第三十一話 答えはここに
目が覚めると、天井がすぐ近くにあった。
「……逆だ」
今まで寝泊まりしていたあの部屋がおかしかったのだろう。体を起こしてぐるりと見回せば、視界に映るのは見慣れた、長い年月を過ごしてきた自分の部屋。天井だって、一般的な日本家屋の、ありふれた高さだ。
「そっか……帰って、来たんだよね」
もしかしたら今までのことは長くてよく出来た夢だったんじゃないか。一瞬そんな考えが浮かんだけれど、そうじゃないのは私が一番よく分かっている。大体、向こうにも大切な人はたくさんいるのだ。彼らとの出会いまで否定したくはない。そんなことを考えながらふと机に目をやると、通学用に使っている鞄が置いてあるのが見えた。昨日はそんなものはなかったから、恐らく私が寝た後で、お父さんかお母さんが置いて行ったのだろう。立って行って中を漁ると目当ての物はすぐに見つかって、私はどこか震える手でそれを取り出す。
薄いピンク色の、見慣れた携帯。ついているストラップは誕生日に友達がくれた、小さな猫のマスコット。解約とかしてくれて良かったのに、なんて思いながら開くと当然画面は真っ黒だったが、予想外なことに電源を入れると息を吹き返した。待受画面に表示された通知を見て、私は目を見開く。
「あ……ぅ」
一瞬迷惑メールかと疑ってしまうほどの、見たことが無い量のメール。けれどそんなわけもなくて、送り主はみんな友人たちだった。私が向こうの世界に行ったばかりの頃は、私の無事を心配していたり、家出ならせめて自分たちにはメールしてくれという懇願だったり……けれど少しするとそれは、「届かないのは分かっているけど送らずにはいられないから」と言った前置きを含んでいた。恐らくその辺りで、荷物だけがあの場に残っていたことを知らされたのだろう。
ずるい。こんなの反則だ。昨日だけで一生分は泣いたと思っていたのに、またぼろぼろと涙が零れてくる。それを拭おうともせずに、ぼやけた視界に映る画面を眺めていると、不意に背後から声が響いた。
「それは何ですの?」
「……おはよう、カタリナ」
昨日は私が眠りにつくまで姿を見せなかったから、どこかに出かけているのかと思っていたけれど、よく考えれば彼女が私に黙って遠くに行くわけがない。そんな簡単なことも分からなかった自分を叱りつつ、私は涙を拭いながら振り返った。
「携帯、って話したこと無かったっけ? 遠くにいる人と会話したり、手紙みたいなものを送り合ったり……他にも色々と出来る機械だよ」
「ニナが泣いている理由の説明にはなっていませんわね」
「友達にすっごく心配かけちゃったみたいで、たくさん手紙が来てたんだよ。それで……私って愛されてたんだなぁ、って思って」
「貴女の愛され体質は才能ですわ」
呆れたように嘆息するカタリナに苦笑を返し、もう一度画面を見つめる。後でじっくり読もう、そう思いながら画面の上の方に表示されている時間を見ると、九時を十分ほど過ぎたところだった。……うわぁ大寝坊。今日は平日で、まだ夏休みには入っていないはずだから、学校があったら間違いなく遅刻だ。ついでに言えばアネモスの王城じゃ毎朝侍女が起こしに来てくれる生活を送っていたから、寝坊の心配なんていらなかった。服を選ぶのに少し時間がかかったのも、毎朝その日の服を持ってきてもらっていたからだろう。それでも数か月前までやっていた作業だ、戸惑うほどのものじゃない。シリルがいることを考えて少し可愛い服を選び、着替え終わったところで、私は再びカタリナを見上げた。
「とりあえず朝ご飯食べて、今日一日どうするか決めないとね。迂闊に外に出るわけにもいかないし」
「昨日も思いましたけれど面倒ですわね、こちらの世界は。たかが人一人いなくなった程度で、そこまで騒がれるものですの? ……いえ、ニナが例外なのかしら」
「両方、かなぁ」
カタリナの言葉に、私は曖昧に苦笑する。確かに私の場合は知り合いが多いから警戒が必要だというのもあるけれど、例えそうじゃなくても戻ってきてから苦労するのは間違いなかっただろう。まだ神隠しとか、そういうものが『ありえる』のだと認識されていた昔ならもう少し楽だったのかもしれない。けれど今は……両親が何も言わず捜索願を取り下げても不思議に思う人はいるだろうし、私が出て行ったら当然事情を説明する必要があった。異世界で神子やってました、なんて言ったら、下手すると精神病院に直行かもしれない。
「今後のことも、シリルと話し合わないとね。シリルったら無駄に責任感強いし、お兄ちゃんみたいにぐるぐる悩んで悪循環に陥ってそう。……昨日までの私か、それは」
「似た者同士だと思いますわよ? 一応、あの優柔不断王子には軽く発破をかけておきましたけれど。あとは貴方たち次第ね」
「手間が省けて助かったけど酷い言い様だね……」
呟いた私に悪戯っぽい笑みを返し、小さく欠伸をすると、彼女は「では、何かあったら呼んでくださいな」と言い残してふっと宙に消える。気を遣ったのか興味が無いのか、彼女の性格を考えると判断は難しかった。苦笑交じりに嘆息したところで、不意にノックの音が響く。
「ニナ、起きてるかい?」
「シリル?」
駆け寄って行ってこっちからドアを開けると、彼はいつもと同じように、柔らかく微笑んだ。
「おはよう、ニナ」
「うん、おはよ。……新鮮だね、シリルのそんな格好」
昔お兄ちゃんが着ていた服を、お母さん辺りが引っ張り出したのだろう。ネイビーのポロシャツにベージュのハーフパンツ。そもそも日本よりずっと過ごしやすい気候のアネモスでは一日中長袖でいることがほとんどだったから、彼がここまで薄着というのも珍しいかもしれない。舞踏会のときなんて、私は半袖だったけれどシリルは上着まで着てたし。いや、あの場で正装じゃなかったらそっちの方がまずいんだけど、うん。
元が良いからか、こっちの服装も普通に似合っている。思わずまじまじと見つめていると、シリルはどこか居心地悪そうに目を逸らした。
「こっちの服は、何ていうか……不思議だよね」
「向こうとは作りも素材も違うもんね。でも似合ってるよ、格好良い」
「……それはどうも」
照れ臭そうに微笑み、シリルは私の目を真っ直ぐに見つめる。その顔が、不意に真顔になった。
「ところでニナ」
「うん?」
「その恰好はとても目のやり場に困るので何かもう一枚くらい羽織ってくれるとありがたい」
「やだよ暑いもん」
私の答えを予想していたのだろう、シリルは疲れたように嘆息する。まぁシリルがそういう反応をすることも考えた上で薄着なんだけど、暑いからというのも嘘じゃない。アネモスの気候に体が慣れてしまったのだろう、七月上旬の暑さでも我慢できなかった。そこまで大胆に露出しているわけでもないのだが、シリルには効いたらしい。
「そんなことより、シリルはいつ起きたの? ちゃんと眠れた?」
「うん、一応。夜が明けた頃に目が覚めたけど、それはいつものことだし。それで、ニナのご両親から色々と話を聞いていたんだけど……おばさんが、ニナが起きていたら起こしてきてほしいって」
「……馴染んでるね、シリル。呼び辛そうだけど」
本当に新鮮というか、面白いというか。私のそんな感情が伝わったのだろう、彼は苦笑した。
「呼び辛いけど、変えたら怒られそうで」
「あはは、間違いないと思う。じゃ、下に行こうか。今後のことは、お母さんの話を聞いてから決めよう」
「ニナ、それなんだけど――」
部屋を出て振り向くと、シリルが僅かに真剣な表情で私を見つめる。なるほど、カタリナの言ったことは本当で、彼女の言葉はどうやら効いたらしい。けれど私はその言葉を遮るように、にこりと微笑んで首を振った。
「後で、ね。私もシリルに言いたいこととか訊きたいこととか、……相談したいこととか、色々あるから」
「相談?」
「うん」
微笑だけを返し、階段を降りる。それで納得したのかは分からないが、シリルもそれ以上追及はしてこなかった。そのまま居間に入ると、座っていたお母さんがくるりと振り向く。
「あら、起きてたのね。ありがとう、シリル君。おはようニナ、やっぱり疲れていたのかしら? 随分とお寝坊さんね」
「久しぶりに帰ってきたから、安心しちゃったのかも。おはよう、お母さん」
「よく眠れたなら良かったわ。お腹すいたでしょう、朝ご飯にしましょうか」
「まだ食べてなかったの?」
もうそろそろ九時半だ。今日はお父さんが朝早いと聞いていたから、それに合わせてとっくに食べ終わっているかと思っていたのに。驚いて訊ね返すと、母は苦笑する。
「ええ、お父さんはちゃんと食べて行ったんだけど、お母さんはニナと一緒に食べたくて。シリル君まで我慢する必要はなかったんだけど、大丈夫っていうから」
「そっか」
私が頷くのを確認し、母は台所に歩いて行った。その背中をぼんやりと目で追うと、不意に振り返った彼女と目が合う。
「そうそう、忘れちゃうといけないから、先に話しておくわね。昨日お父さんが冬哉君に電話したでしょう? 今日は忙しいみたいなんだけど、明日には来てくれるそうよ。事情は何も説明していないのに、あの子もお人好しよねぇ」
「来実さんはすっごいお人好しだよ? じゃあ、今日明日は外には出ないようにするね」
「ええ、大丈夫だとは思うけど念のためね。……それなら明後日辺り、皆で買い物にでも行きましょうか。どれくらいこっちにいるかは分からないけれど、シリル君も色々と要る物があるでしょうし」
「……楽しそうだね」
何度目か分からない言葉を呟くと、お母さんは言葉通り、本当に楽しそうに微笑んだ。
◆◇◆
箸という物を使った食文化は、向こうの世界でも遠い異国に存在していた。小さい頃に少しだけ習ったその知識のおかげで戸惑いはしなかったけれど、苦戦したことに変わりはない。それでも、どうにか食事を終えられた。ニナやその母親には無理をしなくても良いと言われたのだけれど、強がってしまったのは仕方がないだろう。
食器を洗うから、というおばさんだけを一階に残し、ニナについて二階へと上がる。彼女は何の躊躇いもなく自室の扉を開けると、僕を部屋へと招き入れた。……いや、さっきは僕からここに来たわけだけれど、何ていうか。
「……男をそう簡単に自室に入れない方が良いと思うよ、ニナ」
「今更だね」
確かに城では互いにしょっちゅう行き来していたけれど、そういう問題ではないだろう。言い返そうとする僕を遮るように、彼女はどこか不満そうに続ける。
「大体、シリルじゃなきゃしないよこんなこと。あ、家族は除いて、ね。もう恋人同士じゃないの? 遠慮することなんてないでしょ」
「それは……そうだけど」
咄嗟に言い返す言葉が見つからずに黙り込むと、ニナは満足気に微笑んだ。自分は寝台に腰を掛け、僕にはそのすぐ傍、机の前に置かれた椅子を薦めてくる。椅子の向きを変え、彼女を向き合うように座ったところで、ニナは僅かに表情を引き締めた。
「本題に入ろっか、シリル。今後のこと、っていうか……これからどうするのか。シリルは多分、帰る方法が見つかったら一人で帰るつもりでしょ?」
「うん、それが『最善』だと思う。ニナがこっちに帰るのに協力する、って約束だっただろう? 僕が向こうに帰って、初めて僕たちは最初の目的を達成出来るわけだし、ニナにとってはそれが一番良い。……そう、思っていたんだけど」
「今は違うの?」
驚いたように訊ねてくるニナを見て、少しだけ躊躇う。だって今から言うことは完璧に僕のわがままで、彼女だけじゃなくその両親まで――見知らぬ異世界人でしかない僕にも親切にしてくれる善良な人たちまで、不幸にしてしまうかもしれないことだ。無理強いするつもりはないけれど、彼女に嫌われてしまう可能性があることに変わりはない。どう答えようか迷っていると、ニナは不意に僕を覗き込んできた。その顔は彼女にしては珍しいくらい真剣なままで、そんな迷いまで見透かされているような気分になってくる。目を逸らせない僕に対し、ニナは静かに問いかけた。
「ねえシリル、私のこと好き?」
「……好きだよ、大好きだ。昨日も言っただろ?」
「どれくらい?」
「どれくらい、って」
何を基準に答えれば良いのか。そもそも、どうして突然。言葉に詰まった僕に、彼女は質問を重ねてくる。
「私のためなら、離れても平気くらい? 私が幸せなら、もう二度と会えなくても良いの? それとも、……私が泣いて嫌がっても、離してくれないくらい?」
「っ!」
遠慮がちに、不安そうに放たれた言葉に、一瞬呼吸が止まった。どちらが正解なのか、と迷ったのはその後のこと。けれど答えは既に出ているのだ、嘘なんてつけるわけがない。絞り出した声は、当然のように震えていた。
「……離したくないに、決まってるよ。許されるなら君を抱き締めて、そのまま連れ去りたい。一緒に向こうに帰って、ずっと一緒にいたい。……だけど、そのせいで君に嫌われるくらいなら、僕は」
つう、と一滴だけ自分の頬を伝った雫に気付き、手の甲で拭う。泣くのなんて何年振りだろうか。子供の頃も一人きりのときじゃないと泣かなかったから、人前で涙を見せるなんて本当に久しぶりかもしれない。流石に初めてではないだろうけれど。
僕はどれだけ情けない顔をしていたのか、そこまでは確かめようがないし、ニナの表情からも知ることは出来なかった。彼女は苦く微笑んで「そっか」と呟くと、倒れ込むように僕に身を預けてくる。慌てて受け止めると、彼女は僕の胸に頭を乗せて、俯いたまま呟いた。
「あー……参ったなぁ。やっぱ私、……私も、シリルのこと大好きなんだなぁ」
「ニナ?」
その声は、そして肩は確かに震えていて、彼女もまた泣いているのだろうと分かる。僕が恐る恐る見下ろすのと同時に、ニナはゆっくりと顔を上げた。やはりというべきか、その顔は涙に濡れていたけれど、それでも何よりも綺麗な笑顔で。
「お互いにさ、帰る方法が見つかるまでにゆっくり考えてみよっか、シリル。私たちに必要なのは、時間だと思うんだ。自分の道を選ぶためっていうよりは、覚悟を決めるための時間」
「覚悟?」
訊ね返すと、彼女は頷く。その瞳にはいつの間にか真っ直ぐな、力強い光が灯っていた。
「私も、シリルと一緒にいたいよ。シリルが一緒に帰ろうって言うなら、全てを捨ててアネモスに行きたいくらい――だけど、行けるって頷くことは、まだ出来ないから」
「……だから、覚悟、なんだね」
「うん。シリルが悩んでいたのもきっと、同じようなことでしょう? 私は、シリルが決めたことなら反対しない。最初の予定通り残るべきだって言われたら残るし……抱き締められたら、逃げないから」
「ニナは……それで良いの?」
彼女が強いことは知っている。けれどそれではあまりにも、彼女が譲りすぎではないか。全てを捨てて、とニナは何でも無さそうに言ったけれど、言うほど簡単ではないのはよく分かっている。彼女がこの世界で生きてきた十六年よりも、僕と過ごしたたった四カ月を、それだけしか過ごさなかった向こうの世界を取るというのだから。震える声で訊ねると、彼女はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて頷いた。
「うん。一つだけ、お願い聞いてくれるならね」
「何?」
「キスして」
「……っ!」
正面からの攻撃に備えていたら思いっきりフェイントをかけられた気分である。思わず言葉に詰まると、ニナは一転して不満気に、上目遣いで睨んできた。……可愛い、いやそうじゃなくて。この表情は反則だろう、と心の中でぼやく僕に対し、彼女はその表情のまま首を傾げる。
「嫌なの?」
「嫌、じゃないけど……」
「じゃあどうして駄目なの?」
「駄目っていうか、そういう問題じゃ――ああ、もう! 目閉じて!」
どうやらこれ以上反論しても、こっちが墓穴を掘るだけらしい。そう悟り、僕は半ば自棄になって叫んだ。ニナは僅かに微笑んで、静かに目を瞑る。その頬が朱に染まっているのを見て、とりあえず僕だけが赤面しているわけではなかったことに安堵した。
彼女の頬に手を添え、形の整った桜桃色の唇に、自らの唇を重ねる。柔らかい感触と共に、ふわりと花のような甘い香りが漂った。
こんにちは、高良です。久しぶりにちょっと遅れてしまいましたが、その分長めになっております。
ひたすら糖度高い回になりました。意図せず。
主人公カップルより他のカップルの方がいちゃついてることに定評のある枯花です。シリニナとリオマリは今のところ二大バカップルです。ジルリザはまだくっついていないのにね。
……また問題を先延ばしにしただけな気もしますが。
では、また次回。




