第十三話 遠い日の彼らを思い
違和感に対する違和感。今の僕を包んでいるものを言い表すとしたら、それが一番近いだろう。確かに、普段と魔力の質がまるで違うことに対する居心地の悪さはあった。けれど本当にそれだけだろうか、と首を傾げる。これはどちらかというと、原初の国やその時代に関することを考えているときに襲い来る、あのざわめきによく似ているような気がした。魂の奥深く、僕自身にも知覚出来ないような部分が、騒ぐのだ。
気を紛らわすように、僕は目の前で本の頁を捲る少女を見た。
「そういえばリザ、魔法はちゃんと使えそう?」
「魔法? ちょっと普段と勝手が違うから使いにくくはあるけど、多分平気よ。……何で?」
「何が起こるか分からないからね」
肩を竦めてみせれば、リザは呆れたように目を細める。
「誰かが怪我するかもしれない、ってこと? こんなところで?」
「こんなところだから、警戒するんだよ」
普通の人間は――例え僕やリザのような信仰心の薄い人間であっても、聖地で問題を起こすなんて馬鹿な真似はしない。そういう認識をみんなが持ってしまっているから危ないのだ。そのせいで人々の警戒心が薄れるここは、普通じゃない考え方をしてしまえば、何かを起こすにはとても都合のいい場所なのだから。
どうやら今見ている本には欲しい情報は無さそうだ。それを脇に置き、積んでいた別な本を取って開きながら、僕は「それにしても」と話を変えた。
「書物庫に入る許可が貰えて良かった。聖地もクローウィンと同じで、神や神子については他の国より厳しいからね。いや、神国よりもその性質は強いかな」
「……やっぱり、分かんないわ。神様神様って、そんな無条件で信じられるものかしら」
「ここでは良いけど、あまりそういうことを聞かれないようにね」
特にこの聖地ではね、と苦笑して、僕は本に視線を戻す。書かれているのはもちろん、神子のこと。この世界の長い歴史の中に、どれだけその存在が描かれていることか。
「神というより、神子の奇跡を信じている面も大きいんじゃないかな。神子の奇跡については、神の存在以上に疑いようのない事実だからね。だからといって盲信は良くないと思うけれど、宗教っていうのは多かれ少なかれそういう性質を持ち合わせているものだろう?」
「それは……まぁ、そうね」
この世界に限った話ではない。僕たちがかつて生きていた世界の史実にも、人の信仰心が起こした争いは数え切れないほどあるのだから。同じようなことを思い出していたのだろう、リザは難しい顔で息を吐いた。
「とりあえず、こっちに話を戻すけど。アネモスの神泉もここの神泉も変だったけど、クローウィンほどはっきりと分かるものじゃなかったわよね。神国が元凶で、他の神泉がおかしくなってるのもそのせい、って考えた方が良いのかしら?」
「そうだね。物理的には離れているけれど、神が絡むのならそういった不思議も十分起こりうるし……神子との直接的な関連は、無さそうかな。偶然時期が重なっただけか、あるいは逆に、神泉に異変が起きたから神子が降りたのか」
推測を確信に変えるだけの材料が、なかなか揃わない。神国でも風の国でもそうだったけれど、この聖地に来ても現状は変わらなかった。もどかしさを追い払うように嘆息すると、目の前でリザがくすりと笑う。
「あと五日はここにいなきゃいけないわけだし、焦るのは止めときましょ」
「やっぱり、ここに長居はしたくない?」
「当たり前じゃない」
彼女の口調から滲み出る感情に気付いて訊ねれば、リザは上目遣いに僕を睨んできた。
「居心地悪いもの。魔力だけじゃないのよ、何かこう……説明出来ないけど、もっと根本的なところで、嫌なの。嫌な予感っていうか、胸騒ぎっていうか」
「リザも?」
ここに来たときに覚えるであろう違和感ではない、何か。ここに来てからずっと僕を悩ませていたものだけれど、まさかリザまでそうだとは思わなかった。彼女の言葉に思わず目を見開くと、同じことを思ったのだろう、リザもまた不思議そうに首を傾げる。
「ってことは、ジルもなのね。何なのかしら……シリルやニナは平気そうにしてたから、多分あたしたちだけでしょ?」
「理由は分からないけれど、間違いなく僕たちだけだろうね。ニナなんて、むしろ居心地良く感じているんじゃないかな。ここは聖地で、彼女は神子なんだから」
そのニナはと言えば、大神官長と対面中である。僕は今代のヴラディミーラに会ったことはまだ無かったのだけれど、とても心優しく信仰心の篤い人物だと聞くし、ニナもあの性格だ。恐らく、難なく打ち解けたことだろう。ここについたときの彼女を思い出してみても、僕やリザと同じようなことを感じているとは考え難かった。
「信仰心が薄いから、というわけでもないだろうけど……どちらにせよ、僕たちはあまりこの地に来ない方が良いのかもしれないね」
「……やっぱり大っ嫌いだわ、神なんて」
僕の言葉に、彼女は不快そうに眉を顰める。本来、そんな言葉をこの聖地で放つのはまずいことだ。けれどその気持ちはどうしても分かってしまうから、僕は黙って苦笑を返した。
◆◇◆
「やっぱり手強いわね」
「そうだね。そう簡単にいかないのは分かっていたけれど、予想以上だ。これは、アネモスに帰ってすぐにクローウィンに向かうことになりそうかな」
渋い顔で溜息を吐けば、隣を歩く青年が困ったように微笑む。聖地に来てから、今日でもう五日。彼の言うアネモスへの帰国は、明日に迫っていた。
この地の特性なのだろう、あまり早かったとは感じない。むしろ調べ物に追われながらも時間の流れは穏やかに感じていたのだが、それとあの厭な感覚は別だった。いっそのこと、不快感とでも称するべきか。他の人間にとっては快適だとしても、優しい人間ばかりでも、ここにはいたくないのだ。神国も居心地が悪くはあったけれど、ここに比べればずっとマシに思える。……もっとも、ここよりはマシというだけで、アネモスやジルと出会うまで暮らしていたメルカートリアとどちらが良いかと問われれば、その答えは考えるまでもないのだけれど。ちなみにグリモワールは学者気質すぎて落ち着かなかったが、信仰心が薄いという一点に置いては、あそこほど居心地の良い国もないだろう。
「確かにクローウィンは少し疲れるね。王妃様には悪いけれど」
「……あたし今、声に出してた?」
「顔に出ていたよ」
そこまで分かりやすかっただろうか、と思わず考え込んで、あたしはすぐに首を横に振った。その類のことでジルに勝とうとするのがそもそもの間違いなのだ。思えばこいつは前世からこういう奴だった。そうでなければ、どうしてあの面倒な性格だった頃の柚希と仲良くしていられただろう。いや、今は面倒じゃないなんて思っちゃいないけれど、それでも当時に比べればずっと良くなったはずだ。
「でも、あいつらをこのまま放って行くのも気が引けるわね」
「シリル様とニナのこと?」
「ええ。見てて苛々するのよ」
言葉の裏に忍ばせた皮肉が伝わったのだろう、あたしの言葉に、ジルは困ったように苦笑した。
「僕たちの――慎と柚希のときとは、状況が違うよ」
「そうね。あんたは何も見えていなくて、あたしは何も伝えられなかった。あの子たちは、……シリルは何も見ようとしなくて、ニナは何も伝えようとしないだけだわ」
出来るのに、許されているのに、そうしようとしないだけ。色々と言い訳して、本心から目を背けようと必死になっているのは、見ていればよく分かった。だけど、……だから、思い出してしまうのだ。それはジルも同じなのか、彼は苦く微笑み、頷く。
「後悔させたくない、っていうのは僕も同じだよ。君がニナを大事に想っているように、僕だってシリル様には不幸になってほしくない。だけど――」
ジルの言葉を遮るように爆音が轟いたのは、そのときだった。鼓膜が破れそうなほどの音に、思わず二人で身構える。音が消えゆくのと同時に、辺りは騒がしくなった。当然だろう、この平和な地に住まう大神官たちは、こんな事態には不慣れに決まっている。
「ジル、今のって」
「……爆発、かな。向こうの方だ」
硬い表情で頷き、彼は自分が指した方へと走り出す。普段はあたしとの体格差を気遣って合わせてくれるのだけれど、そんなことを言っている場合じゃない。何とかジルの姿を見失わないくらいの距離でついていくと、多数ある中庭の一つに、大勢の人間が集まって何かを取り囲んでいた。あたしの姿に気付き、人混みがさっと割れる。その中に、倒れている人影が二つ見えた。傍らにはジルが膝をついていて、あたしを見てほっとしたように微笑む。対し、あたしは眉を顰める。
「ニナ……!」
見慣れた銀髪の王子と、それに覆い被さるように倒れている黒髪の少女の姿。二人とも気を失っていて、ニナの方は背中を中心に火傷のような傷がある。シリルの方はといえば無傷で、何があったのかは、この光景を見ればすぐに察することが出来た。
「……やっぱ、慎の妹だわ。この子」
「そうだね」
苦笑するジルを睨み返し、ニナの傷を確かめる。重傷ではあるが、命に別状はないだろう。すぐに治せば痕も残らない。そう周囲の人間に告げ、二人をそれぞれの部屋に運ぶよう頼むと、あたしはジルに視線を戻した。
「きっとどこぞの王子は、目覚めたら後悔するわよ。誰かさんみたいに」
「後悔してほしくない、って言った矢先にね」
あたしが今浮かべているであろうものと同じ、何かを企んでいるような笑顔が返ってくる。互いが同じことをしようとしているのは、言葉に出さずとも伝わった。
反省→大遅刻のスパイラルをどうにかしたいですね。
こんばんは、高良です。
嫌な予感ほど当たるもの。ジルの懸念の通り、聖地にいながらも事件は起こってしまいました。二人の胸に宿るざわつきには別の理由もあるのですが、それはまたいずれ。
ジルとリザが何を企んでいるかは、第四部をお読みの皆様でしたらお分かりでしょう。
では、また次回。




