番外編・一 王女はそっと微笑んだ
「初めまして。クローウィン王女、シルヴィア=イースデイルと申します。……陛下?」
「……あ、ああ」
目の前の少女が頭を下げるのに合わせて、薄い金色の髪がさらさらと揺れる。顔を上げた彼女が訝しげに首を傾げたところで、僕はハッと我に返った。宝石のように透き通った青の瞳に、曇りの無い白い肌。まだ幼さが残るが、それでも滅多に見ないほど整った顔には、王女らしく気品に溢れた、穏やかな微笑が浮かぶ。……だからと言って、まさか見惚れていたとは言えまい。動揺を悟られないよう、僕は『大国の王』らしい鷹揚な態度で笑みを作った。
「遠いところをよく参られた、シルヴィア王女。余がアネモス国王、フェリクス=フォル・デイ=アネモスだ。こうして会えたことを嬉しく思う」
「いいえ、本来ならわたくしも父と共に、戴冠式の際に伺わなければいけませんでしたのに……フェリクス陛下におかれましては、何事もなく即位より二年を迎えられましたこと、父王に代わりまして心よりお祝い申し上げます」
「ありがとう。二年前には貴女の父君にもずいぶん世話になった。息災そうで何よりだと伝えてくれ。……侍女に部屋まで案内させる。長旅で疲れているだろう、夜まではゆっくり休むと良い」
今年で十三になったという神国王女シルヴィアは生まれつき病弱で、年齢のこともあり表に出てくることは少ない。今回の訪問も、ここが風の国アネモス――かつて世界を四分していた大国の一つであるからと無理をしたのだろう。一昨年の戴冠式では国王が直々に来たし、去年の式典では彼女の兄である王太子が来た。王女のことはその両方から聞いていたが、まさか本当に来るとは思わなかった、と言うのが正直な感想である。魔法である程度短縮出来るとはいえ、風の国と神国とは決して近くはないのだから。律儀と言うか、こういうところは流石、信心深く誠実な人間が多いクローウィンの王族だ。
即位二年目を祝う式典は数日後だが、各国からの使者の中には既に到着している者も多く、この城では連夜舞踏会が開かれていた。病弱で、まだ成年に達してもいない少女が無理に参加する必要はないと思うが、恐らくこの少女は出ると言うのだろう。そう思って声をかけると、王女はどこか恥ずかしそうに微笑んだ。
「ええ、そうさせて頂きます。あまり頻繁に乗らないせいかもしれませんが、馬車はいつまで経っても慣れなくて」
「……回数の問題ではないのだろうな、恐らく。余も馬車は苦手だ」
「まあ」
毎回酷く酔うことを思い出して苦い顔で呟けば、シルヴィア王女は意外そうに目を丸くする。微笑と共に放たれた「お揃いですね」という言葉に、胸の奥が一瞬だけざわめくように揺れた。そんな僕の動揺も知らず、王女は一礼する。
「では、失礼致しますね。陛下。また後ほど」
「ああ、また」
侍女について出て行く王女を見送り、そのまま廊下の方に耳をすませる。王女と共に神国からやってきた付き人たちも共に行ったのか、人の気配は遠ざかって行った。しかし入れ違うように、藍色の髪の青年がノックも無しに入ってくる。
「終わったようだな」
「……礼儀というものは何処へ行った、公爵」
「その辺りに置いてきた」
扉の方を視線だけで示すと、ドミニクは僕に断りもせず目の前の椅子に座った。今更この男に何を言っても無駄か、と嘆息すると、僕はその対面に腰を下ろす。そもそも随分昔になるが、こいつがグリモワールに留学するよりずっと前まで記憶を辿れば、他の臣下たちがいないときには友人として接して欲しいと言ったのは僕の方だった。実際、公の場ではドミニクは公爵として文句無しの接し方をしてくるし、彼の他に同年代の親しい友人がいないのも、認めるのは癪だが事実である。
「で、どうだった?」
「何がだ」
「王女だよ。シルヴィア殿下だ。私も直接見るのは初めてだからな」
「どうだったとは、彼女に失礼だろう」
不敵に笑うドミニクに、僕は嘆息を返した。まったく、どちらが王なのか分かったものじゃない。半年前に公爵位を継いだばかりのこの男はそれ以前から自分に敵などいないとでも言いたげな自信に満ちた振る舞いをしていて、心強いがこういう時には少々反応に困る。もちろん彼にも弱点があること……実の両親や半年前に妻になったばかりの女性には勝てないことは、よく知っているのだが。
「……まさに箱入り娘、といった感じだった。流石に王女らしい振る舞いは身についているが、まだ子供だ。アドリエンヌとは真逆だな」
「うちの妻と比べるのは可哀想だろう。環境が違いすぎる」
大体お前も人のことは言えないだろうに、とドミニクが苦笑する。遠回しに子供と言われたわけだが、彼の方が二歳上である以上、それは否定できない。彼がアドリエンヌと出会ったのがちょうど十代前半……シルヴィアと同じくらいの頃だったはずだが、ドミニクの言う通り、この二人に一般論を当てはめるのは間違いと言えた。現在の公爵夫人がアネモスに来てからは彼女とも親しくしているが、あれは明らかに常人の域を超えている。昔から何事にも非凡な才能を見せていたドミニクが彼女を選んだのは必然と言えた。
それよりも一つ気になったことがあって、僕は「で」と彼を見る。
「何故そんなことを訊く? ドミニク」
「……お前が即位して、もう二年だからな」
返ってきたのは答えにはなっていない、どこか疲れたような嘆息だった。それだけでは伝わらないのは分かっているのだろう、ドミニクは呆れるように目を細め、椅子に体重を預けて前髪を掻き上げる。
「二年前の戴冠式の時点で、心からお前を王と認めている者はいなかった。悪い意味で歓迎はされていたかもしれないがな。若くて経験も圧倒的に足りない王だ、付け込む隙はいくらでもある。他国だけじゃない、国内の貴族にすら軽んじられていたんだ。それはお分かりですね、フェリクス陛下?」
「分かっている。嫌と言うほどな」
皮肉交じりの敬語に苦い顔で返せば、彼はふっと表情を和らげた。
「いつまでもそうだったらとっくに見捨てているところだが、幸いそうはならなかったな。他国の奴らも、やっとフェリクスを風の国の王として認める気になったらしい。それは良いが、そうなるとまた別の問題に対して煩い奴らが湧く」
「別の問題?」
「ああ。……いや、これはまた日を改めて話そう。私も忙しくてな。親睦を深めるのは大いに結構だが、何も毎晩羽目を外す必要は無いだろうに」
「同感だ」
ドミニクの言う問題とやらは気になるが、彼の多忙さはよく分かっている。僕がこなせない政務をドミニクが引き受けていることを考えると、あまり追求は出来なかった。いずれ話してくれるというのなら、大人しくそれを待ったほうが早いだろう。だから彼の言葉に、僕は嘆息だけを返した。
◆◇◆
「良いお部屋ですね、姫様」
案内された部屋を一通り確認して、普段から共に生活している侍女の一人がそう呟く。わたくしは「ええ」と微笑むと、中央に置かれた椅子にそっと腰を下ろした。装飾は決して華美ではない。けれどよく見れば使われているのは全て上質なもので、それが余計に大国としての貫禄を生み出していた。別な侍女にお茶の用意を頼み、大きく息を吐く。
「それにしても、緊張しました」
「姫様はこういったご挨拶は初めてですものね。ご立派でいらっしゃいましたよ」
「本当ですか?」
緊張して死にそうだったのだけれど、王女らしく振る舞えただろうか。大きな失敗をしなくて良かった、と胸を撫で下ろし、わたくしは悪戯っぽく彼女たちを見上げた。
「フェリクス陛下は凄いですね……こんなに大きな国を、平和にまとめていらっしゃって。でも、優しそうな方で助かりました」
「優しそう、ですか?」
「はい」
自分で言っておきながら、大国の王に対する評価としてはどうなのかとおかしくなる。けれどそれ以上に彼に相応しい言葉も見つからなくて、思わず微笑を洩らした。
「あのアネモスを統べる王なのですから、もっと威厳に満ちた、見ているだけでこちらが委縮してしまうような恐ろしい方だと思っていたんです。あっ、その、陛下を貶しているわけではないんですけど」
「いえ、言いたいことは分かりますよ」
慌てて弁解しようとすると、黙って話を聞いていた侍女が柔らかく頷く。彼女はふと気付いたように「そういえば」と呟くと、わたくしを見て首を傾げた。
「姫様、体調の方はどうですか? 馬車酔いも治らないうちに謁見でしたでしょう」
「……あら」
彼女の言葉でようやく異変に気付き、片手で口を押さえる。心配そうに「姫様?」と気にかけてくる侍女たちを安心させるように微笑み、わたくしは首を横に振った。
「いえ、陛下にも似たようなことを言われたのですけれど、何だかこちらに来てから体が軽いのです。わたくしも今気付きました」
「まぁ……クローウィンにいるときよりも体調がよろしい、ということですか?」
侍女の言葉に、黙って頷く。侍女たちは驚いたように顔を見合わせると、誰からともなくふっと微笑んだ。
「シルヴィア様にとって、こちらの気候の方が合っていらっしゃるのかもしれませんね。陛下にご相談しましょう」
「お父様に? 何故ですか?」
突然出てきた提案に、首を傾げる。けれど返ってきたのは、どこか意味ありげな笑みだけだった。
こんばんは、高良です。
そんなわけで、番外編開始。今回はシリル君とクレアの両親、アネモス国王と王妃様のお話になります。時系列的には前回の番外であるドミアド編の少し後、本編より30年近く前になるでしょうか。
ちなみにこの時点でドミニクさん20歳(爵位を継いで半年)、フェリクス陛下18歳、シルヴィア様13歳です。
では、また次回。




