番外編・三 告白と帰国
「ドミニク様」
「……ああ、アドリエンヌか」
見慣れた後ろ姿に声をかけると、彼は僅かな間の後でゆっくりと振り返り、嘆息した。予想とは少しずれた反応に、私は思わず首を傾げる。
「何ですか、その反応は」
「いや……慣れないものだな」
「ああ、呼び方ですか」
苦笑を返すと、ドミニク様はどこか不服そうに私を見下ろし、頷いた。
「本当に驚いたんだぞ。突然『様』なんてつけてくるから、気でも狂ったのかと思った」
「あら、それはお互い様でしょう。私だってとても驚きました」
「私は良いんだ」
「良くありません」
私は嘆息し、ドミニク様を見上げる。私が彼の名を呼び捨てなくなったのは、彼の一人称が変わったのとほとんど同じ時期だった。
このままではいけない、と思ったのだ。理由は分からないけれど、何かが変わらなければ私たちはずっと良い友人のままで、それではいけないのだと。……何故、いけないのだろう? 良い友人、大いに結構じゃないか。彼と出会うまで特に仲の良い友人というのがいなかった私にとっては、それだけでも十分すぎるほどだ。なのにどうして私は、下手をすればこの心地良い関係を壊してしまいかねないようなことをしたのだろう?
絡まりかけた思考を、訝しげな声が解いた。
「アドリエンヌ?」
「……ああ、すみません。少し考え事をしていました」
「一度考え出すと長いからな、お前。今度は何を考えていた?」
我に返って答えると、ドミニク様は面白がるような呆れているような、何とも形容し難い表情で私を見下ろす。流石に正直に答えるのも躊躇われ、私は苦笑した。
「いえ、大したことではないのですが。その一人称は似合いませんね、ドミニク様」
「……本当に大したことじゃないな」
私の言葉に彼は目を細め、嘆息する。実際にはそこまで似合っていないわけでもないのだが、やはりどうしても違和感はあるのだ。そう説明すると、彼は苦く笑った。
「私もそれは分かっているさ。だが、私には武器が無い」
「武器、ですか?」
「ああ、公爵として王を支えるための武器だ」
首を傾げると、首肯が返ってくる。いつしかその表情は、普段彼が滅多に見せないような真面目なものに変わっていた。
「アドリエンヌのように優れた頭脳だとか、あるいは武芸に秀でているとか、そういうものが私にもあれば良かったのだがな。あいにく勉強についてはお前も知っての通りで、剣術も人並みだ。そうなれば、もう虚勢を張る他に無い」
確かにドミニク様が学ぶことを苦手とするのはよく知っているが、別に彼は頭が悪いわけではない。むしろ、年上の多いこの学舎の中でも上から数えた方が早いだろう。剣術だって、彼が風の国にいた頃の話を聴けば、決してかの国の騎士たちにも劣らないのは容易に推測できる。けれど、それではいけないのだろう。彼の強すぎるほどの愛国心と忠誠心が認めない限り、ドミニク様にとって彼自身は未熟なままなのだ。
彼がドミニク様がグリモワールに留学してきてから、もう四年と少し過ぎた。最近では彼はあまり実父への不満を漏らさなくなったけれど、だからと言って何も感じていないわけがない。……やはり彼は、祖国に帰りたいのだろう。そう思うと得体の知れない寂しさに包まれて、私は思わず口を開いた。けれど放つ言葉も見つからず、その口をそっと閉じる。それに気付いたドミニク様が何かを言いかけたところで、不意に私たちの間に青い影が舞い降りた。
「……鳥、ですか?」
目を瞬かせる私の前で、ドミニク様は顔色を変え、鳥の足に結び付けられていた何かを掴み取る。恐らく手紙だろう。説明を求めるように見上げれば、彼は険しい表情のまま、手紙を開封しながら呟いた。
「トゥルヌミール家が遠方との連絡に使っている鳥だ。だが、何故――」
その言葉と視線が、手紙の恐らく最初の文章で唐突に止まる。
「ドミニク様?」
「……陛下が身罷られたらしい」
首を傾げると、彼からはどこか呆然としたような、僅かに震える声が返ってきた。その意味を瞬時に理解し、私もまた目を見開く。
「アネモスの国王が?」
「ああ。喪が明け次第、フェリクス殿下が即位なさるそうだ。……明朝には迎えを寄越す、と書いてある」
そう、それこそが、私が最も恐れていた言葉だった。無理やり微笑を浮かべ、私は彼を見上げる。
「では、帰るのですね? アネモスに」
「帰らなければならないだろう。父上の主は陛下であって、殿下ではない。フェリクス殿下が王になられたとき、陰で支えるのは私の役目だ。……しかし参ったな、父上も間が悪い」
予想通りというべきか、彼らしい返事が返ってきた。けれど付け足された言葉に、思わず首を傾げる。そんな私を見て、ドミニク様は苦笑した。
「いや、悪いのは意地の方か。お前に言っておきたいことがあるんだ」
「言っておきたいこと、ですか?」
「ああ。愛している、アドリエンヌ」
さらりと告げられた言葉に、一瞬息が止まる。けれど聴き間違いにも思えなくて、私は恐る恐る彼を見上げ、問いかけた。
「……正気ですか?」
「信じられないようなものを見る目で言われると流石に傷つくな」
私の言葉に、彼は再び苦笑いを浮かべる。けれどその言葉にからかうような色は見つからず、実際ドミニク様はすぐに真面目な顔に戻って、私の方に向き直った。
「正気だし、本気だ。まだしばらく言わないでおこうと思ったんだが、秘めたまま別れるのは耐えられそうにないからな」
「何故……」
自分でも気づかないうちに、囁きに近い声が漏れる。それを彼はどう受け取ったのか、面白そうに微笑んだ。
「アドリエンヌに惹かれた理由を知りたい、なら訊いても無駄だぞ。私にも分からん」
「分からないのに、愛せるものなのですか?」
「愛しいものは愛しいのだから仕方ないだろう。想いを伝えた理由を訊いているのなら、そうだな……私は、この奇跡をここで終わらせる気はないんだ。いつか必ず手に入れると、言っておきたかった」
「私は物ではありませんよ?」
冗談めかした笑みを携え、私はドミニク様を見上げる。彼は特に動じず首肯すると、私の髪を一房取った。流石というべきか、その動きは洗練されていて、不自然さがまるで感じられない。
「ああ、知っているとも。……必ず迎えに来る。そう言ったら、信じて待っていてくれるか?」
「……考えておきます」
「アドリエンヌらしいな」
すぐに答えられるわけも無く、曖昧な微笑と共にそうはぐらかす。私がこういったことに疎いのは承知の上なのだろう、ドミニク様は気を害した様子も無く笑うと、不意に床に置いていた荷物を取った。
「明日の朝ということは、今から帰る準備をしないと間に合わないか。アドリエンヌ、夜は家にいるだろう? 学長に挨拶しに行くから、その時にまた会おう」
「はい、また後で」
去っていく彼を視線で追い、その姿が隠れて見えなくなったところで、私は深く息を吐く。
今のは紛れもなく、愛の告白というものなのだろう。あんな言葉を聴く日が来るなんて、考えてもみなかった。もちろん、グリモワールで生まれ育ったといえ、私も人間で、一人の少女である。いつかは一度くらい恋というものをして、いつかは誰かと結婚したりするのだろうとはぼんやり思っていたけれど、それでもやはり心のどこかで、そんな世界を夢物語のように感じていたのだ。……よりによって一番近くにいたドミニク様にあんなことを言われるなんて、本当に予想外。いや、近くにいたからこそ、なのだろうけれど。
「……愛している、ですか」
愛、という感情。幼い頃から、どれだけ本を読んでも理解出来ないものの一つだった。私だって人並みに家族を想う気持ちはある。友人を大切に思う心だってある。けれど男女間の愛情というものだけは別で、何をもってそう呼ぶのか、どうすれば赤の他人を家族よりも深く想えるのか、まるで理解が出来なかったのだ。
「私は……ドミニク様を」
愛して、いる?
恐る恐る呟いた言葉は、驚くほどすんなりと心に馴染んだ。ばらばらに散らばった欠片の、最後の一つがようやく見つかったように。あの得体の知れない寂しさの正体も、友人のままではいけないと思った理由も、それならしっくりくるのだ。
一度認めてしまえば、心は驚くほど軽くなった。さっきまでとまったく同じ風景が、どこか色鮮やかにすら見える。同時に、ある考えが胸中に浮かんだ。信じて待っていろと、彼はそう言ったけれど。
「残念でしたね、ドミニク様。私は貴方の知っているような、お淑やかな貴族の令嬢ではないんですよ?」
それは彼だって、よく知っているだろうに。
思いついた悪巧みに、自然と声が弾んだ。
◆◇◆
「お久しぶりです、フェリクス殿下」
「ああ、四年ぶりだなドミニク」
国王の死という出来事のせいか、この年若き王子は色々と忙しいらしい。そんなわけで、俺がこの二歳下の君主の元を訪れたのは、アネモスに帰ってきてから一週間ほど経ったある日のことだった。彼は疲れたような表情をしていたが、俺が部屋に入るとニヤリと笑い、部屋の隅に立っていた護衛の騎士を見た。
「しばらく二人で話がしたい。下がっていろ」
「ですが――」
「余とて息抜きくらいは必要だ。この城の中ならばそう危険なことも無いだろう」
その言葉を聴き、こみ上げた笑いをどうにか押し込めて真面目な表情を保つ。しかしそれも長くはもたず、騎士が一礼して部屋を出て行くと同時、私は盛大に吹き出した。
「くっ……ははっ、余とはまた偉そうな! 似合っていないにもほどがあるぞフェリクス、私以上じゃないか!」
「……お前には主君への敬意といったものは無いのか」
恨めしげに睨んでくる主を無視し、彼の対面の椅子へと腰を下ろす。座れとは一言も言われていないが、そんなことはどうでもいい。
「心外だな、私は常に敬意を表しているだろう。しかし、相変わらず平凡な顔だな。いや、昔よりは多少良くなったか?」
昔からそうだが、フェリクスは王族にしては少々印象が薄いというか、あまり目立たない顔立ちだった。そのことをからかうと、彼は何とも形容し難い顔で黙り込む。しかしやがてその目を細め、苦い声色で訊ねてきた。
「……一体何をしに来たんだ、お前は」
「もちろん帰還の報告ですよ、殿下。それ以外に何が?」
「ほう。余はまた、グリモワールからお前を追いかけてきた物好きな女性でも紹介されるのかと思ったが。違うのか?」
「誰に聞いた?」
予想外の攻撃に、私は思わず勢いよく立ち上がり、真顔で返す。フェリクスは一瞬驚いたように目を瞬かせると、面白いものを見つけたと言わんばかりに意地の悪い笑みを浮かべた。
「驚いた。ただの噂話だと思っていたが、まさか本当だったのか? どんな女だ」
「お前には関係ないだろう」
「関係はあるさ。いずれ公爵夫人となる女性だ。お前が求婚する気なら、の話だがな」
面倒な王子だ、と嘆息してみせたところで、効いた様子はない。私は再び見せつけるように深く溜息をつくと、睨むようにフェリクスを見た。
「アドリエンヌ=エルヴァスティ。グリモワールの有力者の娘で、私より二歳下だ。一応、向こうからアネモスに留学してきて、公爵家で預かっていることになっている。お前がこうやって騒ぐのは予想できたからな、今日は屋敷に置いてきた。これ以上追及したら王子だろうと殴る」
「本当に敬意の欠片も無いな、お前は」
私の言葉に、フェリクスは呆れたように笑い、腕を組む。その目が、ふと遠くを見るように細められた。
「しかし、女嫌いのお前がそれを許すようになるとはな……四年は長い」
「うるさい、アドリエンヌは特別だ。だが、そうだな。ちび王子が偉そうに政務をこなすようになる程度には長いか。お前、結婚はしないのか?」
「ドミニクはどうなんだ」
「爵位を継ぐのと同時に、だな。父上もあと数年は公爵でいるつもりのようだ、それまでは精々楽をさせてもらうさ」
もちろん、次期公爵として覚えなければならないことは山のようにあるだろうが、いきなり王にならざるをえない目の前の王子よりは遥かにましだろう。私の言葉に込められたそんな意味を読み取ったのかフェリクスは嘆息し、しかしまったく別の言葉を返してくる。
「そのうちアドリエンヌ嬢にも会わせてくれ。興味がある」
「……気が向いたらな」
確かに会わせないわけにもいかないだろうが、国や政治の関係無いところでこいつの言うことを聴くのは何となく癪である。顔を顰めるのを隠そうともせず、私は渋々頷いた。
こんばんは、高良です。反省した矢先にまた大遅刻かますとかもう本当読者の皆様に殴られても文句は言えないレベルですね……?
そんなわけで、ドミニクさんの告白によって初めて想いを自覚したアドリエンヌさん。しかしその後の彼女の行動は何とも「らしい」ものでした。
っていうかちゃっかりシリクレのお父さんも登場してるんですけど……?
さて、恐らくドミアド編は次回で終わる、はずです。というか次話短い予感しかしません。その後はいよいよお待たせの第五部に突入する予定。
では、また次回!




