両膝をつく。呆然と見下ろすと、深い藍色の瞳が優しい色を灯して見上げてきた。
「貴女が国のためではなく自分の意志でそうしたいと思ったなら、そのときには協力を惜しみませんよ、と。シルヴィア様がアネモスに来たときに、確かに私はそう言いました。年齢など問題ではないのですよ。……貴女は、どうしたいのですか?」
「……わたくし、は」
アドリエンヌの落ち着いた声は、いつもと同じように、不思議なほど心に沁み透った。今まで悩んでいたのが嘘のように、答えはすんなりと出てくる。
「フェリクス様が、好きです。あの方の治めるこの国はとても優しくて、温かくて……だから、アネモスにいたいと思うのです」
父や兄は反対するかもしれない。そろそろ一年が経つのだから一度帰ってこいという言葉の、その裏に隠された意味は、わたくしとて分かっている。心配してくれているのだ、ということも……彼らの愛も、ちゃんと分かっている、それでも、風の国を選ぶのだ。愛する人の傍にいたいと、そう思ってしまったのだ。
泣きそうなままのわたくしの言葉に、アドリエンヌは「はい」と優しく微笑んだ。
こんばんは、高良です。
何か今回国王夫妻の話のはずなのに全体的に公爵夫妻がとてもとても格好良くて戸惑っているのですが読者の皆様も同じ気持ちを抱いて頂けているのでしょうか。ドミニクさんはともかくアドリエンヌさんまでイケメンだとか聞いてない。っていうか王族に及第点つけるの公爵家で流行ってるんですか。シルヴィア様が予想外に可愛くなってしまったんですがこの母からあの双子が生まれたの明らかにおかしい。間違いなく父に似たんだと思います。
番外編も残り一話です。それが終わったらやっとジルリザです。予告は次に回しておきましょう。
では、また次回!




