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枯花廻りの籠の中  作者: 高良あおい
第五部
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第八話 恐れていたのは

 一瞬だけ交わった視線は、かつての加波慎のそれととてもよく似ていた。明るくて、優しくて、心からあたしを想ってくれているのであろう、黒く澄んだ瞳。幼かったあの子が柚希を見上げていた、あの頃と殆ど変わっていない。驚くように見開かれたそれに、けれどあたしは恐怖を覚えたのだ。逃げ出した理由を訊かれれば、そうとしか言いようが無かった。

 何故、と走りながら考える。ずっとそうだった。神子の名を知ったときから、それが自分のよく知る少女である可能性に気付いていて、そうでなければいいと願っていた。ニナに会いたくはないのか、というジルの問いに、何も答えられなかった。ニナを怖がる理由なんて、彼女に会いたくない理由なんて、あたしには無いはずなのに。……本当にそうだろうか。会いたくない理由は、会えない理由は、あたし自身が一番よく分かっている。ただ、それに気付きたくないだけなんじゃないか。心の奥で響くそんな声を振り払うように、表情を歪める。

 不意に、背後から足音が聞こえてくるのに気付いた。間違いない、ニナが追ってきたのだろう。迷いから一瞬立ち止まってしまった自分を叱咤し、あたしは一気に足を速める。けれどそれに合わせて、追ってくる足音もまた早くなった。廊下のど真ん中で、全速力で追いかけっこなんてしていれば、当然注目を集める。すれ違った人間が驚いているのは分かったけれど、そんなことを気にしている余裕なんて今は無かった。

 どこへ向かっているのかなんて、最初から分からない。ただニナを振り切ろうと、必死に階段を昇ったり降りたりして、とにかく走る。あたしもそう長くこの城で過ごしたわけじゃないが、まだここに来て数か月のニナに負けるとも思えなかった。

 これならいけるか。そんな淡い希望は、けれど小さな悲鳴によって掻き消される。

「あ、……っ!」

 小さな悲鳴に続いて、びたん、という転ぶ音。これだけ離れていても聞こえたのだから、かなり痛いだろう。思わず立ち止まり、振り返ると、彼女は体を起こしはしたものの、床に座り込んだまま俯いて、そのまま動こうとしなかった。逃げるなら今だろう、そう思っても、実行に移せるわけがない。それどころか、無意識のうちにゆっくりとニナの方へと近づいていた。

 すぐ傍まで辿り着いても、彼女があたしに気付く様子はない。あたしは小さく息を吐くと、そっと手を差し伸べた。

「転んだら起きなさい、って言ったでしょ。……倒れたままじゃないのは、ちょっとは成長したってことかしら」

 あたしの声を聴いて、ニナは弾かれたように顔を上げる。その瞳は僅かに潤んでいて、思わず小さい頃のニナを思い出して苦く笑った。どこか心が痛むのは、きっと気のせいではないのだろう。彼女はおずおずとあたしの手を取ると、不意に俯く。その唇から、どこか震える言葉が紡がれた。

「……お姉ちゃん、捕まえた」

「そうね」

 流石にニナも意図してのことではないだろうが、結果としてこの子にあたしが甘かったことに変わりはない。ニナを見捨てて逃げることを選択出来なかったのは、そうすることで彼女との関係を断ち切ってしまえなかったのは、あたしの弱さだ。苦笑しながらニナの傍に膝をつけば、彼女はぼろぼろと子供のように泣きながらあたしにしがみついてきた。

「寂しかった……ずっと、会いたかったよぉ、お姉ちゃん……っ!」

「……あたしも、会いたかったわ。こんな場所で、こんな形で会ってしまうことになるなんて、流石に予想も出来なかったけど」

 昔よくやったように、あやすようにニナを抱き締める。加波慎が柚希を置いて逝ったように、かつてのあたしもまたニナやその両親を置いてきてしまったのだ。小さかった義妹に会えなくなったことを、哀しんだことがないと言えば嘘になる。けれど、神子の名を聞いてからずっと胸の奥に渦巻いていた不安に似た感情は、ここでようやく形を取ろうとしていた。

「大きくなったわね、ニナ」

 即ち、この子はもう幼い子供ではないのだ、と。

 あたしは二歳までの、世間一般では物心つく前のニナしか知らない。この子は兄に似て当時から聡く賢い子だったし、だからこそあたしのことも覚えていて、こうして慕い続けてくれるのだろう。それでも、あの頃とは違うのだ。見た目だけじゃなく中身も、たくさんのことを学んで、成長してきたのだろう。小さな子供には分からないことだって、分かるようになったはず。昔から好奇心が強かった彼女は、当然知らないことを知ろうとしただろう。……例えば、宝城柚希の最期、とか。

 自分がどれだけ酷い死に方をしたか――どれだけ酷い殺され方をしたか、あたしは理解しているつもりだった。毎晩あの痛みを夢に見るのだ、知らないわけがない。けれどそれはあくまでも殺される側、被害者としての主観であって、客観的に見て『それ』がどれだけ酷いものであったのかは分からないのだ。

 知ってしまうのが怖かった。それをこの子の口から聞くことが怖かった。ニナが知ってしまっただろうと、そう考えることすらも怖かった。けれど、ニナが知っているかもしれないのに、黙って過ごすことも出来そうになかった。……ジルが臆病だなんて、どの口で言えたものか。あたしだって、十分怖がりのくせに。

 溜息の代わり、義妹を抱き締める腕にそっと力を込めた。


 ◆◇◆


 ジルの前世と転生のことではあるが、ジルもあたしもニナとは『初対面』で、互いにどれだけのことを知っていて何を知らないのかが分からない。だからだろう、一番現状を把握しているシリルが説明を終えると、ニナはやけに落ち着いた表情でシリルに視線を向けた。

「じゃあ、シリルは全部知っていたんだね?」

「知っていた、というほど強く確信していたわけでもないけど、そうだね。ニナの名前を聞いたときから、もしかして、とは思っていたよ」

「そっか」

 どこかぎこちなく頷いた彼に、ニナは静かに首肯を返し、目を閉じる。シリルが助けを求めるようにこっちを窺ってくるのが分かったけど、居心地悪いのはあたしだって同じだ。しかし隣に座ったジルはというと、普段の穏やかな微笑みにどこか面白そうな色が見えた。……楽しんでんじゃないわよ。

 そんなことを考えていると、ニナは突然目を見開き、勢いよくシリルの方を見る。訝しげに首を傾げた彼に、少女は形容し難い表情で訊ねた。

「ねえシリル、フルネームを名乗るのは止めた方が良いって、前に言ってたよね? それって、名乗ったら私の正体がばれちゃうからってこと? でも、私とお姉ちゃんたちとのことを知っているような人なんて、アネモスには……」

「……いるよ」

 恐らくジルと彼女の関係を誤魔化すために、シリルがそう言っていたのだろう。質問という形ではあったけれど、ニナの言葉はほとんど確信に近いものであるようだった。シリルは息を吐くと、あっさり首肯を返す。

「まず、父上と僕は全て知っていたし、アドリエンヌとリオネル、それとマリルーシャもそうだ。今はもういないけれど、ドミニク……リオネルの父親も知っていた。もっとも、僕がそうしていたように、みんな君にそのことは伏せていたみたいだけどね。先生がこの国にいた頃、そのせいで色々と事件が起きたから、意図的に避けていたんだと思う」

「事件って?」

 首を傾げるニナを見て、シリルは考え込むように眉を顰めた。確かに色々ありすぎて、話すのは難しいだろう。

「クレアとハルのことは、覚えているだろう? ……どう説明すればいいのかな、二人がここにいれば良かったんだけど」

「待って、あの二人も関係あるの?」

 どうやらあいつらとも面識があるらしく、ニナは驚いたようにシリルを見た。その瞳が、すぐにあたしとジルの方へと向けられる。まぁ、当然と言えば当然か。ジルと顔を見合わせ、そっちが説明してよ、と視線で促すと、ジルはニナに視線を移して首肯した。

「咲月と真澄のことは、知っているかい?」

「お兄ちゃんの幼馴染だった、っていう? お向かいさんだし、お母さんとかお姉ちゃんに聞いたことあるよ」

 確かに話した。彼らが命を落としたのは、ニナが生まれる一年ほど前のことだったか。だから彼女は兄の幼馴染たちに直接会ったことはないけれど、それでもそういう奴らがいたということはよく話した。というか、話さざるを得なかったのだ。あたし、というか柚希にとっては非常に不本意なことに、慎の思い出話の殆どにはあの二人がいるのだから。流石に柚希が抱いていた苦い感情をそのまま伝えるわけにはいかなかったけれど。

 ニナは不思議そうに頷くと、次に続く言葉を察したのか、僅かに目を見開いた。

「まさか……」

「そのまさかよ」

 嘆息してみせると、あたしの隣でジルが苦笑する。彼にだけ分かるよう横目でチラリと睨んでみせれば、ジルはその表情のまま、続く言葉を引き取った。

「もっとも、二人は僕やリザのようにかつての記憶を持って生まれたわけではないけどね。大多数の人間がそうであるように、数年前までは全て忘れたままだった。いや、ハーロルト様は咲月のことだけは覚えていたから、全てではないか」

「……そのせいであいつらが色々事件を起こして、ジルは右目を失ってアネモスを出る羽目になったわけだけど」

「お姉ちゃんも、咲月さんや真澄さんとは親しかった……と思うんだけど」

「柚希はね。あたしとあいつらは他人だわ」

 首を傾げるニナに、あたしは顔を顰めてみせた。そうして、数か月前に二人にも告げた言葉を繰り返す。

 その点において、あたしは彼らを許してはいなかった。慎の一番近くにいながら彼を理解しようとしなかった怠慢を、転生してもなお彼を苦しめ続けたことを、その前世をまだ引きずろうとしたことを、許すつもりはない。昔は……慎が死んでからも、咲月たちにそれまで通りに接することは出来ていた。けれど、慎だけでなくジルも傷つけるとなれば、話は別だ。彼らもあたしの態度の理由を知って、変えようとはしていたけれど、今更遅い。柚希の頃には無かった、決定的な溝。

「最近やっと本当の意味で前世むかしの自分を受け入れられるようになってきたけど、まだ納得いかないものは納得いかないわよ」

 あたしの言葉に彼女は首を傾げると、ぽつりと爆弾を放った。

「だから逃げたの?」

「逃げてないわよ」

「逃げたでしょ、思いっきり!」

 無理がある、と自分でも分かっていながらそれでも即答すれば、予想通り不満気な抗議が返ってきた。あたしだってそう思う。何が逃げてないだ、誰がどこからどう見てもあれは逃亡だったじゃないか、白々しい。それでも、ずっと抱いていた不安の正体をここで語る気にはなれなくて、あたしは嘆息する。

「……シリル」

「はい?」

 目を逸らすようにニナの隣に座る少年へと視線を移せば、彼は自分の方に話が飛んでくるとは思わなかったのか、驚いたような顔で背筋を伸ばした。

「リオ様やアドリエンヌ様は、何も言ってなかったのね?」

「ええ、恐らくそれについては先生とリザさんに任せるつもりだったんだと思います」

 訊ねれば、彼はどこか訝しげに、けれどしっかりと答える。それ、というのはニナに関する色々なことを含んでいるのだろう。あたしは嘆息交じりに「そう」と頷くと、少女の方に視線を戻した。

「今日はちょっと用があるから、また後でゆっくり話しましょ。とりあえず、確認しなきゃいけないことがあるじゃない? ジル」

 それを聴いた瞬間、隣でジルがびくっと肩を震わせるのが分かった。その表情は誰が見てもそうと分かるほどはっきりと歪んでいて、あの王女とは顔を合わせたくない、と何よりも雄弁に語っている。さっきは強がっていたけれど、やはりジルの中で奴はかなりのトラウマになっているらしかった。この話題を振ったあたしに対する抗議も混ざったその表情に、あたしは苦笑してみせる。

「露骨に嫌な顔しなくても、ニナと契約してるなら何もしてこないと思うわ」

「……そう、だね」

 それでも嫌だ、と言いたげな苦い顔で、ジルはゆっくりと頷いた。昔の彼を知る人間からしてみればそれは本当にありえないことだったのだろう、シリルは驚いたように目を見開いている。そんな少年を見て、ニナが苦笑した。

「えっと……カタリナのこと、だよね?」

「呼びました? ニナ」

 響いた声、そしてふっと降るようにニナの隣に現れたその女の姿を認めて、ジルが顔を引き攣らせる。けれどそれは一瞬のことで、恐らくあたし以外の誰も――恐らく本人すらも、気付いていなかっただろう。「あ」と口を押さえたニナに微笑し、かつて狂王女と呼ばれた精霊はぐるりと室内を見回した。その視線がジルに止まり、彼女は楽しそうに唇を歪める。

「久しぶりですわね、ジル? 元気そうで何よりだわ」

「…………ええ。お久しぶりです、カタリナ」

 ジルが返した微笑は、やはり引き攣ったものだった。というか、それは嫌味か。少なくとも、数か月前までジルを軟禁して毒盛ったり色々してた奴の台詞ではない。あたしたちの表情を見て、彼女はすっと目を細めた。

「あら、その様子だとまだ昔のことを引きずっていますのね。今の私はアネモス側の人間ですのよ、もう少し友好的に接してくれてもいいのではなくて?」

 いつの間にかジルの目の前に浮かんでいた王女は、あたしたちにとっては厭な笑みを浮かべたまま、ジルの頬に手を伸ばす。けれどその手は、触れようとしたその瞬間、見えない何かに弾かれた。バチッ、と青い光が二人の間に散る。彼女はどこか驚いたように自分の手を眺めると、面白い玩具でも見つけたかのように、再び笑みを浮かべた。

 その現象には、確かに見覚えがあった。魔力によって創られた障壁が物を弾くとき、同じようなことが起きる。つまりジルは反射的に自分の周りに魔力を纏って、王女を拒絶したのだろう。自分のしたことについては彼もしっかり自覚しているのか、ジルは気まずそうに沈黙すると、シリルの方へを視線を向ける。

「申し訳ありませんシリル様、少々用事を思い出しましたので、失礼します。この部屋は、使っていて構いませんから」

「は、はい」

 本来ここはジルの部屋だ、出て行くべきなのはどちらかというと王女の方なのだが、この女がそう言って聞き入れるはずもないだろう。シリルが頷くのを見ると、ジルは心なしか少し足早に部屋を出て行った。それを見送り、あたしはキッと王女を睨みつける。

「相変わらず趣味悪いのね、このキチガイ王女。ニナと出会ってちょっとはマシになったって聞いてたけど」

「あら、それはこちらの台詞ですわ、おちびさん。のんびりしているのなら、ジルは私が頂きますわよ?」

 やっぱり改心したなんて嘘じゃないか、と思わせる妖艶な笑み。反論するのは簡単だが、それは何となくこの女の思い通りになるようで嫌だ。答える代わりに深く嘆息すると、あたしはジルを追って部屋を出た。


更新が滞りそうな時には活動報告辺りでお知らせした方がいいのかな、とか思いつつ実行に移さない高良です。文化祭って文化部を兼部している人間にとってはもう地獄ですね。楽しかったけれども。


さて、第十九話から第二十話辺りでしょうか。ジルが臆病であるように、リザもまた弱いです。ただ、それを隠すのはジル以上に巧いのです。だから厄介。

第四部をお読みの方はご存知の通り、リザが恐れた「それ」は、現実になってしまうわけですが……?


では、また次回。

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