第三十四話 決意と誓い
カタリナは細かいことは説明してくれなかったけれど、あんなことを言われて不安に思わない方が無理だろう。帰る方法が出来たらすぐに向こうに帰る、と三人で決めて家に帰ったものの、両親も私の様子がおかしいことには勘付いているようだった。どうにか誤魔化して夕食を終え、シリルと共に私の部屋へと戻る。カタリナはあの話の後すぐに作業に戻ったから、ここにはいない。
明日にはアネモスに帰る。それはつまり今日か、遅くとも明日の夜までには決めなければいけないということだった。シリルも同じことを考えていたのだろう、私がベッドに腰掛けると、彼はどこか強張った表情で、立ったまま私を見下ろした。
「シリル? えっと、首痛いし、座ってくれると嬉しいんだけど」
「……あれから、色々と考えてみたんだ」
躊躇いがちに放った私の言葉を無視し、シリルは呟く。独り言のようなそれは、私の返答を待つことなく続いた。
「本当に良いのかな、って。君はああ言ったけど、こんなに平和な世界を君から奪ってしまって、向こうの色々な争いの中に引きずり込んでしまって良いのか。君が故郷を捨てて大変な思いをする、それだけの価値が僕にはあるのかも分からないし、君を護れるかも……幸せに出来るかどうかも分からない。ニナが嫌がっても、残った方が君のためになるんじゃないかって、本気で考えた」
シリルらしい悩み方である。優柔不断というか、優しいというか。抗議しようと口を開きかけた私を遮るように、シリルは「でも」と微笑んだ。
「やっぱり、無理だったよ。ニナがいない世界なんて、考えられない。君が隣にいてくれないと、きっと僕はもう何も出来ないんだ」
「……うん、それは私も同じだよ」
そっと頷いた私に、シリルは一瞬だけ嬉しそうな顔をする。しかしそれはすぐに真面目な表情に変わり、彼は真っ直ぐに私を見つめた。思わず、私まで背筋を伸ばす。
「逆に言えば、ニナが傍にいてくれれば頑張れる。君を護れるくらい強くなれる。だから、一緒に来てほしい――いや、違うな」
軽く首を振ると、シリルは突然床に片膝をついた。きょとんとする私に対して優雅に片手を差し伸べ、彼は顔を上げる。ふわり、と綺麗な、けれどどこか照れくさそうな微笑を携えて。
「僕と結婚してください、ニナ。絶対に幸せにすると、誓うから」
その言葉に、私は目を見開いた。同時に、顔が熱くなるのが分かる。だってそうだろう、この年でプロポーズされるなんて思わなかった。
シリルの言葉は、アネモスの王妃になってほしい、という意味でもある。数か月前までただの高校生だった私で大丈夫なのか、そんな不安は少しだけあった。けれど、彼はそんな事情も含めて、それでも護ってくれると言うのだろう。そう思えば、不安なんて一瞬で消えてしまった。シリルの言葉なら、信じられる。
だから、返す言葉は決まっていた。差し出された手にそっと自分の手を重ね、微笑む。
「――はい。喜んで」
後悔なんてしない。二人ならきっと、何があっても大丈夫。……普段よりずっと早い心臓の音は、けれどどこか心地良くすら感じた。
◆◇◆
「あの……ちょっと話があるんだけど、良いかな? お父さんも、今日は家出るの遅いよね」
「話?」
朝食を終え、ニナが躊躇いがちにそう切り出すと、彼女の両親は不思議そうに顔を見合わせた。ニナとおばさんが食器を片づけるのを見守り、二人が再び席に着いたところで、おじさんが静かに口を開く。
「それで、話とは何だい? 帰ってきてからでは駄目なくらい大事な話なのかな」
「はい」
その言葉に僕は頷き、姿勢を正して二人を見つめた。
「元の世界に帰る方法が、今日の夜には見つかりそうなんです。色々と相談して、見つかり次第すぐに帰ろうと言うことになったので、ゆっくり出来るうちにお世話になったお礼を言っておきたくて」
「まあ、良かった! もうちょっと時間がかかるかと思っていたわ。でも、お礼なんていいのに」
「本当にそれだけかい?」
ぱんと手を合わせて笑うおばさんとは対照的に、おじさんは何もかも分かっているとでも言いたげに目を細める。……ああ、やはり彼も間違いなく、かつての先生の父親だったのだ。敵わないなぁと心の中で嘆息した僕の代わり、隣に座るニナが首を振った。
「ううん、本題はここから。……あのね、お父さん、お母さん。私、シリルと一緒に行きたい」
「……そうか」
予想に反し、驚くほど静かな反応に、僕は思わず眉を顰める。それでも簡単に承諾出来るわけではないのだろう、彼らは顔を見合わせ、やがておじさんが険しい表情でニナを見た。
「もう一度こっちにくる方法はあるのかい?」
「う……分からない、かな。確実にあるとは言い切れないけど、でも一度は戻ってこられたわけだし、無いわけじゃないと思う」
「ではニナは、戻ってこられるかどうかも分からないのに、この世界を出て行くと言うわけだ」
「っ、それは……」
泣きそうに顔を歪めるニナを、彼はなおも厳しい表情で見つめる。その隣でおばさんが僅かに微笑んでいるのが気になったけれど、今は話を遮ることは出来なかった。
「ニナはまだ高校生だ。こっちの世界にいれば、神子でも何でもない、ただの高校生でいられる。それに、向こうで怪我をしたんだろう? いくら魔法があるとはいえ、こっちの世界よりずっと危険の多い世界だ。ニナが困っても、父さんも母さんも助けには行けないし、ニナがこっちに帰ってくることも出来ないかもしれない。愛しい娘と二度と会えないかもしれないのに、黙って送り出す親がいると思うかい? それでニナが不幸にならない保証が、どこにある?」
「でも――」
「ニナ」
なおも言葉を続けようとした彼女の手に、そっと自分の手を乗せる。不思議そうにこっちを向いたニナの瞳は僅かに潤んでいて、僕は黙って微笑みを返した。同時に、心の中で自分を叱咤する。またそうやってニナに甘えて、彼女にばかり頑張らせてどうするのか。
ニナのために強くなると、彼女自身に誓ったのだ。ここで頑張らなければいけないのは、僕の方だろう。そう自分に言い聞かせて、僕は正面に向き直った。
「そのことでお話があります、おじさん」
「言ってごらん」
僕とニナのやり取りを見たからなのか、彼の表情は僅かに柔らかくなっていたが、それも一瞬のこと。僕が口を開くと同時に、その顔は再び真面目なものに戻っていた。自然、話を始めたときから伸ばしていた背筋が更に真っ直ぐになる、緊張からだろう、表情が強張るのが自分でもよく分かった。今から言おうとしている言葉を考えたら、なおさらだ。それでも、言わなければいけない。ニナの手を握る手に僅かに力を込め、彼の目を見て口を開く。
「ニナを――お嬢さんを、僕にください」
途端、僅かに鋭さを増した視線が、真正面から突き刺さった。けれど、逃げるわけにはいかない。不吉なほど高鳴る心臓を抑えつけ、睨むように彼を見つめ返す。隣でニナが心配そうに僕を見ているのが分かって、僅かに恐怖が薄れた。
「決して不幸にはしません。確かにこちらの世界より危険なこともありますし、ニナを今までとは全く違う環境においてしまうのは事実です。だからこそ、どんな困難からも、危険からも、この身を挺して護ってみせます。お二人の危惧なさっているような事態は、絶対に起こしません。僕は……彼女無しでは何も出来ないほどに、ニナを愛しているんです。誰よりも幸せにすると、誓います。だから……僕を、信じて頂けませんか」
深く頭を下げ、そのまま言葉が返ってくるのを待つ。どれくらい時間が経っただろう、じわじわと肌に突き刺さる沈黙が鋭さを増して、やがて諦めたような深い嘆息が聞こえた。
「顔を上げてくれ、シリル君」
言われるままに顔を上げ、おじさんを見る。彼は僕と目が合うと、再び息を吐いた。
「そう必死な顔をされると、こっちが悪者のようじゃないか。……ニナは、どうなんだ?」
「私も同じだよ。シリルと一緒にいたいし、シリルなら絶対に私を護ってくれるって信じてる。それくらい、シリルを愛してる」
「……そうか」
ニナの答えに、おじさんは何とも形容し難い微妙な表情で目を閉じ、黙り込む。しかし今度の沈黙は短く、彼はすぐに目を開き、真剣な目で僕を見た。
「シリル君。ニナを、頼んだよ」
「っ……はい!」
「ありがとう、お父さん!」
力強く頷いた僕の隣でニナが立ち上がり、机を回り込んでおじさんに抱き着く。彼は少しだけ嬉しそうな顔でそれを受け止めると、すぐに残念そうな顔で嘆息した。
「こんなに早く手放すことになるなら、もっと甘やかしておけば良かったな……」
「あら、またそんなこと言って。十分甘いわ、今の話だって最初から許す気だったのでしょう? あまりシリル君を苛めないで、もっと早く頷いてあげれば良かったのに」
「まだ高校生だぞ? シリル君なら安心して任せられるが、それとこれとは別だろう!」
「そういうことを、うちの両親も思ったんでしょうねぇ」
おばさんの言葉に、おじさんは気まずそうな顔で黙り込む。彼女はそれを見て微笑むと、すっと立ち上がった。
「ほら、そろそろ出ないと、仕事に遅れるわよ。ちょっと見送ってくるから、シリル君もニナもゆっくりしててね」
嫌そうなおじさんをせっつき、おばさんもまた部屋を出て行く。二人の足音が遠ざかったところで、僕は脱力して机に突っ伏した。
「疲れた……」
「あはは、お疲れ様。シリル」
「……こんなに緊張したのは生まれて初めてだよ」
自分の席に座り直すニナを見上げ、嘆息する。彼女はくすっと笑うと、首を傾げて訊ねてきた。
「アネモスには無いの? こういう……恋人の両親にご挨拶、みたいな」
「いや、貴族はともかく、平民の間には普通にあるよ。だから、そういうことを言うんだ、っていうのは知っていたけど……まさか自分がそれをすることになるなんて思わなかったから」
アネモスという大国を背負う身で結婚相手を選ぶなんてことは出来ないだろうと、物心ついた頃から諦めきっていた。自国内の貴族の令嬢か、他国の王女や貴族か、それとも時期が合って運が良ければ神子か……いずれにせよそこに僕の意思はなくて、恐らく相手の意思すらも関係ないと思っていたのだ。それに貴族や王族なら親の方が娘を差し出してくるだろうし、神子であれば了承を取るべき相手は文字通り別世界の人間である。まさか自分が恋人の両親に頭を下げる日が来るなんて、どころかそれほど想う相手が出来るとすら、考えたことも無かった。
そんな、言葉の裏に込めた思いを読み取ったのだろう。ニナは苦笑交じりに微笑むと、机の上に投げ出した僕の手を掴む。
「格好良かったよ」
「……それはどうも」
「だから、ご褒美ね」
「え?」
思わず顔を上げた瞬間、ニナの顔が目の前にあった。目を見開く暇もなく、頬に感じるどこかくすぐったい感触。この間と同じ、花のような甘い香り。
気付けば距離は再び元に戻って、ニナはこっちを向いて椅子に座り、恥ずかしそうに微笑んでいる。そんな彼女に、僕は不満げな表情を作ってみせた。
「僕は口にしたのに」
「ふぇっ? ……う、その、やっぱり恥ずかしいっていうか」
「……僕は」
「か、帰ったら! アネモスに帰ったら、するから!」
「言ったね?」
勝ち誇った顔で見れば、ニナはしまったとでも言いたげに黙り込む。そんな彼女が可愛くて、僕は勢いよく体を起こすと、彼女の腕を掴んで引き寄せた。そのままニナを抱き締め、その耳元でそっと囁く。
「必ず、君を護ってみせるから。信じて」
「うん、信じてる。大好きだよ、シリル」
微笑みを交わした僕たちは、何も知らなかった。
そう遠くない未来に起こる、アネモスどころか世界を揺るがす、不幸な出来事。神子の帰還は、その始まりに過ぎないのだと。
こんばんは、高良です。……遅刻、ダメ、絶対。
そんなわけで今回もシリニナ回。第四部も終わりが近くなってまいりました。
ニナをアネモスに連れ帰るとなれば、当然シリル君も責任を取らなけれればいけませんよね。そうそう、「お嬢さんをください」は彼女を物扱いしているため、実は挨拶としては最悪らしいです。本編中ではこれが一番しっくりきたので取り入れましたが、これから彼女の実家に挨拶に行く、なんて方がいらしたら気を付けてくださいね。……いないか。
では、また次回。




