第二十話 彼女を縛るもの
夜道を歩くときに何となく身構えるようになったのはつい最近のことだが、夜自体が恐ろしく感じられるようになったのは、慎が濁流に呑まれたあの日の夜からだった。当時から夜遅くに出歩くことは多かったけど、あの頃のアタシにとって夜というのは気を付けるべき時間であっても、恐ろしいものでは決してなかったのだ。いや、あの夜から『また』恐ろしくなった、と言うべきなのだろうか。この得体の知れない恐怖には、確かに覚えがある。慎と出会う前の孤独だったアタシは、ずっとそれを抱いてきた。だけど慎と親しくなってからは、夜は彼に会う時間で、日によっては彼の家に行ったり彼が来たりする時間で、恐怖とは無縁だったのだ。だって慎がいるのに、彼を失うこと以外の何を恐れろというのか。けれどその唯一の恐怖が現実となってしまってからは、夜はまた歓迎したくはない時間に逆戻りだった。
……もっとも、今は少し事情が違うのだが。
「しつこいわね」
少し距離を開けて、それでも確かについてくる気配に、あたしは顔を顰める。信号が赤になったので立ち止まると、背後の足音は一拍ほど遅れて止まった。明らかに遊んでいる。アタシが気付いていることも、とっくに分かっているのだろう。「ふざけやがって」と舌打ちしたところで、信号が青に変わった。今の言葉を慎に聞かれたら、きっとまたお決まりの言葉を交わすのだろう。
再び歩き出しつつ、慎が今の状況を知ったらどうするだろう、などと考える。どうやらストーカーされているらしい、と一言でも漏らせば、彼は絶対にアタシを助けようとするだろう。もしかしたらアタシが相談しなくても、すぐに気付かれてしまったかもしれない。……だけど慎が生きていたとして、アタシは彼に助けを求めることが出来たのだろうか。ふと浮かんだ疑問に対し、きっと無理ねと首を振った。少なくとも慎が昔のままだったら、そしてアタシもまた変われなかったのなら、全部一人で何とかしようとして、彼に対しては全てを隠そうとしただろう。慎を信じていないわけじゃない。信じているから……彼なら間違いなく助けてくれると知っているから、そうするのだ。慎のことだ、アタシを助けるためなら自分の身が危険に晒されようとお構いなしに決まっている。あの日、その身を挺して咲月を助けたように。
「……っと、やば」
考え事に熱中していたせいか、気付くと人気の全く無い裏道に逸れて歩いていた。こっちの方が近道だからと昔はよく通っていたけど、流石に最近は人の多いところを選んで帰っていたのだ。立ち止まって振り返り、引き返すよりもさっさと抜けてしまった方が早いかと判断する。
早足で歩き出したところで、かつん、とすぐ後ろから大きな足音が聞こえた。
「っ!」
ありえない。それがついてきていたとしても少し離れたところにいたはずで、この道で足音を完璧に消すなんて出来るわけがない。いきなり背後に現れるなんて、それこそ瞬間移動でもしない限り不可能だ。……不可能な、はずなのだ。
驚愕に目を見開く暇もない。反射的に振り返るその前に、後頭部に重く鈍い痛みが走る。薄れゆく意識に紛れて、低い笑い声が聞こえた。
◆◇◆
「リザ?」
ルフィノが部屋を出て行ったのは、隣室にいれば簡単に分かる。けれどリザが部屋を出る気配は一向になく、怪しんで来てみれば彼女は自分の体を抱き締めるようにして床に蹲っていた。俯いているせいで表情は分からないけれど、その様子からただ事ではないと察する。慌てて駆け寄って傍らに跪くと、リザはゆるゆると緩慢な動作で顔を上げ、そこでようやく僕に気付いたように深い紫の目を向けてきた。
「……ジ、ル?」
普段なら強気な光を帯びるその瞳は、けれど今はどこか虚ろに見開かれていて――どこかで、と一瞬だけ迷って、すぐに思い出す。あれは一ヶ月ほど前だったか、ニナが写真を渡してきた後で、泣きながら浮かべていたあの表情とよく似ているのだ。その背に手を置いてようやく、彼女が小さく震えていることに気付く。僕は僅かに眉を顰めると、宥めるように声を落として、再び「リザ」と呼びかけた。
「どうしたの? 彼に、何かされた?」
もしそうならば僕はきっとルフィノを許さないだろう、と思う。生まれたばかりの名もない感情は、確かにそう叫んでいた。離れたくない、離したくない、……誰にも渡したくない、と。まだ愛と呼んでいいのかも分からないその感情は、それでも確かに僕の中にある。
けれど僕の問いに、リザは小さく首を横に振った。
「違、う……少し、話しただけだもの」
「なら、どうして」
重ねて問いかけても、彼女は俯いて唇を引き結ぶばかり。何かに耐えているのは、見ればすぐに分かった。僕は少しだけ位置を変え、リザの両肩にそっと手を置いて、正面から彼女と向き合う。真っ直ぐに見つめれば、少女はびくっと怯えたように肩を震わせた。それでも、互いに目を逸らすことはない。
「ねえ、リザ。まだ僕を頼ることは出来ない?」
「っ」
息を呑んだ彼女を見て、僕はそっと唇を噛む。もしそうだとしても、文句は言えないだろうと分かっていた。ニナの話の後は動揺していたからたまたま近くにいた僕に頼っただけだという可能性も、無いとは言い切れないのだ。いくら信じてほしいと告げたところで、彼女を苦しめているのは、元を辿れば僕自身なのだから。どうしてそんな人間を頼れるだろう。けれどリザが震える声で返してきたのは否定の言葉で、それに心から安堵した。
「……そんなこと、ないわ。だったらあんなことしないもの、人前で大泣きしたり愚痴ったりなんて」
「そう」
良かった、と柔らかく微笑む。それなら良い。あの日君が壁を崩してくれたように、僕が君の心を癒せるのなら。どれだけ長い時間がかかっても構わないから、いつか君のその鎧が必要なくなる日が来ればいい。そのために、もう踏み込むことを恐れない。
「それなのに、『何でもない』の?」
再び訊ねれば、リザは迷うように瞳を揺らし、俯いた。急かすべきではないだろうと判断して、黙って答えを待つ。どれくらい経っただろうか、やがて彼女は俯いたまま、震える声で呟いた。
「怖い」
「ルフィノが怖いの?」
「痛い……痛いの、もう痛いのは嫌、殺されるのは嫌なの、怖い、嫌、……もう、死にたくない」
「……そう、か」
ぼろぼろと涙を零す少女に気付かれないように、僕はそっと目を細めた。少し考えてみれば分かることだ。リザがここまで取り乱すなんて、僕のことか死ぬ間際のことでなければありえない。僕はここにいるのだから、答えは一つしかなかった。
「彼が、そうなんだね」
一か月前に見た写真を思い出す。柚希をあそこまで壊した、そうしてリザの心に今も癒えない傷を刻んだ、それがかつてのルフィノ=ウルティアの姿なのだろう。何故この世界にいるのかは分からないけれど、リザの様子を見ていれば、彼もまたそれを覚えているのだろうと察することが出来た。もしルフィノが全てを忘れていたのなら、例え彼の正体が分かってもリザはここまで怯えなかったはずだ。念のために、とそのことを僕に話して、それで終わりだっただろう。
不思議と驚きは少なくて、むしろそれならば色々と納得出来た。彼が心を開かないのも、彼に心を開けないのも。彼が僕のことまで知っていたとは限らないけれど、すべて覚えているのならリザの傍にいる僕と仲良くしようとは思えなかったのだろう。逆に僕はきっと、心のどこかでルフィノが敵であることを本能的に察していたのだ。
僕の言葉に、リザは小さく頷く。けれど次の瞬間、彼女は慌てるようにハッと顔を上げ、涙に濡れた顔で僕を見上げた。
「あの、お願いジル。何もしないで。あたし、大丈夫だから」
「何も? ……リザ、彼は僕と同じで、魔物を倒すためにここにいるんだよ。僕たちが出て行かなければ、しばらくは同じ城の中で生活することになる」
「だから言ってるのよ。我慢出来なくなったら言うし、ちゃんとジルを頼るわ。でもそれまでは、強がらせて」
だって、とリザは続ける。
「あたし、ジルの足を引っ張るのは嫌だもの」
だからクローウィンの現状をどうにかするまでは頑張ると、彼女は未だ恐怖の色も残る顔で、けれど泣き笑いに近い表情を浮かべてそう言った。……僕の立場を考えてのことなのだろう、とは考えずとも分かる。『風の国の賢者』が請け負った依頼を投げ出して行方を眩ますなんて、絶対にしてはいけないことなのだ。僕の評判だとか、そういう問題ではない。下手をすれば故国アネモスにも迷惑がかかる。それは、駄目だ。苦い思いを抑えられず、僕は深く息を吐いた。
「……ごめん、リザ。僕は結局こうやって、君に無理をさせてばかりだね」
力になりたいと思っているのに。
無理はしてほしくないと、ずっと願っているのに。
「この件が片付いたら、絶対に何とかするから……そうじゃなくても、耐えられなくなったらすぐに言って」
「分かってるわ。ジルじゃあるまいし」
いつもの調子で悪戯っぽく返された言葉に、苦笑を返す。……内容には、あえて何も言わないとして。
「それとリザが嫌じゃなければだけど、念のため部屋は今夜からこっちに移っておいで。国王陛下や城の人たちには僕からある程度ぼかして言っておくから」
「嫌なわけないじゃない、あたしだってそっちのが安心するわよ。……でも、いいの?」
逃げるのは少し前にやめた。リザの想いと向き合うと決めて、彼女に自分から歩み寄ろうとした。アネモスにいる間リザと同室だったりしたのはそういう心境の変化があったからで、けれどクローウィンに戻ってからは別室だったし、そもそもゆっくり話す時間もそれほどなかったのだ。リザが首を傾げたのは、そういう事情があるからだろう。
けれど彼女に何かあってからでは遅いし、変わりたいというのは決して嘘ではないのだ。説明の代わりのように、僕はまた苦く笑った。
こんばんは、高良です。いつの間にこの作品は二週間おき更新になったんでしょうね。
前半は柚希にとっての不運と悲劇、あるいは惨劇の始まり。ここから先は多分第六部か七部で語ります。それでもぼかさなきゃいけないんですけれども!
後半はそんなトラウマが表に出てきてしまったリザと、ちょっとヒロインっぽさが薄れた……もとい主人公らしくなってきたジル。作者は書きながら「こいつらめんどくせえええ!」と何度叫んだか分かりません。少しはシリニナ辺りを見習って頂きたいものです。
では、また次回。




