第二十一話 帰還の報せ
あれからしばらく経ったけれど、あの男――ルフィノ=ウルティアが自分からあたしに接触してきたのは、結局あの一回きりだった。そもそもそんな暇が無かった、というのもあるだろう。あれ以降、魔物の襲撃は明らかにその頻度を増していた。何度も続くうちに神官たちも慣れてきていて、魔物が現れたらすぐに逃げるようになったから、あたしの仕事は最初の頃よりずっと減っている。けれど実際に魔物と戦わなければいけないジルやルフィノの負担はだいぶ大きいようで、ジルともゆっくり話せるのは夜、互いに部屋に戻ってから寝るまでの間くらいだ。
あの話をした次の日の夜、ジルに奴の様子を訊ねたけれど、ルフィノの様子は今までと変わらず、あたしについても何も言っていなかったらしい。ジルの方からどんな話をしたのかと訊ねても、大した話はしていないとしか答えず、前世のこともあたしとの関係も、何一つ語らなかったという。相手が僕だからだろうね、とジルは言っていた。「彼にとって僕はジル=エヴラールであって、かつて柚希だった少女と『今世』共にいる、それだけの存在なんじゃないかな。前世でも僕たちが知り合い同士だったことは知らないか、リザの前世については気付いても僕のことまでは気付かなかったか」と。
本当にそうだろうか、とあたしは唇を噛む。それが真実だとしたら、奴はあそこまで敵意に満ちた視線をジルに向けるだろうか。たまに見かけるだけだし、姿を見つけたら逃げるようにその場を離れているあたしに断言することは出来ないけど、今のあたしと一緒にいるから、というには少しジルへの憎悪が強すぎるように見えた。大体、それならもっと余裕に満ちていてもおかしくはないはずなのだ。前世を知っている、という余裕。あたしの弱点を握っているという余裕。それが無いということは、ジルが全て知っていることを分かっているか、それ以外にジルを敵視する理由でもあるのか……どちらにせよ、あまり良い状況とは言い難かった。
「……背後からざっくり刺されたりとか、してなきゃいいけど」
何しろ一緒に戦っているのだ、そうする隙は互いにあるだろう。そう呟きつつも、心の奥でそれはないと首を振る。奴が、そんな簡単なやり方で、あっさり終わらせるとは思えない。だって、……柚希のときは、一ヶ月も続いたのに。
「なぁにリザちゃん、まだ旦那の心配?」
「旦那って……そんなんじゃないわよ、はいこれ干して」
一緒に作業をしていた同僚――と言ってもこの城にいる間だけのことなのだが、茶化すように振り返る彼女に顔を顰めてみせ、洗い終えた布を入れた籠を渡す。同僚は素直に籠を受け取るが、どうやら話を終わらせる気はないらしかった。
「違うの? 同じ部屋で寝てるのに何も無いわけ? ……うー冷たっ、本当に冬みたいよね。食べ物とか足りるのかしら。リザちゃん大丈夫? 手痛かったら変わろうか?」
「平気よ、確かに冷たいけど。……驚くほど何も無いわね」
後半は苦い顔で答えると、彼女は同情するような目を向けてくる。
「それは何と言うか、健全な男性としてどうなの」
「十三歳の子供に手を出すのも健全とは言えないと思うけど」
「ああそっか、リザちゃんまだ十三歳か……話してるとどうしても年下とは思えないのよねぇ」
「よく言われるわ」
というか実際にはあんたより年上だし、とは流石に言わない。肩を竦めると、同僚はどこか呆れるように細めた目をあたしに向けてきた。
「で、結局賢者様とはどういう関係なの? いくら一緒に旅してても、何でもないのに同じ部屋で寝泊まりはしないでしょうに。貧しい国なんかじゃ十三歳で子供生むのもよくある話らしいじゃない」
「……説明が、難しいのよ」
そもそも、どういう関係かはむしろこっちが教えてほしいくらいだ。まず、恋人ではない。少なくとも今はまだ。周りが疑うような関係性には、もちろんあたしたちにとってそこが目標ではあるのだが、それでもまだ至っていないのだ。だけど、あたしが口を滑らせたあの日から、ただの友人同士でもなくなってしまった。
現時点で答えるとしたら、相棒、辺りが無難なところだろうか。答えようと口を開いたところで、にわかに外が騒がしくなった。とはいえそれ自体はここ最近ですっかり慣れたこと、もう互いに驚きもせず立ち上がる。
「また仕事ねぇ。まったく、いつまで続くのかしら」
同僚が立ち上がり、扉の方に足を向けたところで、突然ノックも無しに人が飛び込んできた。見ればそれは別な部屋にいたはずの治癒魔法使いの一人で、酷くショックを受けたように顔を蒼褪めさせている。
「ちょっと、どうしたのよ。何かあったの?」
「二人ともこの部屋から出ちゃ駄目。戦えない人間はみんな、事態がどうにかなるまで待機よ。……魔物が出たの。今までのよりずっと強い、逃がしたら国が亡ぼされるくらいのが」
訊ねれば、彼女は震える声でそう告げてきた。その意味を理解すると同時、背筋が凍る。その魔物と戦っているであろう彼の姿を、ふっと連想した。
◆◇◆
不意に、目の前の魔物の纏う黒い煙が膨らんだように見えた。この場所で何度も見たその動作に、僕は早口で呪文を呟く。
「下がって!」
周りにそう告げながら魔法陣を描けば、飛んできた煙は僕たちの目の前で何かに阻まれたように動きを止め、その場に留まった。……何か、ではなく僕が出した不可視の盾だ。あの煙は魔物による呪いのようなもので、浴びればその部分は痺れて動かなくなるし、見た目も焼け爛れたようになる。煙を止める術は無かったけれど、それでは魔物には太刀打ちできないから、神官に協力してもらって作り出したのだ。
ずっ、と煙が抗うように動くのに気付いて、更に魔力を込める。神国の魔法を応用して作ったこれは、信心深い人間が使った方が遥かに効率が良いもので、僕が使ったところで大した効果は得られない。けれど今のこの国で一番魔法の扱いに長けていて魔力が高いのは僕であることも分かっているから、その魔力を使って無理やり効果を底上げしているようなものだった。しばらく魔物と睨み合っていると、ふっ、と向こうが一瞬だけ体勢を崩す。
「今だ」
僕が声をかけるより前に、隣をすっと駆け抜けていく影があった。緑髪の少年は瞬く間に魔物の前に辿り着くと、相手が行動に移るより前に剣を振り下ろす。魔物は苦悶の声を上げるがそれだけで、どうやらまたも致命傷には至らないようだった。ルフィノは飛ぶように後ずさって敵と距離を取ると、ちっと小さく舌打ちする。
「埒が明かないな」
「そうだね。……大丈夫かい?」
剣を振った拍子に煙を浴びたのか、彼の腕には焼け爛れたような痕が見えた。ということは、麻痺していて彼の思うように動かないのは間違いない。そう思って僅かに眉を顰めたのだけれど、ルフィノは表情一つ変えずに首を振った。
「問題ない。ただ、これが長く続くようなら別だ」
「僕もそう思うよ。神子がこの場にいれば話は早かったんだけどね。僕たちでは攻撃するたびにこちらに跳ね返ってきてしまう」
神子――ニナならば、瞬く間にあれを封印、あるいは退治出来ることだろう。遥か昔に魔物を封じた神子の力は、彼らにとっては天敵と呼べるものなのだ。あの呪いのような力も、普通の人間に対しては致命傷となり得る恐ろしい攻撃だが、神子には全く効かない。けれどニナがこの国どころかこの世界にもいない今、それを言ったところでどうしようもないだろう。
魔物の回復力が極めて優れているのは、今までの戦いで十分知っていた。普通に攻撃すれば、どれだけ深い傷であっても瞬く間に治っていく。だからこそ僕は本来あまり得意ではない神国の魔法を使わざるを得ないのだし、ルフィノの使っている武器にも神官が魔法をかけてあるのだ。それでもなお、目の前の魔物の方が僅かに上のようだった。ある程度の攻撃は通っているようだけれど、そもそもの体力や攻撃力が他の魔物とは桁違いなのだ。
少し考え込み、僕は顔を上げる。
「……少しの間、あれを抑え込んでおけるかい?」
「何か策があるのか?」
訊ねれば彼は可とも不可とも言わず、普段通りの冷たい表情に探るような色を浮かべてこちらを見てきた。僕は僅かに微笑み、首肯を返す。
「賭けでしかないけれど、試す価値はあると思うよ。僕が合図したら退けてくれればいい」
「分かった」
すっと目を細めると、それ以上声をかける暇もなくルフィノは地を蹴る。そのまま本当に一人で魔物を抑え始める彼を見て、僕は笑みを苦いものに変えた。周りの神官たちに自分の身を守ることに専念するよう告げ、盾を消して魔法陣を描き、呪文を唱え始める。ちらりと前方に視線をやれば、ルフィノは苦戦する様子もなく魔物と渡り合っていた。
……彼は強い。強すぎる。そんな存在は僕とリザくらいだと、ずっと思っていた。カタリナやキースが僕たちと張り合えるのは、使う魔法の特殊さや精神の強さからくるものであって、純粋に生まれ持った魔力だけを見れば常識の範疇。僕たちだけが異質なのだと、この世界に転生したときから……否、慎として生きていた頃から肌で感じていた。そこに彼は、言わば割り込んできたのだ。せめて友人として現れてくれれば、とこっそり嘆息し、僕は顔を上げる。
「ルフィノ」
その言葉を聴くなり彼は高く跳躍し、一体どうやったのか僕たちのすぐ手前に着地する。振り返った彼の早くしろと言いたげな視線に苦笑し、僕は呪文の最後の一節を唱えた。目の前の魔法陣から、周りの景色を塗り潰すほどの青白い光が溢れ出す。原理はさっきまでと同じく、神国の魔法を僕の魔力で底上げするだけ。けれどさっきの盾とは比べ物にならないほどの威力のそれは、神子の力を大幅に劣化させたような魔法だった。
ある程度敵の体力を削ってからでなければ通用しない辺り、やはり本家には及ばないか、と僕は嘆息する。既にこの魔法に魔力の大半は持っていかれていたのだけれど、残りを使って無理やり軌道を修正し、魔物の方に向かわせた。勢いよく走っていった光に触れるなり、魔物はのた打ち回るように黒い煙を撒き散らす。肌に触れた焼けるような痛みを無視して敵を見据えていると、少しして魔物はふっと溶けるように消えた。魔法を打ち切った反動で僅かによろめくと、周りの神官たちが慌てて身を案じてくる。平気だと彼らに言い聞かせ――内心では魔力を使いすぎたことによる脱力感と僅かな頭痛に顔を顰めながら見れば、ルフィノは我関せずとばかりに剣をしまい、神殿の方へと立ち去って行くところだった。戦闘後に彼と接触しないのは毎度のことなので、互いに気にしない。僕もリザのところへ行って傷を治してもらわないと、と一歩踏み出した瞬間、背後で何かが強く光ったのが分かった。
「っ」
咄嗟に振り返ると、神泉から白い光が溢れ出して、そのまま地を走って消えていく。光が通り過ぎると、肌に触れる空気がじわじわと暖かくなってきた。
「これは……」
「元に、戻った……のか?」
戸惑うように声を上げる神官たちだけれど、その予測は恐らく正しいだろう。神泉に近づいて見下ろせば、さっきまでただの水だったのが、今は白い光を帯びていた。神子が降りている間は、これが普通の状態だ。それが意味するのは、つまり。
「……帰ってきたんだね、ニナ」
恐らくシリル様も一緒だろう。彼はともかく、ニナが両親から離れて再びこちらの世界に来たというのは少し意外だった。慎としての記憶が、父と母を案ずるように疼く。それを抑えて辺りを見回せば、事態を把握した神官たちがばたばたと駆けまわっていた。
異常気象や魔物の発生が神子の不在によるものだったなら、神国から受けていた依頼もこれで終わり。――ならばそろそろ行動に移そうかと、僕は僅かに頬を緩めた。
こんばんは、高良です。
ちょうど第四部の三十五話と同じ頃ですね。シリル君がぼろぼろになっていた同じ頃、その師も割とぼろぼろでした。……っていうとアレなので止めておきましょう。問題は解決しましたが、ジルリザにとっての問題はまだ残っていましたね。
第五部も残すところあと一話。年内に終わらせたかったのですが、この様子だと厳しそうです。今年も『枯花』にお付き合い頂き、ありがとうございました。来年もジルリザを見守って頂けると嬉しいです。良いお年を!
では、また次回。




