第二十八話 母の胸に抱かれ
カタリナが戻ってきて日没を知らせてくれたのは、それからしばらく経ってからのことだった。彼女は私たちを見るなり面白そうな笑顔を浮かべて、けれどそれについては触れない。……あー、うん、気付かれたね。カタリナなら絶対すぐに気付くだろうと思ってたけど、別にまだ抱き締めあってたりとか変にくっついてたりとか、そんなことはないのに見ただけで分かっちゃうんだね。流石、としか言いようがない。同じことを思ったのか、シリルがどこか居心地悪そうに問いかけてきた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。道は分かるんだね?」
「大丈夫、覚えてる。こっちは向こうと違って夜でも完璧に暗いわけじゃないし、迷ったりすることもないはずだよ。じゃあカタリナ、お願い」
「ええ」
私と目があった彼女は軽く頷き、すっと指を宙に走らせる。呟かれた異国の言葉と同時に描かれた魔法陣が光って、水がかけられたような冷たい感覚が頭から足元へと走った。私の隣で同じように身を竦ませながら、シリルが抗議する。
「……こういうのは前もって言ってくれませんか?」
「あら、仮にも魔法を学んでいるのでしたら、使う魔法の予想くらい立てて御覧なさいな。ジルなら予告なしに魔法を向けても、咄嗟にこっちの魔法を識別して防御くらいはしますわよ」
シリルの言葉に、カタリナは僅かに宙に浮き、文字通り上から目線で言い放った。……いや、でもその理論は色々とおかしい。私と同じことを考えたのだろう、シリルは疲れたように嘆息して彼女を見上げる。
「先生と一緒にされても……というか、そんなものどうやって識別するんですか」
「貴方のその魔力は飾りですの? 視れば分かるでしょう。もっとも、知っている魔法でなければそれが何であるかまでは分からないでしょうけれど」
「……勉強しろ、ってことはよく分かりました」
再び嘆息し、シリルは「行こうか」と私を振り向く。慌てて頷き、彼の後を追って階段を降りれば、当然一階の例の部屋に辿り着いた。……恐らく、元は病院のロビーだったのだろう、つまりここを通らなければ外に出ることは出来なくて、けれど横切ろうとすればおびただしい血の痕は嫌でも視界に入ってきた。早足で通り過ぎ、息を吐いたところで、シリルが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「うん、平気。昔一度見たわけだし。ただ、ちょっと……ほら、向こうでお姉ちゃんに会っちゃったから、また色々と考えちゃって」
でも大丈夫、とシリルに微笑み、私は玄関の扉に手をかけた。深呼吸して一気に開けると、真っ先に懐かしい音が耳に飛び込んでくる。
遠くを走る車の音。街を歩く人たちの声。決して静かではないけれど、ごく平凡な町の夜。この辺りはもう廃屋ばかりで人は滅多に通らないけれど、少し歩けばすぐに町中に出られるわけで、音がこっちまで届くのもよく考えれば当然だった。ずっと当たり前のように聞いてきて、たまには少しうるさいとすら感じて、……もしかしたらもう二度と聞けないんじゃないかと、諦めかけていた音。思わず震えた肩を、シリルがそっと抱くように支えてくれる。
「まだ、泣くのは早いんじゃないかな。帰るんだろう? 君の家に」
「……うん」
その言葉に首肯を返し、浮かんだ涙が零れないうちに拭う。ここから家までは、歩いても十五分ほどだったはず。二人を案内する形で歩き出して、私はふとカタリナを振り返った。泣きたくなるほど懐かしい周りの景色から意識を逸らすため、というのもあったけれど、少し気になることがあったのだ。
「ねえカタリナ、訊いても良いかな? カタリナのお父さんやお母さんって、どんな人だった?」
「……どうしたんですの、突然」
投げかけた問いに、私の隣をふわふわと浮いていたカタリナは驚いたようにこっちを凝視する。不機嫌そうに細められた目で、彼女があまり両親について語りたくないのは分かった。というかこの子、そもそも自分の家族というものについて語ろうとしないのだ。こっちにも引けない理由はあったのだけれど、確証がないのに言うことも出来ず、私は曖昧な笑みを返す。
「シリルの両親……陛下や王妃様には何度か会ったし、どんな人かも知ってるんだけどね。カタリナはほら、その前に二人とも亡くなったわけだし、当然会ったことも無いでしょ? だから、気になっちゃって」
「……母はともかく、父には会わなくて正解ですわ。ウィクトリアの王に相応しい、私以上の狂気の塊でしたもの。人間と思う方が間違いよ」
「そうでしたね。彼には処刑寸前まで抵抗されて、こっちの騎士もかなり痛手を負いましたよ。その点、貴女は楽でした」
「あら、それはどうも」
嘆息交じりのシリルの言葉に、カタリナは妖艶に微笑む。あー、やっぱりまだ、たまにこういう危ない空気になるんだよなぁ。アネモスとウィクトリアの関係を考えれば仕方のないことだとは分かっているんだけど、二人に仲良くしてほしいと思う私にとっては少し居心地が悪い。その間に割り込むように、私はカタリナを見上げた。
「じゃあ、お母さんは普通だったんだ。どんな人だったの?」
「愚かな人でしたわ。……普通、とは言えないわね。愚かで可哀想な、神子でした」
「神子?」
不意にシリルが足を止める。信じられないと言わんばかりに眉を顰め、彼はカタリナを見た。いや、実際信じられないのだろう。シリルがこんなに険しい表情を浮かべるなんて、あまりないことだ。
「ありえません。ウィクトリアに神子が降りたことはない。神殿の記録では、最後に神子が降臨してからニナが来るまで、数十年の空白があったはずです」
「呆れた、貴方は一体何を見てきたのかしら? あの父が、素直に神殿に協力するとでもお思い?」
「それは……無い、でしょうね」
馬鹿にするようなカタリナの言葉に、シリルは苦い顔で呟く。何が面白いのか、カタリナは笑みを漏らしながら続けた。
「実際、母は運悪く父に見つかってから死ぬまでの殆どの時間を牢の中で過ごしましたわ」
「……待って。ウィクトリアの王妃様が亡くなったの、十年くらい前だよね」
主要な国の歴史はアドリエンヌさんから習っている。ウィクトリアについて教わったときには既にカタリナと仲良くなった後だったから、つい怪しまれない程度に色々と聞いていたのだ。思わず訊ねると、どこか感心するような笑みが返ってくる。
「よくご存知ね」
「神子が降りた国には色々と良いことがあって、それが神の祝福とか呼ばれているんでしょ? でもそれは、その神子が生きている間だけで……同じ世界に二人以上の神子が存在することは絶対に無いから、神子が死ぬまで新しい神子は降りない」
「ええ、それが何か?」
私の言いたいことは、既に分かっているのだろう。それでも面白そうに微笑むカタリナに内心嘆息しつつ、私は言葉を続けた。
「カタリナのお母さんが亡くなってから私が来るまで十年くらいあったのは、まだ分かるよ。前の神子が死んだ直後に新しい神子が来ることもあれば、次の神子が降りるまでに五十年も百年も間が空くことも珍しくない、って聞いたから。でも……小国だったウィクトリアがアネモスを脅かすほど大きくなったのは、王妃様が亡くなった後のことでしょ?」
そう、それでは計算が合わないのだ。もちろん、国の拡大は神子の力ではなく帝国の人たちの力だ、なんて言われたら反論は出来ない。けれどカタリナは私の予想通り、楽しそうに頷いた。
「そうね、通常なら神子の力は既に薄れて、ウィクトリアがあそこまで大きくなることはなかったでしょう。もしかしたらアネモスとの戦争も起こらなかったかもしれないわね」
「通常なら?」
カタリナの言葉に、シリルが眉を顰める。その顔が、不意に青ざめた。
「まさか……そんな。貴方たちは、そこまで」
「あら、それに関しては父の独断だわ。私を責めるのは間違いではなくて?」
「シリル? 何か知ってるの?」
首を傾げると、彼はゆっくりと首を横に振る。説明を促すようなシリルの視線に対し、ここにきて初めて、カタリナはどこか自嘲するような笑みを浮かべた。
「力とは肉体に宿るものではなく、魂に宿るものですわ。神子の力と言うのは少々特殊で、転生の際に消されると聞きましたけれど。それでも死んでから転生するまでの間も、その魂は『神子』なのよ。父がそれを理解していたとは思えませんけれど、彼は神子の力を永遠にウィクトリアに留めることで、それを独占しようとしたのです」
「えっと……つまり?」
心の奥で理解は出来たけれど、それを認めるのはどこか怖くて、私は恐る恐るそう訊ね返す。カタリナは静かに嘆息すると、どこか遠い目で語った。
「母を殺して、その死体に彼女の魂を縛り付けたのですわ。……この紅い目はウィクトリアが神に選ばれた証であり、神の祝福の証なのだと、父はそう語っていました。逆に叔父は神の呪いと呼んでいたけれど、私たちが他国に無い力を持っていたのもまた事実。父がその血によって母を縛ったのも、神に選ばれたがゆえに、なのでしょうね」
「……神子を貶めるというのがどういうことなのか分かっていて、そんなことを? 神への冒涜、では済みませんよ」
「ええ、それは認めますわ。けれど貴方たちは神を盲信しすぎね。神は本当に、神殿が語るような素晴らしい存在かしら?」
またか、と私は嘆息しつつ、二人の間に割って入る。今のカタリナは精霊なのだ、恐らくシリルや私たちが知らないような事情を知っているのだろう。ぶっちゃけ私もその辺りは気になるけれど、神子という立場上、ここで堂々とカタリナの味方をするわけにはいかない。
「あー、えっと……私から話を振っといて何だけど、もうちょっとで着くと思うし、おしゃべりはこの辺にしておこうか。ありがとうカタリナ、ごめんね変なこと訊いちゃって」
「構いませんわ。ですが、これを訊いて一体どうするつもりだったんですの?」
「いや、普通に気になっただけだったんだけど……ごめん、やっぱりもう一つ訊いていい? カタリナのお母さんがウィクトリアに降りたのって、どれくらい前のこと?」
私の言葉を訊いて、シリルが訝しげにこっちを見る。カタリナは視線を宙にやり、どこか遠くを見るように答えた。
「私も詳しいことは分かりませんけれど、私が生まれる一年ほど前のはずですわ。……そうね、二十一年くらい前のことかしら」
「……そっか」
やっぱりなぁ、と頷き、私はそっと嘆息する。何となく、そうじゃないかとは思っていたのだけれど……うん、訊かなきゃ良かったかなぁ。
気を逸らそう、と進行方向に視線を向けた瞬間、私は思わず言葉を失った。視界に飛び込んできたのは、小さい頃から何度も何度も通った図書館だとか、そんな見覚えのある風景ばかり。こんなに家の近くに来ていたのに気付かないほど、私は話に夢中だったらしい。
我慢は数歩歩くだけで解けてしまって、気付けば私は家に向かって走り出していた。
◆◇◆
話を終えて黙り込んだニナに視線をやると、彼女は周りの建物を見つめて目を見開いていた。それはそうだろう、ニナが自分の家に向かって歩いているのなら、この辺りもまた彼女にとっては懐かしい場所のはずだ。そのせいか、ニナの歩く速度が少しずつ早くなっていくのが分かる。そうして走り出したニナを、僕は慌てて追いかけた。……そのニナの隣で、精霊たる王女が平然と宙を滑っているのが恨めしい。
横目で窺えばニナの表情は今まで見たことがないくらいに険しくて、けれど今にも泣きそうで、どこか焦っているようにも見えた。やはり両親に早く会いたいのだろう、ずっと話をしていたのは気を逸らすためか。
やがて、ニナは一軒の家の前で唐突に足を止めた。つまり、ここが彼女の生家なのだろう。アネモスの王城と比べればもちろん遥かに小さいけれど、それは比べる対象が間違っている。さっきからたくさん並んでいる、民家と思わしき他の家々と比べれば、ニナの家は大きい方だと言えた。
「ニナ?」
家の扉を見つめたまま、身動き一つしない彼女に、僕は恐る恐る声をかける。ニナはびくっと肩を震わせた後、ゆっくりと僕の方を振り返った。その瞳は確かに潤んで揺れていて、何と声をかけようかと一瞬だけ躊躇う。その隙に、カタリナさんが呆れ顔で言い放った。
「入りませんの? 帰りたかったのでしょう、あと数歩だわ」
「それは、……分かってるんだけど、でも」
こわいよ、と呟いて、彼女は再び扉を見つめる。その扉が、不意に音を立てて開いた。中から出てきたのは、ニナとよく似た顔立ちの女性。彼女はニナを見た瞬間零れんばかりに目を見開き、口を押さえてその場に立ちすくんだ。少しして、指の隙間から、震える声が漏れる。
「…………ニナ、なの……?」
「あ……」
同じくらいに見開かれたニナの目から、透き通った雫が落ちた。
「……お母、さん」
その声が響くと同時、女性はニナに駆け寄ってきて、勢いよく彼女を抱き締める。彼女の腕の中で、子供のように泣きじゃくるニナの声が聞こえた。
「っ、あ……会いたかった、ひっく、お母さ、会いたかったよぉっ」
「ニナ、ニナなのね、本当に……無事で良かった……」
再会を喜ぶ母娘を見つめて、僕は僅かに目を細める。……この二人の涙は、ある意味僕のせいでもあるのかもしれない。アネモスのためにと、かつての僕は一体何を望んでいただろう。ニナのためにと、今の僕は何を望んでいるのだろう。それを思うと胸の奥底、罪悪感のようなものが芽生えた。
こんばんは、高良です。最近眠くて死にそうなのでとりあえず春眠暁を覚えずと言い訳しつつ惰眠を貪っております。
ほとんどカタリナさん回。……いえ、正直どうしてこうなったのかは私にもよく分かりません。まずただの使い捨て悪役だったはずの彼女がどうしてここまでメイン張ってるのかがもう謎です。思いがけず第五部以降への伏線も張れちゃいました。ちなみに彼女の話は、第三部番外編を読んでくださった方ならよくご存知なのではないでしょうか。
さて、ようやく本当の意味で帰ってくることが出来たニナ。けれど今度は真逆の問題が、シリル君とニナを襲います。
では、また次回。




