第四話 二人の距離
ジルは変わったな、と思う。
陰が無くなったとか、明るくなったとか、そういう意味じゃない。いや、戦争の終結以来、彼が色々な人間からそう言われてきたのは事実だし、実際それも正しいのだが、もっと深い部分での変化だ。ジル=エヴラールという人間を支えている芯が、変わった。最近の彼の変化というのは、多分全部それに伴うものなのだ。
だって少し前までのジルなら、きっとあんなことは言わなかっただろう。嫌われることを恐れて、あたしが平気だと言った時点で話を終わらせていたはずだ。本当は大丈夫じゃないことなんか分かりきっていても、拒絶されるかもしれないというその恐怖が彼を縛って、それ以上踏み込むことを躊躇わせていた、はずなのだ。
「……そうじゃなくなったのは、あたしのせいよね」
数か月前にジルに告げたあたしの言葉が、それまでの彼を一旦崩して、そうして変えてしまった。……強くなった、のだろう。その前からジルの心は強かったけど、言ってしまえばそれは弱く臆病な本心を覆い隠す壁が、彼と周囲の人間とを隔てていた壁がそう見せていただけ。けれど弱くても良いと告げたあの日から、その心は逆に強くなったように思えた。それは、本当なら喜ぶべき変化のはずだ。彼はずっとそうやって、自分の心を殺して、自分だけが傷つくことを良しとして生きてきたのだから。そうじゃなくなったというのなら、あたしは喜ぶべきなのだ。
だけど、……今の彼の態度はどこか、かつての加波慎のそれに似ていたから。無理して強がることにかけてはジル以上に上手かった、けれどそれ故に命を落とした、誰よりも孤独だった、宝城柚希の想い人に。思えば慎は、他人の深い事情に踏み込むことを、以前のジルほどには恐れてはいなかった。実際、そうでなければ椎名があそこまで慎に依存することはなかっただろうし、『アタシ』が慎に出会うことも無かっただろう。
「流石に慎ほどじゃないでしょうけど」
あれだけやって慎に逆戻りだったら流石のあたしも泣くわ、と思わず苦笑する。だって当時のあれは強さでも優しさでも何でもない。ただ、慎は自分が嫌われることを過剰なほどに恐れたけれど、同時に自分を少しも慈しまなかったという……自分が傷ついたところで構わなかったという、それだけのことだ。行動は同じでも、考えは今とは真逆のはず。それでも、不安なことに変わりはなかった。
辛い、と訴えれば彼は間違いなく助けてくれるだろう。だけど、そのためにまたジルが自分を犠牲にしないと、どうして言い切れるだろうか。そうしてまたジルを傷つけてしまったら、きっとあたしは耐えられない。もちろん、それであたしの方が無理してちゃ元も子もないから、辛かったら言うというあの言葉は嘘じゃないけれど。本当に辛くなったら、助けを求める。それでも耐えられるうちは、耐えていたかったのだ。
……そのためには、ジルに悟られちゃ駄目よね。どうにかしていつも通りに振る舞わないと、聡い彼は心配してしまう。それじゃ、駄目だ。
「よしっ」
あたしはいつの間にか辿り着いていたジルの部屋の前で立ち止まり、ぐっと拳を握る。自慢じゃないが、強がるのはジルより得意なつもりだ。少なくとも、柚希は得意だった。意識を切り替えてノックすると、中から「どうぞ」と聞き慣れた声がした。扉を開け、部屋に入ったところで、ほんの一瞬だけ、肌をぴりっと何かが撫でたのが分かる。
「……魔法?」
「やっぱり、リザには分かっちゃうか」
思わず振り返って呟くと、ジルは部屋の中央で苦笑した。……そういえばこの国に来てから、ジルの部屋を訪れるのは初めてだ。説明を求めてそっちに視線を移せば、彼はその表情のまま肩を竦める。
「何というか、ウィクトリアにいたときのことは、やっぱり僕にとっても相当きつかったみたいで」
「ああ、だから結界系の魔法ってわけね。消音もかけてる?」
「うん、ここの人たちを信用していないわけじゃないんだけど、他にもいくつか。陛下に許可は取ってあるよ」
「なら良いわ、警戒心が強いのは別に悪いことじゃないし」
けど、あんたが本当の意味で信じている人間なんて少ししかいないでしょうに。そう指摘するほどあたしは意地悪くないが、心の中で呟くくらいは許されるだろう。少し前まではあたしやキースのことも心から信頼してはいなかったんじゃ……ああ、信用と信頼、か。信じることは出来ても、頼ることは出来なかった、のか。
そっと嘆息し、彼の傍まで歩いて行って、あたしは机の上に広げられた本を見下ろした。どんなことが書かれているかまでは分からなくても、いくつかの単語には見覚えがあるから、古クローウィン語で書かれた文章であることは読み取れる。伊達に治癒魔法を勉強しているわけじゃないのだ。この国に来てから、あたしはあたしでクローウィンの医療を学んで、その過程で必要になるだけのクローウィン語は覚えていた。……もっとも、神国の治癒魔法はちょっと特殊すぎて、あたしにはあまり合わなかったけれど。神に祈れ、なんて御免だ。
「話したいことってのは、それ?」
「うん。……あまり、状況は好転しなかったけどね」
僅かに表情を曇らせ、彼は書かれた文字を指でなぞる。けれど顔を上げたときには、ジルの表情はいつもの、柔らかい微笑みだった。
「それでも、僕たちが知りたかった事実であることに変わりはないよ。ここに書かれているのは、言ってしまえば『神子の秘密』だ」
「神子の?」
眉を顰めて訊ね返すと、彼は「うん」と首肯する。
「神子には二種類ある。それについては知っているかい?」
「あー、確かアネモスにいたときに聞いたか読んだかしたわ。光の神子と闇の神子、ってやつでしょ」
「そう。この世界で神子と呼ばれ敬われているのは、正しくは『光の神子』の方で、実際には過去に何度か『闇の神子』と呼ばれる存在が降りたこともあるんだ。回数はとても少ないけれどね」
「そのこと、王族や一部の貴族しか知らないのよね? ……思い出した、確かシリルかリオ様に言われたんだわ。あいつら、何でそんな大事なことをあたしに」
少々特殊な生まれと立場とはいえ、一応あたしの身分自体は貴族でも何でもない。そう思って顔を顰めると、ジルの微笑に僅かに困ったような色が浮かんだ。
「リザなら大丈夫だと思ったんじゃないかな。それか、これはシリル様も兄様もやりそうなんだけど、外堀から埋めようとしたのかも。二人とも、知っていたんだろう? 君が僕を、……その、好きだ、って」
「そこで躊躇われると流石に傷つくわ」
傷つく、と言いつつ怒った顔をしてみせると、彼は予想通り、気まずそうに黙り込む。冗談よ、と表情を緩め、あたしは宙に視線をやった。
「そうね、あの辺りの面子は事情を知ってたし、特にシリル辺りはやりそうだわ。で、何で庶民には知らされないのよ、それ」
「神子の神聖性や威光を守るため、だよ。神子は奇跡の象徴でなければならない。民を徒らに混乱させないためにも、神子が不吉な存在であってはならない。だから、『そもそも存在自体が不吉な神子』なんて、絶対に存在してはいけないんだ。光の神子がいるだけでその国を栄えさせるなら、闇の神子は何をすると思う?」
「……いるだけで、国を……亡ぼす?」
「正解」
まさか、と思いながら呟くと、ジルは真面目な顔で頷く。説明を求めるように黙って見上げれば、彼もその意思を汲み取ったのだろう、何も訊かず話を続けた。
「もちろん、降りた神子がどちらであるか判別する方法はあるんだけど、それでも不安がる民は多いから隠されるようになったらしいよ。その判別の方法が、神泉なんだ。光の神子が神泉に触れれば水が白く光って、その神泉がある国に神の祝福をもたらす。闇であれば……その場で命を奪われると、書いてあったけど」
「何よそれ」
思わず漏れたのはジルに対する質問なんかじゃなく、単純な苛立ちだった。予想は出来ていたが、言葉にして聞くとこれほど一方的で理不尽で、そして傲慢な行いも無いだろう。闇の神子からすれば、突然知らない世界にいて、訳も分からないまま殺されるのだから。もちろん、それをジルに言っても仕方ないのは分かっている。今の辛そうな表情から察するに、彼もその制度を快くは思っていないのだろうし。ジルは深く嘆息すると、話を再開した。
「ここまでが、他国でも知っている人間は多い『秘密』だよ。さて、一つ問題」
そこで言葉を切り、彼は目の前に置かれた本のページを捲った。読めないことに変わりはないが、目に飛び込んできた挿絵を見て、一瞬だけ呼吸が止まる。凄惨な……そう、例えるならば前世で高校生だった頃に歴史の教科書で見た、飢饉や戦争の絵に近いもの。顔を上げると、真っ直ぐな夜空の瞳と視線がぶつかった。
「光の神子は、国にいるだけで幸福をもたらす存在だ。じゃあ、その神子が国からいなくなったら、どうなると思う?」
「……元に、戻るんじゃないの」
神子が来る前の、特別幸福でもない代わりに取り立てて不幸でもない、そんな生活に。普通に考えればそうだろう。けれどそうではないことは、話の流れから簡単に推測出来た。案の定、ジルはどこか哀しそうな顔で、そっと首を横に振る。
「そこにいることで幸福を、いないことで災いを。特定の国に降りた瞬間……正しくは神泉に触れた瞬間から、神子はこの世界に囚われる。それについては他国には明かされていないみたいだけど、歴代の神子の殆どが元の世界への帰還を望んだのに、一度も叶えられなかったのは事実だよ」
「やっぱ、神って人間のこと大嫌いなんじゃない」
神に愛された子、ですらその扱いなのだ。昨日あたしが語ったのは、確かに勢い余って言ってしまったことではあったけど、それでもずっと前から考えていたことだった。無表情で呟いたあたしを見て、ジルは何かを言いたそうに口を開いたが、すぐに躊躇うように黙り込む。大丈夫だと言ったのはあたしなのだ、その態度を指摘することも出来なかった。……ああ、こうやってまた、よりによってあたしが、誰よりもジルを傷つけるのか。
「僕は君に救われたよ」
「っ、……あたし今、口に出してた?」
どんどん悪い方向へと向かっていく意識を、不意にそんな声が引き戻した。まさか、と思って恐る恐る見上げると、ジルは苦笑する。そうして彼は、その手をそっと自分の胸元に置いた。服の下に何があるのかは知っている。約束の証、御守、そう言ってあたしが彼にあげた、薄紅の石。
「いや。でも、顔には出ていたから。リザ、僕は君に救われたんだよ。弱くても良いと、何があっても傍にいると言ってくれた、あの言葉に救われたんだ。君なら信じても大丈夫だと、そう思えた。だから、あまり思い詰めないで」
「……割と意地が悪いわよね、あんたは」
そんな優しい言葉はくれるくせに、一番欲しい想いについては待っていてほしいというのだから。いや、それで納得したのはあたしだし、待っていてあげるとも言ったけれど、それでも文句くらい言わせてほしいものである。――よく考えたら、過去のあたしはろくなことしてないわね。最近それで思い悩んでばかりだ。
「ねえ、ジル」
「何?」
「……ジルは、生きてるのよね」
「うん、当分は死ぬつもりもないよ」
「あんたそれすっごい自虐ネタだわ」
数か月前にはあたしに向かって自分を殺してほしいとか言ってきて、あたしを守るためとはいえ自分から敵に捕まりに行って、自分の命を投げ捨ててアネモスを助けようとしていた奴が言うことじゃないだろう。しかも同性でも間違いなく見惚れるであろう、爽やかな笑顔で。思わず反射的に睨むと、彼も分かっているのだろう、困ったような苦笑が返ってきた。深く息を吐き、ジルを見据える。右目の眼帯、そして左目の夜空の瞳を、真っ直ぐに。
「でも、そうね。……そう、よね。それなら、良いわ」
何が、とは言わない。それでも恐ろしいほどに聡い彼は、あたしの言葉を聴くと安心したように微笑んだ。
こんばんは、高良です。
第一部から第三部の色々な事件を経て、当然ながら前世とは変わった二人の関係。ジルがリザに想われることを受け入れた、というのは二人にとって大きいでしょう。……ジルの方がリザをどう想っているかは、さておき。
第四部でぼかされていた神子の秘密。二人は流していますが、今代の神子は第四部後半、どうなりましたっけ……?
では、また次回。




